いい湯だな② 汚れっちまった悲しみに
一般にお風呂と言えば、白い泡やバスクリン色の湯船を想像します。溢れんばかりにフローラルな香りを漂わせる空間は、不潔と言う単語から最も掛け離れた場所です。
一方で(作者のように)心の汚れた大人は、「風呂」と言う単語に別の施設を思い描きます。頭に浮かぶのはローション
ドン引きした女性陣に釈明させてもらうと、江戸時代初期には「風呂=18禁な場所」と言うイメージが正常でした。今からは想像出来ませんが、
江戸に誕生したばかりの頃、銭湯には
色々とサッパリさせてくれる
お
ちなみに非合法的に春を売っていた
更にけしからんことに、江戸時代の銭湯は混浴でした。前回紹介した通り
しかし急に男湯と女湯を分けろと言われても、経済的に難しいものがあります。大前提として、もう一つ湯船を作るのには費用が掛かります。今まで以上に水や薪を使うことになってしまうのも、銭湯にとっては痛いところでした。
何より長年続いてきた習慣は、おいそれと変わるものではありません。
業を煮やした幕府は、
歴史の授業でお
(※1→地方農民が江戸に移住することを禁じた法令。同時に江戸に居住していた農民を故郷に返し、地方の農村を復興させようとした)
(※2→現在の『カルテル』に相当する株仲間を解散し、自由競争を促進しようとした政策。実際には市場を混乱させ、景気を悪化させるだけに終わった)
固く混浴を禁じられた銭湯は、様々な方法で幕府の意向に沿おうとします。経済的に男湯と女湯を設けることが難しい店は、時間帯で男女を分けました。また日によって男性専用、女性専用と切り替える銭湯や、思い切って男湯だけ、女湯だけにしてしまう店も現れたと伝えられています。
男湯と女湯が分かれて以降、前者の二階には有料の座敷が設けられました。そこは男性専用の休憩場で、利用料は250円程度だったそうです。
座敷に上がった男性客には、茶や菓子が
幕府の弾圧によって大分数は減りましたが、混浴の火が完全に消えることはありませんでした。
事実、ペリーの
時代が明治に変わっても、混浴はなかなかなくなりませんでした。
現に明治政府は、何度となく混浴を禁止する通知を出しています。近代国家を目指す明治政府にとって、西洋的な道徳観から外れた混浴は忌むべき習慣だったのかも知れません。
結局、日本から混浴の銭湯が姿を消したのは、明治の中頃のことでした。更に前回紹介した通り
第一弾から二回に渡ってしまった今回のシリーズ、飽きずにお楽しみ頂けたでしょうか? 今後も幅広いムダ知識をお届けする予定ですので、宜しければお付き合い下さい。って言うか、もう女性からの支持は期待出来ないような……。
参考資料:週刊江戸№2 (株)デアゴスティーニ・ジャパン刊
東京銭湯/東京都浴場組合公式ホームページ
http://www.1010.or.jp/
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