第5話
「僕は夢を見ていたんだ」
入学式を終え、眠子の車椅子を押しながら教室に向かう。
いやー夢なら仕方がない。きっと校舎の不気味な外観だけを見て気絶してしまっていたのだろう。ともあれ、これから始まる高校生活は平々凡々、例えばこの眠子とちょっといい感じになったりならなかったり、甘酸っぱくもほろ苦い青春を謳歌することができそうだ。あーよかった安心したスパイなんて幻だったんだそういうことで。
「おかしいですねぇ」
眠子がぽつりと呟いた。
「なにがおかしいっていうんだい? なにもおかしくはない。君みたいないたいけな少女があろうことかバルカン砲をぶっ放すなんてありえないし、校長がまさかあんなヤクザみたいな風貌だなんて信じられないじゃない。そうだろ?」
「新入生は十三人、って聞いていたんですけどぉ」
ガン無視された。
眠子は僕らの前を歩いている極々平凡な新入生を指で一つ一つ数えていく。
「ん〜、少なくとも十三人以上はいますよねぇ」
「ぱっと見でわかるよね」
数える必要あった?
「鬼怒川くん、どう思いますか?」
「……はぁ」
どうやら、夢で片付けさせてはくれないらしい。
「どうって……なんか、変だよ。そもそも梅宮はどこ行ったんだ。あいつは僕の叔父だし、この学校の校長だってことは間違いない。なのに、入学式で登壇した校長はまったくの別人だった。もしかして、式場を間違えたとか?」
それに、例のアリサさんも入学式にはいなかった。新任教師が席を外しているなんてことは考えにくいし、僕の見間違いではない。あのおっぱいを間違えるはずがないからだ。車椅子を押す腕をピンと伸ばしてちょっとだけ前のめりになる。
「なにか変なこと考えてません?」
「考えてません」
勘の鋭い女だ。伊達に殺人用車椅子に乗ったスパイではないらしい。
「だいたい、眠子さんがぶっ壊した壁とか椅子とか、そのまんまだったし」
「壊したのは鬼怒川くんじゃないですかぁ」
「誰もグリップが引き金だなんて思わな……ん?」
よく考えてみると、それはおかしい。
補助者用のグリップを握るのは当然、補助者──車椅子を「押す人」だ。
つまり、車椅子に座る眠子ではない。
「ああ、気づいちゃいましたぁ?」
僕が黙り込むと、眠子はなにかを察したのだろう。すっと立ち上がった。
立ち上がった……立ち上がった!?
「ね、眠子っ、眠子が立った!」
「あわよくば教室まで運んでもらおうと思っていたんですけど、さすがに聡いですねぇ」
彼女はくすくすと笑いながら、自分の足で車椅子の後ろに回った。
「あ、歩けるの」
「はい。車椅子に乗っていた方が、向こうは油断するのでぇ」
な、なんて策士……銃をぶっ放さなければ気づかなかった。
「鬼怒川くんが押しますかぁ?」
「いや、遠慮しとく」
また暴発させたらたまらないからな。
眠子は笑って、僕が放したグリップを握り無人の車椅子を押し始める。
「でも、よく気づきましたねぇ。まるで、探偵みたいですぅ」
「探偵だったら眠子さんが立てることまで言い当てられるでしょ。僕はただ殺人用車椅子の構造上の問題に気づいただけで、むしろ君と押す人、二人で一人なんじゃないかと思ってたくらいさ。子連れ狼みたいにね……あ」
「どうかしましたかぁ?」
今、なにかが引っかかった。
二人で、一人。そうだ。そういう場合も、なくはないんじゃないだろうか。
十三人と聞いていた新入生が、百人はいた。
「眠子さん、時計持ってる?」
「もちろんですよぉ。この殺人用車椅子は最先端の技術が詰め込まれていましてねぇ、背もたれの部分にあるボタンを押すと……ほらこの通りですぅ」
ウィーンガチャガチャという音が鳴り、車椅子から出てきたのはiPadだった。
「最先端だね」
「でしょ〜?」
最初に気づいたのは眠子だった。iPadに表示される時間を見て、首を傾げる。
「あ、あれぇ? 入学式、予定より早く終わりすぎじゃないですかぁ?」
「……本当の入学式は、今やってるのかもね」
眠子は不思議そうな顔をして僕を見た。
「どういうことですかぁ?」
僕は目の前にある教室の扉を、ゆっくりと開けていく。
入学式で見た生徒のうち、およそ二十人弱がすでに席に座っていた。教壇にはメガネをかけた細身の教師が立っている。確か彼は、入学式にもいたはずだ。
「遅いぞ! 入学早々、逢いびきか?」
わはは、と教室から笑い声が上がる。
一斉に同じ顔で笑う彼らが不気味で仕方ない。なんだか、まるで──
「劇場みたい」
僕が呟くと、ぴたりと笑いは止まった。
「ああ、聞いたことありますよぉ。木を隠すなら森。森がないなら作ればいいじゃないーって、本物のスパイを隠すための群衆を作り上げるスパイ……名前は」
「百足(むかで)」
僕らの後ろから、低い男の声がした。
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