壁本にまつわるエトセトラ
壁本という言葉がある。読後に壁に叩きつけたくなるほど、どうしようもない本という意味の俗語だ。主にミステリに対して用いられる言葉だが、他のジャンルであっても面白くなければ壁本となり得る。
私は、わりとどんな小説でも楽しめてしまうほうで、いわゆるバカミスの類いでも納得できるありがたい頭をしている。たとえば、トリックを使用した殺人を犯すために建てられた奇妙な館。冷静に考えてみれば手間がかかりすぎるし馬鹿馬鹿しさの極みなのだが、作者の筆力の為せる技か、強引であるにも関わらずそうであったのかと驚愕し感心してしまう。大掛かりで到底実現不可能なものであっても予想できなければそれでよい。さんざんもったいつけておいて下らないオチであってもその落差が笑いにつながれば許せてしまう。
その手のものでも許容できるのは、私が推理をしないせいかもしれない。ミステリを謳っている小説を好んで読んではいるが、トリックを究明しようだとか犯人を当てようだとか思ってはいない。むしろ、真相についてあまり頭を働かせず、ワトスン役が翻弄されるのと一緒に累積する謎に振り回され、解決編において探偵役が語る内容に仰天するのを楽しみにしている。騙されるために読んでいると言っても過言ではない。幸いなことに私は、読書への挑戦状で立ち止まり、推理を固めてからページをめくるようなタイプではないのだ。真面目に考え抜いたからこそ落胆するということはない。
そんな性格の私であったが、悲しいかな、それでもどうしても受け入れ難い小説というのは存在する。嫌なものについて分析することに労力など注ぎたくはないので、どこがどうダメだったのか言語化はできない。誰にだって好みはあるだろう。嫌なものは嫌なのだ。
たいがいのオチを受け止められるだけに、埒外のものに行き当たったときの憤慨はひとしおだ。壁に勢い良く叩きつけるばかりか、ひどい嫌悪感に支配され本棚に仕舞うのさえ躊躇われる。しかし、どうせ売りに出したところで大したお金にはならない。だから、そうしたとき、私はその本を家の裏手にある畑で焼くことにしている。スコップで小さな穴を掘り、ページを何枚かごとに破り火種とした新聞にくべて行く。音をたて燃えた紙が灰になって熱気に巻き上げられていくのを眺めていると、胸にわだかまった暗い感情が一緒に天へと昇って行くような気分になる。紙を破く音と、炎のたてるちりちりという音が、ゆっくりと私の心を鎮めて行く。
いくら憤懣やる方なかったとは言え、そこまでしてしまうのはさすがにやりすぎなのではないかと自分でも思う。しかし、世の中には自分の好みの展開ではなかったからと作者に脅迫文を送りつける厄介なファンや、ゲームのディスクを物理的に割って写真をネット上にアップロードする者もいる。そうした不届きな輩に比べれば私などいいほうだろう。自分のうちで感情を処理し他人に迷惑をかけていないのだから。
とは言え、壁本に遭遇してしまうのはできるのであれば避けたい。わざわざ好き好んでハズレ本を買うなど愚の骨頂。読書は自分が楽しむためにしているのだから、できるだけアタリを多く引きたい。
書評に頼ったこともあった。しかしヒトの嗜好というのは本当に千差万別だ。巷の評判に踊らされて購入してみたら全くもって面白みを見出だせなかったことがある。高い評価のレビューは、読んで損だったという怨嗟を連鎖させんがためのものではないのかと疑ったほどだ。あるいは逆に、書評での評価は芳しくなかったが存外に良い読書体験をできたこともある。結局のところヒトはヒトでしかなく、周囲の感想などあてにならない。信ずるべきは自分の感性なのだ。まわりに惑わされていては、自分にとって素晴らしい小説を読み逃してしまうかもしれないではないか。
その日も、私は直感に突き動かされとある小説を読んでいた。前々から読もうと思っていた長編ミステリで、休日に一気に読破してやろうと意気ごみ、家事を一通りこなし準備万端でその小説にとりかかった。
けして装飾的ではないが、抑えられた筆致にときおり差しこまれる詩的な表現によって叙情的な雰囲気が醸し出されいた。静かに、ゆっくりと、破滅へと向かって行くように小さな亀裂がひとつひたつと刻まれていく。そして、その緊張感がピークに達したとき、事件の幕があがった。積み上げて来たのが一瞬にして崩れ去り、日常が非日常に変わる。グラスに垂らした一滴の紅いインクが水をまたたく間に染め上げたかのように。鮮烈に、そして、劇的に。
私はすっかり飲みこまれていた。その世界にいるのではないかと錯覚しそうなほどに文章に溺れ、キャラクターに深く感情移入していた。
事件は混迷を極め疑心暗鬼に陥った登場人物はじょじょに憔悴し、なかには精神に変調をきたす者もあった。そんななかにあって、犯人を暴くという目的を見据え挫けることなく邁進する探偵がひどく頼もしく感じられた。どうか早くこの悲劇を終わらせてあげてと祈らずにはいられない。
しかし、話が進めども進めども解決編のやって来る気配がなかった。このあたりで、嫌な予感が漂い出した。
推理小説というのは、どうしても解決のプロセスが長くなるものだ。犯人の名前を告げてはいおしまいとはいかない。ロジックが必要だ。どのようにして他の可能性が潰され、唯一の解としてその結論に至ったのかが示されなければならない。そこをおろそかにしては、読者は納得できないし、そしてまた犯人も罪を認めはしないだろう。
もちろん、
ところがどうだろう。この小説は混迷の森を抜けぬままについに最後のページに来てしまった。
それでもまだ希望はある。いや、ハズレを引いたとは思いたくなかっただけかもしれない。きっと大丈夫だ、そう己に言い聞かせるようにして文章を追う。オチを見逃すまいと慎重に、真剣に一文一文を噛みしめるように読む。
しかし、全ては無駄に終わった。なんだったのだこれまでの文章は、私の時間を返してくれ。そう叫びたい気持ちになった。やるせなさをぶつけるように、壁に向かって右手を渾身の力で振る。ほとんど習い性となった動作だった。
やってしまった。
そう思ったときにはもう遅い。
派手な音をたて激突したスマートフォンは、画面を上にして床に転がった。保護フィルムも役には立たなかったようで、ぶつけた角から広がるようにヒビが入っていた。
これはきっと今までに燃やしてきた本たちの呪いに違いない。
あぁ、電子書籍なんて嫌いだい。
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