第4話 魔人解放③

 きっかけは、一体何だったか。

 牢の壁によりかかるようにして床に座り込み、頬や腹に感じる鈍痛をどこか他人事のように感じながら、フュリオは漫然と思考する。

 ああ、そうだ。思い出した。食事中、まずそうな顔をしていたのが気に入らない、確かそんな理由だった。


 事実、ここの飯はまずい。家畜の方が上等な餌をもらっているのではないかと思えるレベルだ。だが、今日が特別まずかったわけではないので、俺の表情はいつもと変わらなかったはずだ。

 ようするに、理由など何でもいいのだ。機嫌がよかろうと悪かろうと、気が向いた時にこの看守は俺を痛めつける。この前など、最近運動不足だから、という理由で殴られた。

長年の経験で、抵抗しないことを知っているのだ。

 実際、俺は抵抗しない。そうできない理由がある。


「化け物の分際で、飯を与えられるだけありがたく思え!」


 看守の足裏が腹にめりこむ。それなりの痛みはあったが、フュリオは決して声を上げたりはしなかった。それが、彼にできる唯一の抵抗でもある。

 表情一つ変えないフュリオを見て、看守の男は不快そうに顔を歪める。だが直後、唇の端に嗜虐的な笑みを刻み、再び足を振り上げた。

 すると、


「おやめなさい!」


 鋭く、甲高い声が地下牢を貫いた。何年かぶりに聞いた女性の声に耳がきんとなり、フュリオは思わず顔をしかめる。

 一方、突然現れた金髪の女性を見た看守は一瞬、表情を凍りつかせた後、激しく動揺をあらわにした。つかつかと足音を響かせながら、女性は看守の前まで歩み寄る。


「これは、陛下……」

「あなたは、いつもこのような行いをしているのですか?」

「いえ、そのような……今日はこの男が脱走を企てようとしたもので……」

「……そうなのですか?」


 女性からの問いかけるような視線に、フュリオは無言を通す。ただ、看守の懇願するような哀れな視線が愉快で、ついつい口角がわずかに上がってしまった。


「陛下、詳しい説明は外で……」

「今回の件についての処分は一旦、保留とします。彼と話がしたいので、あなたは席を外してください」

「お、お待ち下さい! この化け物と一緒で万が一、陛下の身に何かあっては……!」

「その心配はないわ。あたしがいるし」


 また、別の女性の声。フュリオは顔を動かさず、視線だけで声の出所を探る。

 いつの間にか牢の入り口付近にもう一人、別の女性が立っていた。

 額に刻まれた精霊紋から、彼女が人ならざる存在であると一目でわかる。


「そういうことですから、心配は無用です。それとも、私と彼が二人で話すと、何か都合の悪いことでもあるのですか?」

「そ、そういうわけでは……」

「では、席を外してください」


 先ほどよりも強い口調で再度、退場を促す。看守は金髪女性とフュリオの間で何度か視線をさまよわせた後、やがて苦虫を噛み潰したような顔で地下牢を去って行った。


「……久しぶりですね、フュリオ・ローランド」

「誰だ、あんた?」

「ミリアです。こうして会うのは10年ぶりですね。覚えていますか?」

「忘れたな」


 乱雑に伸びた黒い前髪の隙間から、フュリオはほの暗い光を宿した瞳をミリアに向ける。

 実のところ、フュリオはミリアのことを覚えていた。だが、記憶の中にある彼女の姿はすでにおぼろげで、目の前にいる女性が同一人物だと言われても、イマイチぴんと来ない。

 そういう意味では、忘れたというのもあながちウソというわけではなかった。


「そうですか。ですが――」

「妹は? 無事なのか?」


 ミリアの言葉を遮り、質問を投げつけるフュリオ。ミリアの隣に立ったライコウは「失礼な奴」と眉をひそめた。


「無事です。ただ、相変わらず眠ったままで……あの日以来、一度も目を覚ましません」

「そうか……。で、俺に何の用だ? 様子を見に来たってわけじゃないだろう?」

「それではいけませんか?」

「檻に入れた化け物を鑑賞する趣味でもあるのか。随分と悪趣味だな、陛下」

「あなたが父や私を憎んでいるのはわかっています。しかし、あの時はこうするより他にありませんでした。あなたの命を助けるために、父がとった苦肉の策です」

「もちろん、感謝しているさ。温かい寝床に食事まで用意してくれて、おまけに看守の手厚いもてなしつきだ」


 淡々と皮肉を並べられ、さすがのミリアも言葉に詰まる。その間を縫って、ライコウが口を挟んだ。


「まぁ、仕方ないんじゃない。あんたみたいな匂いのする奴放っておいたら、普通の人間は黙っていないでしょ」

「お前ら精霊に言われたくはないな」

「つくづく失礼な奴……」

「ライコウ」


 ミリアにたしなめられ、ライコウは不満そうな顔をしつつも口を閉ざす。


「無駄話がすぎました。あなたの言うとおり、様子を見に来たわけでも、過去について弁明しに来たわけでもありません。私は、あなたをここから出すために来ました」

「いよいよ処刑か」

「そうではありません。最近、『門』から現れる魔物の数が急激に増えています。今いる兵だけでは防ぎきれません。あなたの力を貸してほしいのです」

「そうかい。王国騎士団も随分と弱体化したもんだ」

「アルマギカ帝国との国境線も緊張が高まっています。少しでも戦力が必要なのです」

「そりゃ難儀なことだな。ロンネルやイスカもさぞかし苦労してるだろう」

「死にました」


 これまで座り込んだまま微動だにしなかったフュリオが、初めてぴくりと反応した。

 ゆっくりと顔を上げ、ミリアと視線を合わせる。


「ロンネル伯は二年前、イスカ伯はおよそ半月前……どちらも、魔物との戦いで……。お二人ともずっと、あなたと妹君の身を案じておりました」

「……そうか。死んだのか」


 呟くようにそう言って、フュリオは再び視線を元の位置に戻す。

 長い沈黙が続いた。


「改めて、協力していただけませんか?」

「断れば妹の命はない、か?」

「そういうつもりでは……」

「あんたにそういうつもりがなくても、部下はどうかな。俺を釈放することについて、同意を得られているのか。もし得られているとしたら、そいつらはいざとなったら妹を人質にとるくらいのことは考えているはずだ」

「そんなことはさせません」

「信じられると思うか?」

「今は信じていただくより他にありません。あなたとはこれから、時間をかけて信頼関係を築いていきたいと思います。かつて、私の父とあなたの父君がそうであったように」


 再び、沈黙が下りる。

 どこか遠くへ思いをはせるように、虚空に視線を漂わせるフュリオ。

 そんな彼を見つめながら、ミリアはじっと答えを待った。


「お取込み中悪いんだけどさ」


 だが、そこで。

 険しい顔つきで二人の様子を静観していたライコウが、それまで以上に表情を険しくする。


「一度、地上に戻った方がいいみたい」

「どういうことです?」

「『門』に反応があったって」


 その言葉に、ミリアが目を見開く。

 直後、猛獣の唸り声にも似た地響きが、地下牢の空気を震わせた。

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