一話:天崎古書店と少女と野菜の話
暖かな風に植林された桜が揺れる。
煉瓦で舗装された道が薄い桜色に染まっている。
星空商店街。最寄駅からやや離れたところにあるその商店街は、小さくも住民に支えられ活気のある商店街である。
その一角にある古本屋、天崎古書店。
おとなしい店主が一人で経営している小さな古書店である。
店主は客が来るまでただ店にある本を読んでいる。
それほど客は多くはないし古書は滅多に売れないが新書の売り上げがそこそこある為、生活する程度の金は問題なくある。
そんな天崎古書店に変化が訪れる。一人の少女が天崎古書店に住まい始めたのだ。
しばらくは様々な噂が飛び交ったが、自分は店主の実の妹である、と他ならぬ少女本人が商店街のあちこちに挨拶に回った為、古書店の店主にあらぬ疑いがかけられることは避けられた。
それが三月始め頃の話。ちょうど新学期から少女は近くの小学校に転入するだろう、という噂が代わりとばかりに飛び交った。
そして四月になった頃、少女は新しく三年生として星空小学校に転入した。
「……」
それからさらに一週間ほど経った今、天崎古書店の店主……天崎朝美は今までと変わらず店の奥にあるレジの前の椅子に座り、本を読んでいた。
朝美は、正直この一ヶ月間ほどの間、自らのこの静かな時間が壊れてしまうのではないかと内心不安で仕方がなかった。
しかし、新しく住まい始めた彼女の妹……天崎真昼は非常にできた少女であり、基本的に礼儀正しく自分のことは自分でする上、朝美の時間を特に邪魔するようなこともなかった。
真昼はアウトドアな性格らしく、朝食や昼食の後には散歩に行き、インドアな朝美と顔を合わせる時間は食事時と夕方以降くらいであった。
そして真昼が小学校に通うようになった今、本格的に朝と夕方以降ぐらいしか顔を合わせる時間がなくなり、朝美は非常に安堵していた。
どうなることかと思っていたけれど、これならなんとか今まで通り暮らしていける。朝美はそう考えていた。
「お姉ちゃん、ただいま!」
「おかえりなさい、真昼さん」
朝美は一瞬本から目を離して真昼を見る。
真昼は風のように朝美の前を通り過ぎると、桜色のランドセルを店の奥の居住スペースに置いてすぐにまた戻ってきた。
「お姉ちゃん、今日はおつかいある?」
「いえ……今日は、特には。家にあるもので済ませようかと」
真昼はぴょんぴょこ飛び跳ねるように近づき、レジの乗った机によりかかって朝美の顔を覗き込む。
朝美はたじろいで、真昼からほんの少し目を逸らした。
「それじゃあまた出かけきていい?」
「あ、はい。また、お散歩ですか」
「ううん、友達と遊ぶの!」
「え……もう、お友達ができたんですか」
まだ学校に通い始めて一週間しか経っていないのに。朝美は思わず真昼を信じられないという目で見た。
真昼はそれに気付いてか気付かずか、真っ直ぐな笑顔を朝美に向ける。
朝美は、また思わず真昼から目を逸らした
「うん、だからこれからみんなで遊ぶんだ」
「そ、そうですか……ええ、楽しんで、きてください。気を付けて」
「はーい、いってきまーす!」
真昼はそういうと大きく手を振りながら古書店を出て行った。
朝美は真昼が見えなくなると、ふうとため息をついて再び本に目を通す。
先程の真っ直ぐな笑顔が頭に浮かび、なんだか心がもやもやした。
本に集中できず、それをぱたんと閉じてレジの横に置いた。
「……はあ」
そう。今まで通り暮らしていけると思っていたのだ。しかし、そうではなかった。
日に日に真昼の存在は大きなものとして朝美の前に立ちふさがってきた。
例え接する時間が短くとも、やはりそれは今までとは全く違う時間で、朝美は自分の時間が奪われていくような感覚を覚えた。
「……どうすれば、うまくやっていけるんだろう」
あの子と暮らすのが嫌というわけでは、ないのだ。
ただ、どうやって接していけばいいのかがわからないのだ。
どこかに子供の接し方でも書いた本でもあっただろうか。探してみようか。
朝美がそんなことを考えていると、扉が開く音がした。
そちらを見ると、一人の少女が店内に入ってきて、きょろきょろとあたりを見回している。
年齢は真昼と同じくらいだろうか。
サイドポニーとTシャツとズボンの姿は真昼よりも快活そうな印象を与える。
少女と朝美の目が合う。朝美はなんとなく"しまった"と思った。
その予想は当たっていると言わんばかりに少女はずんずんと朝美に近づいてきた。
「ねえ!真昼いる!?」
「みっ……」
突然声をかけられた朝美からよくわからない声が漏れた。
この店に普段、子供だけが客として来ることは滅多にない。
加えて、全く商売が絡まない会話もここのところ殆どしていない。
そのせいで朝美はたじろいでしまった。
「み?」
「え、と、いえ、その、こほん……さ、先程、遊びに、いきましたが」
「ありゃ、すれちがっちゃったか」
少女はうーん、という面持で顎に右手を添えながら回るように歩いた。いや、歩くように回ったというべきか。
つまり、この子が真昼の友達であるらしい。
「真昼どこいったかな」
「いえ、その、私は、知りませんが」
「妹がどこ行ったか知らないってちょっと不用心じゃない?」
確かに。
子供に正論を言われてしまった。
「それにしても姉ちゃん、本当に真昼そっくりだね!!」
「え、そ、そうでしょうか……そんなに、一目でわかるほど似てますか?」
「びっくりするほど似てる」
「……」
今まで意識はしてなかったが、姉妹なのだから似ていてもそれほど不思議はない。
しかしそれは外見だけの話だ。中身は少しも似ていない。
私が子供の頃にはこんな活発な友達はいなかったし、今でも出来る気がしない。
真昼はこんな友達をたった一週間で作れるのだ。
やはり私とあの子は、違う。
朝美の頭の中をそのような思考が埋め尽くした。
「姉ちゃん、姉ちゃーん、大丈夫?元気ない?」
「……あ……い、いえ、はい、大丈夫、です。ごめんなさい、少しぼーっとしてしまって」
「姉ちゃん、そういう時はさ、野菜食べな野菜」
「え、野菜?」
唐突な発言に朝美は一瞬聞き間違いかと思った。
少女はまるでそんなことを気にしないように持っていたカバンを探って中のものを取出し机の上に置いた。
「きゅうり、あたしのおごりだ。食っていいぞ」
「きゅうり」
朝美は少女の言葉をオウム返しして机の上のものを見た。
確かにきゅうりだ。紛れもなくきゅうりである。
形は曲がっており、あまり綺麗ではないがほどよい太さのきゅうりである。
「あ、あの、え……きゅうり……?」
「なに、まだほしいの?ほしがりさんだなー」
そういうと少女はさらにもうひとつ机の上にきゅうりを置いた。
二本のぐにゃりと曲がったきゅうりが本屋のレジ横に転がっている。
朝美は少女の笑顔ときゅうりを交互に何度か見返したが、困惑の感情がまるで消えない。
「ささ、遠慮せず」
「い、いえ、あのですね」
「まさか野菜が食べれないというんじゃないだろうな!」
「あの」
「野菜食べないとだめだぞ!!」
「あ、は、はい」
朝美はきゅうりを二本とも持って少女に軽く苦笑いしてみせると居住スペースにあるキッチンへと向かい、一本を冷蔵庫の野菜室に入れてもう一本を水で軽く洗った。
きゅうりを洗っている最中に何故自分はこんなことをしているのだろうかと考えなくもなかった。
そしてそのきゅうりを持ったまま店へと戻ると、先ほどの少女がきらきらした顔のまま待っていた。
「あ、あの、それではその、きゅうり、いただきます」
「うむ!」
朝美はきゅうりをそのままかじる。
確かにきゅうりだ。紛れもなくきゅうりである。
きゅうりをかじっている最中に何故自分はこんなことをしているのだろうかと考えなくもなかった。
「おいしい?おいしいな?きゅうりだもんな!おいしいよな!」
「は、はい、おいしいです」
朝美にはそう答えないと面倒なことになるだろうという予感があった。
まあ実際のところ、普通においしいきゅうりではあったので嘘ではない。
少女はその答えを聞くとぱあっと輝かんばかりの笑顔を見せた。
「まあうちのきゅうり美味しいからなー、当然だよなー!」
「うちの、ですか?」
「あれ、まだわかってなかったの?八百屋の小清水だよ!姉ちゃんうちによく来るじゃん!」
星空商店街の八百屋といえば、八百屋小清水だ。朝美もよく利用している。
先程から妙にフレンドリーだとは思っていたが、少女は自分の事を知っていたらしい。
そういえばたまに小さな娘が接客のようなことをしていたような気もするな、と朝美は思った。
「姉ちゃんうちのきゅうりもっと欲しいならもっとあるぞ!食うか!遠慮するな!商品にならないのおやつにもらってるだけだから!」
「あの……それはいいんですが……」
「いいってどういうことだ!!野菜ちゃんと食べないとだめだぞ!!」
「いえ、真昼さんとの、約束は、いいんでしょうか」
「あ」
少女はすっかり忘れてた、という顔をした。
そしてしばらくその場でうんうんと唸ったあと、ばっと朝美の顔を見た。
またしても朝美はその様子に少し怯んでしまった。
「そうだった!あたし姉ちゃんに真昼の場所聞こうと思ってたんだった!でも知らないんだっけ!どうしよう!」
「どうしようと、言われましても……」
「あー、ほんとにいたー!」
聞き覚えのある声がした店の扉の方を振り向くと、そこには真昼がいた。
そしてその後ろにはさらに同年代の、和風の人形を持った長い髪の少女と外国人のような金髪の少女がいる。
真昼たちを見るなり、野菜の少女は駆け寄ってはしゃいだ。
「まひるんー!めぐちー!エマ子ー!」
「もー、由希ちゃん来ないと思ったら約束の場所忘れたってなにやってんのー」
「てへっ」
「……由希のお母さんに聞いたら……ここだって……」
「由希さんはいつもうっかりさんですねー」
真昼だけではなく、後ろの少女たちもすぐさま輪に加わってきゃいきゃいと騒ぐ。
ああ、友達と遊ぶときは真昼はああいう顔をしているんだな、と朝美は何気なく思った。
「ていうかなんでうちに来たの?」
「いや、真昼の家にだけは行ったことなかったからこの際行っておこうかと」
「……アホなの……?」
「純粋な好奇心と呼んでいただこう!」
「ほら、お姉ちゃんの仕事の邪魔だからもう行こう」
真昼は朝美を少しだけ見て申し訳なさそうに笑いながら少女たちの背中を押して外に追いやろうとする。
人形を持った少女は無抵抗気味に、金髪の少女は楽しそうに笑いながら押されていく。
そして野菜の少女はといえば。
「姉ちゃーん!また遊びに来るからねー!」
「こら由希ちゃん!!もう!!」
そうして、朝美が何かを言う暇もなく少女達は騒がしく去っていった。
店の中は再び静寂に包まれ、朝美の手に齧りかけのきゅうりだけがその名残として残っていた。
今までの事はすべて夢だったのではないかとさえ思えてくるほどの落差があった。
朝美はなんとなくきゅうりをもう一度かじる。
確かに現実だ。紛れもなく現実である。
野菜の少女……"ゆき"と呼ばれていた彼女。
本当にまた来るのだろうか。
ぼんやりと店の天井を見上げながら、またきゅうりをかじる。
とりあえず、今後真昼が出かける時は必ず行き先を聞くようにしよう。また彼女が来てもすぐに行き先を告げられるように。
朝美はそう決意して、残ったきゅうりを晩御飯にどう利用するかを思案し始めたのだった。
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