十話:雨と喧嘩と家出の話(上)
真昼が天崎古書店に来てから約三か月弱、五月の終わり頃の事。
朝美はふと、かつて見た書類の事を思い出した。
それは真昼の誕生日の項目。
確か六月と書いてあったはずだ。
六月、六月。六月の何日だったか。
あの時の忙しさのせいで忘れていた記憶がこんなところで影響してくるとは思わなかった。
「……真昼さん。真昼さんのお誕生日って、六月でしたよね?」
「誕生日?……なんで?」
「なんで、といいますか……その、お祝いとか、したほうがいいですよね」
特に大きな理由があるわけではない。
誕生日なのだから祝った方がいいだろうとそのくらいの理由である。
しかし、真昼からは意外な言葉が出てきた。
「いいよ別に、誕生日なんて」
「えっ」
「そんな、祝うようなほどのことでもないし……」
真昼は誕生日を祝われることにずいぶん消極的なようであった。
普段の朝美ならここで諦めそうなものである。
だがその時だけは何故か、背を向けた真昼に朝美はなおも食い下がった。
「あの、真昼さん?せっかくのお誕生日ですし、ほら、皆さんも呼んで、お祝いするというのは」
「だから、いいよ、別にさ」
「あの、でも真昼さん」
「いいって言ってるじゃん!」
その声はどこか怒気を帯びているようにも聞こえた。
想定外の事に朝美の体は金縛りを受けたように固まった。
「あ、違う違う、怒ったわけじゃなくって、本当にいいから、ね?」
そう言って振り向いた真昼の顔はいつもの笑顔のようであった。
しかし、朝美には先程の怒ったような声が頭から離れなかった。
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「え?まひるんの誕生日?」
次の日、
朝美は真昼がいないうちにこっそりと真昼の友達に誕生日の事を聞いてみることにした。
もしかしたら友達になら何か教えているかもしれないし、なによりなんとなく、ここで引き下がってはいけないような気がしたからだった。
「そういえば聞いたことあるっけ?」
「……真昼、誕生日の話になると、いっつも話逸らす」
「そうだったですっけ?」
どうやら彼女たちにも全く教えていないらしい。
「あの、朝美さん。真昼ちゃんどうかしたんですか?」
「え……?」
「なんか、真昼ちゃん。こう、いつもと違う気がして……」
玲奈はそう言うが、どこか違っただろうか。
確かに昨日は一瞬怒ったような声を出したが、それ以外は普通だったように感じた。
私が、気付いていないのだろうか。
「あ、あの、朝美さん、私の気のせいかもしれないから、あんまり気にしないでください」
「……あ、はい。大丈夫ですよ」
そうは言うが、朝美は何が大丈夫なのか、何が大丈夫でないのか。
自分でもよくわからなかった。
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「真昼さん、晩御飯は何がいいですか?」
「……」
「……真昼さん?」
「みんなにわざわざ誕生日の事聞きに行った?」
真昼はいつも通りに……いや、いつもと少し違う雰囲気で、だろうか。
どちらだかよくわからなかったが、朝美に今日の事を聞いてきた。
「……ええと、はい。気になったもので」
「私いいって言ってるじゃない。別に誕生日とか祝ってもらわなくても私十分だからさ」
真昼は苦笑いしながら朝美にそう言う。
何故か、朝美はその言葉に対して反論をしたくなった。
「そうは言いましても……やっぱり、普段とは違う日なのですから……」
「何にも変わんないよ、年を取るだけでしょ?」
「それは、そうですけど……」
真昼はかたくなに誕生日を祝われることを拒否しようとする。
「真昼さん。なにか、理由でもあるのですか?」
「別にないってば」
「だったらなんでそんなに嫌がるんですか」
「別に嫌がってるわけじゃなくって、いいって言ってるだけでしょ」
「だったら祝わせてください」
「いいってば!」
今まで真昼とこんな会話をすることはなかった。
何故そこまで嫌がることがあるのか。
「なんでですか!」
「うるさいなもう!!」
朝美には、真昼のことがわからなかった。
「……」
「……」
「だから、その……うん、ほら、私、別に、年取るとか、嬉しいわけじゃ、ないからさ」
そういう真昼は、もはやいつも通りには見えなかった。
でも、何故そう見えないのかは、やはりわからなくて。
自分はもしかして、真昼のことを何も知らないんじゃないかと思い始めた。
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「……」
「朝美さん、どうかなさいましたか」
「……真昼さんのことが、わからないんです」
カフェ天の川にやってきた朝美は、マスターに声をかけられ、ぽつりと漏らした。
「誕生日を祝ってほしくないって……年を取ることが嬉しくないって……真昼さんくらいの年齢で、そんなことってあるのでしょうか」
「ふうむ……」
マスターは白髭をさすりながら考える。
朝美は自分でも気付かないほどショックを受けているようだった。
「まあ、人それぞれ考え方があるものでしょうね……とはいえ、そう思うに至った理由はあるのではないかと思いますが」
「……私はどうすればいいのでしょうか」
「さて、それは……難しいものですね。本人は放っておいてほしいのかもしれないし、むしろ踏み込んでほしいのかもしれない」
自分にはそんなことわからない。
真昼の気持ちが、自分にわかる気がとてもしなかった。
真昼が逃げていってしまうのであれば、自分だけが歩み寄っても仕方がない。
「朝美さん、時間をおくにしても踏み込むにしても……歩み寄ろうとする気持ちは持ち続けた方が、私はいいと思います」
そんな気持ちを見透かしたようにマスターは言う。
そして優しく微笑んだまま朝美をなだめるように続ける。
「きっと朝美さんと真昼さんならすぐにまたわかりあえますよ」
「……はい」
本当に、自分は真昼とわかりあっていたのだろうか。
そんな気がしていただけなのではないだろうか。
そんな考えばかりが頭をもたげてくる。
なんだか、真昼と出会ってから得たと思ってきた物が全て零れ落ちていくような気がした。
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日曜日の昼時。その日はなんとなく、朝から薄暗い日だった。
「真昼さん、今日のお昼ご飯は、一緒に作りますか」
「……ん、今日はいいや。お姉ちゃんに任せる」
そう言われ、朝美は一人で料理をし始める。
なんだかとても久しぶりに一人で料理をしている気がした。
実際はそんなことはなく、時には一人で作ったりもしているはずなのだが、何故かそういう気持ちになった。
作った料理を並べ、食事をし始める。
箸のなる音だけがしばらく食卓に響いた。
「……あのね、お姉ちゃん」
「……はい」
「んん、その、誕生日のことなんだけどさ」
「……祝ってほしくない、という気持ちは、わかりました」
「……うん」
そこで会話が途切れる。
朝美には真昼が今、自分の料理を美味しいと思って食べているのかどうかすらわからなくなっていた。
「真昼さん、その、祝ってほしくない理由とかは、あるんでしょうか」
「……」
「……」
そうしてまた会話が途切れる。
朝美は、ふと思い出す。
両親と喧嘩した日のことであった。
そう、確かあの時はほしかった本を買ってもらえなかったことに自分がいじけたのだ。
今考えると私が悪かった気もするが、あの時は両親に向けたどうしようもない感情だけが渦巻いていた。
「……ごめん、でも私……」
「なんというか。本当にそっくりですね」
朝美の脳裏に、かつて両親と喧嘩した時もこんな風に沈黙の時間ばかりが続いたことが浮かぶ。
だからそれは、ほんとに何気ない一言だったのだ。
「こういうところ、本当に両親にそっくりです」
「……」
真昼が何かをつぶやいたように聞こえた。
朝美は、真昼のつぶやきを聞こうとした。
次の瞬間、真昼が立ち上がり、叫ぶ。
「お父さんとお母さんのことを悪く言わないでよ!!」
「え、あ……」
「……ごちそうさま」
真昼はそう言って食卓を後にする。
彼女が食事を残したのを見たのはこれが初めてだった。
いや、それ以前に。
真昼があんなに怒ったのを見たのは、初めてだった。
「……真昼さん」
『お父さんとお母さんのことを悪く言わないでよ!!』
そんなつもりは全くなかったのだが、思い返してみれば確かにそうとることもできたかもしれない。
朝美は真昼に謝りに行こうとしたが、足が震えて動かなかった。
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「遊びに行ってきます」
それからしばらく経った後、真昼はそう言って古書店を出ていった。
今の朝美に、真昼を呼び止める勇気はなかった。
真昼が帰ってきたらまたしっかり話そう。
そう思って朝美は本を読み始める。
「……」
しばらく本を読み続け、我に返った頃に時計を見る。
普段であれば数時間は減っている時計の針が十分と経っていなかった。
「……」
それからまたしばらく本を読み続ける。
ふと時計を確認すると、五分も経っていない。
「……おかしいな」
朝美は本を置いて軽くため息をつく。
なんだかそわそわして落ち着かない。
不思議と嫌な予感もした。
それは昔の自分の事。
本を買ってもらえなくていじけたあの日、自分は家を飛び出した。
もしも、真昼が同じように考えていたとしたら。
「……真昼さん」
朝美は真昼を探しに行くことにした。
気のせいならそれでいい。
でも何故だか、真昼の事を探さなければいけないような、そんな気がした。
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「まひるん?来てないよ」
「……今日は、来てない」
「うーん、会ってないです」
「えっと、今日はみんな遊ぶ約束してないと思いますけど……」
四人の友人たちに電話で聞くも、結果は空振りであった。
朝美はとりあえず少し外を歩いてみることにした。
もしかしたらそれで見つかるかもしれない。
鍵は持っているはずだからすれちがっても大丈夫のはずだ。
「どこに行ってしまったんでしょうか」
ふと考えてみると、真昼がどこへ遊びに行ったか、なんて最初は気にしたこともなかった。
始めの頃は、むしろ相手をする必要がなくて楽だとすら思っていた気がする。
「あれ?朝美さん、どうしたの?」
振り向くと、そこにはゆかりがいた。光も一緒だ。
朝美は二人に駆け寄る。
「あ、あの。真昼さんのこと、見かけませんでしたか?」
「真昼ちゃん?さあ、見てないけど」
「どうかしたのか?」
「あ、いえ、その、忘れ物を届けようかと思っていたのですが、行き先を聞くのを忘れてしまいまして」
もちろん嘘だ。
ただの自分の勘違いかもしれないのに、誰かに手伝わせたりするのは躊躇われた。
それに、自分が怒らせたのならば、自分で探さなければいけないという気持ちが朝美の中にあった。
「ふーん。まあ、真昼ちゃんはうちのと違ってしっかりしてるからね」
「そう、ですね……いえ、恵さんも、いい子ですよ」
「いやいや、やっぱ真昼ちゃんとは違うって」
確かに真昼はとてもいい子だ。
そんな彼女を自分は怒らせてしまったのだ。
「でも真昼ちゃんってなんていうか、すごいよね」
「すごい、ですか……?」
「だって、お父さんとお母さんが亡くなったんでしょ?でも、全然そんなそぶり見せないもんね」
朝美は頭を揺さぶられるような感覚を覚えた。
それは朝美も考えていなかった、いや、考えないようにしていたことなのかもしれなかった。
「ゆかり、あんまりそういう話題出さない」
「あ、ごめんなさい……朝美さんにとってもお父さんとお母さんだったよね……」
「ごめんね朝美さん……朝美さん?」
怒った顔を見たことがない?
それだけじゃない、私は。
あの出会った日から、葬式の日、初めて長く会話した日、今日にいたるまで。
真昼の泣いた顔を、一度も見たことがない。
「あ、あの、本当にごめんなさい朝美さん」
「その、ゆかりも悪気があったわけじゃなくて……」
ゆかりと光が申し訳なさそうに朝美を見る。
朝美は少しだけ首を振って、自分の意識を揺り戻した。
「いえ、違うんです……その、上手く説明できませんけど……」
そう、私は全然辛くない。辛くなかった。
ずっと離れていた両親が死んでしまっても、実感なんて全く湧かなかった。
でも真昼は違うのだ。
真昼はずっと一緒に暮らしていた両親が、急にいなくなった。
それなのに真昼は一度も悲しそうな顔をしなかった。
だから、いつのまにか勘違いしていたのだ。
真昼も、自分と同じように、少なくとも今はもう辛くないのだと。
そんなわけがない。
そんなわけがなかったのに。
やはり自分はすっかり真昼の事をわかった気になっていただけだった。
「……あの、ゆかりさん、光さん」
「あ、朝美さん、本当に大丈夫?」
朝美は少しだけ唇を噛んでから、二人をまっすぐ見る。
「心配してくれてありがとうございます。また、今度女子会に行きましょう」
そう言って、微笑みながら、なんでもないように二人と別れる。
そして、二人が見えなくなったあたりで、朝美は少しずつ走り出した。
真昼に会って、謝らなければいけない。
ずっと、無理をさせて笑わせていたことを、謝らなければいけない。
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