じゃんけん必勝法
「お前たちにはじゃんけんをしてもらう」
リクライニングベッドの背もたれに身をあずけたまま、父は私たちにそう告げた。病魔に蝕まれてすっかりやせ細った父の目はどこか虚ろだった。以前のような眼光の鋭さはなく重くのしかかった瞼を億劫そうに瞬かせている。しかし、その口調はワンマン社長として辣腕をふるったころとなんら変わらぬ猛々しさがあった。
寝室の張り詰めた空気のなか、私と弟はどちらからともなく顔を見合わせた。
父がこうして二人を競わせるのは今に始まったことではない。幼い時分から私たち兄弟はなにかと勝負をさせられ、その勝敗によって様々な報酬を与えられてきた。弟が現在の役職を得たのも、私がさる財閥筋の息女を妻に迎えられたのもそうだ。人生をより豊かなものにするため、父の命じた対戦に挑み褒賞を勝ち取る。それは私たち二人にとっては当然のものとなっていた。
一回勝負のじゃんけんによって莫大な遺産の分配を決定することにお互い異議などない。遺産争奪戦を当たり前のものとして受け入れ、私たち兄弟は示し合せたように頷く。
一週間後、雌雄を決するため私たちはふたたび寝室に集まった。
ベッドの正面で二人して向き合う。父の傍らには、立会人としてツイードのスーツを着こんだ弁護士が控えていた。
「準備はいいですか」
機械じみた淡々とした弁護士の声に弟が鼻を鳴らす。
「準備? そんなもの必要ねーよ」
そう嘯く弟だったが、几帳面な彼がこれまでのあらゆる勝負のデータを保存していると私は知っている。弟は集積したデータを分析するまでもなく私の癖を熟知していたが、それでもなお念を押して情報を洗う慎重さを持っていた。
また、その性格を私が把握していることをも彼は明確に理解していた。
勝負は一度きり。三回勝負のように、駆け引きによって戦況を立て直し自らに流れを呼びこんだりはできない。様子見をする猶予などなく、最初の一手によって運命の審判が下る。相手が出す手を予測できれば、あるいは特定の手に誘導できれば、すなわちそれが勝ちを意味する。
たった一回こっきりの純粋な読みあいとなれば彼に分があるだろう。裏をかいたつもりがそのまた裏をかかれていたという事態もあり得る。
しかし、私とてこの一週間なにも手をこまねいていたわけではない。この日のため入念に仕込みをし、最善の手を出せるよう手段を講じてきたのだ。
もちろん百パーセント弟を倒せるという確証があるわけではなかった。
しかし勝算は十分にあると私は考えていた。
「こっちもいつでも行ける」
私は手袋を脱ぎ捨て、強く握りこんだ右拳を左てのひらで包みこみながら応じた。
弟は、どんな仕草をも見逃すまいと険しい表情をしていた。一挙手一投足に目を配り、わずかな動きからも感情を読み取ろうとするかのように強い視線でこちらを観察する。
しかし、何を思ったのか急に表情をゆるめると「俺はグーを出す」と高らかに宣言した。
駆け引きの常套手段だ。
弟の言葉を信じた場合の私の手はパー。信じなかった場合は、パーに勝てるチョキを弟が出すと推測して、私はグーを出す。
つまり、私の手はグーかパーになるので、弟はパーを出せば負けはしない。
とはいえ、この定石の知識が私にはあるので弟がパーだという推察から、パーに勝てるチョキを出せばいい。
いや、と考える。それすらも弟による誘導で、彼はグーを出すのではないか。
疑い出せばきりがなかった。裏をかけば裏の裏を、裏の裏をかけば裏の裏の裏をかかれるかもしれないのだ。
どちらが先を見据えられるか、その土俵に上がってしまった時点で彼の術中にはまってしまっている。
ならば、読み合いなどしないことだ。
そうだ、最初から出す手など決定していたではないか。
最善の手を用意していたのだ。迷う必要もなければ迷う余地もないではないか。
腹に力をこめ肺の空気を絞り出すようにしてゆっくりと息を吐き出す。深呼吸で精神を安定させ来るべき瞬間に備えた。
室内を満たすピリピリとした空気は、消毒用のアルコールの冷たいにおいがした。そのなかには、かすかに動物じみた饐えた香りが漂っている。
生物の放つ体臭がかえって死を意識させる。
これが、私たちに父が課した最後の勝負なのだと唐突に実感させられた。遺産を巡る争いが終われば弟と争う理由はなくなる。
父の言葉があったからこそ、父の存在があったからこそ私たち兄弟は己が力を示さんがため勝負に挑んできた。
しかし、もう父は長くない。泣いても笑ってもこれが最後になるのだ。
愛すべき傲慢な父の残す全てを受け取るために、私は勝たなければならなかった。
「それではいきます」
相変わらずの機械じみた淡々とした声で弁護士が終わりの始まりを宣告する。
ほとんど叫ぶようにして私たち二人はそろって掛け声をかけた。
「じゃんけんほい」
しわぶきさえ忘れ静寂が染みついたかのような寝室に、場違いな大音声が響き渡り空気をゆらした。
気づけば私は手を振り下ろしながら目を閉じていた。
まぶたを開けば全てが終わってしまう。
一瞬、ほんの一瞬だけ私はこのまま時が止まればいいのにと願ってしまった。
けどれ、駄々をこねて泣いていれば温かな手が差し伸べられる時代など、とうの昔に過ぎ去ってしまった。
あれから何回となく弟に勝利し、そして敗北し、ときに甘くときに辛い結果を飲みこんできたではないか。勝敗によってもたらされた現実がどんなものなろうと受け入れてきたではないか。それが私の人生だったし、また弟の人生だった。
そして、それは父の半生でもあった。
私たち親子は、兄弟の競い合いと共にあったではないか。ならば、同じように終幕を迎えなくてはならない。
結果から目を反らすことは許されない。
きつく閉じていたまぶたを開き勝敗の行方を直視する。
弟は宣告にたがわず拳を突き出してグーを作っていた。
対して私は全ての指を広げていた。
「……勝った」
思わずつぶやく。
そうだ、私は勝った。最後の試合に勝利したのだ。有終の美を飾り、莫大な褒賞を手中にした勝者として父を送ることができる。。
「待った待った待った」弟が慌てていた。「何を言っているんだ?」
なかば反るようにしてピンとはった人差し指と中指。
残りの三本の指はあらかじめ切り落としてあった。
切断面は縫合してあったが、拠れた皮膚の間からは紅い傷口がのぞいている。
右手の全部の指は開かれていた。これは間違いなくパーだ。
これが私の作戦だった。
パーを出されればチョキで通し、グーを出されればパーだと言い張る。チョキには勝てないが、三分の二の確率で勝利に持ちこめる。
文字通り骨を断った私に対して、無残にも、立会人の弁護士は冷静に言い捨てた。
「いえ、これはチョキですね」
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