第18話願い~空~

「ただいま……」


 美空の小さな声が、玄関の奥に吸い込まれるように消える。

 しばらくすると、パタパタと音を立てて母親が出てきた。


「美空、遅かったじゃないの」

「……部活が長引いて」

「そう。夕飯できてるから、手を洗ってきてね」


 そう言って再び家の奥に戻っていく母親を見て、美空は心にぽっかり穴が空いたような気持ちになる。罪悪感に似た後ろめたい気持ち。


「今の嘘なの……お母さん」


 誰もいない廊下に向かってつぶやく。


「ごめんね」







 夕食を食べ終えると、美空は自分の部屋に入った。すっかり日の落ちた空を見て、ジャッとカーテンを閉める。

 机に向かってノートを開く。いくつかの数式。答えは出た。何度計算しても同じ答えだった。


 ……足りない。


 11.5メートル。屋上までの高さ。

 足りない。低すぎる。

 美空が飛ぶには。


「時間を……」


 美空の秘密。彼女がずっと隠し続けていたこと。

 美空は他人ひとと時間の流れがずれている。

 あるときは流れに追いつけず、止まる。そしてあるときは“時”がわからなくなる。

 人はそれを記憶の混乱と呼ぶ。


「違う……私は、今このときを生きているのに」


 美空の記憶がおかしいのではない。美空の中に流れる時はまっすぐではなく、螺旋らせんのように回転して、ときには激しく宙返りをしながら進んでいく。その中で大切な記憶が消えてしまうのは、決して美空のせいではない。


「自由になりたい……」


 時間という概念に縛られず、自分の世界に生きたい。たった独りで、自分以外の基準など存在しない世界に。


 高いところに登るのは昔から好きだった。上から見下ろした景色が、いつも見ているものとは全く別の特別なものに見えて。そんな色眼鏡の奥の世界に憧れた。鳥が空から見ている世界。空を飛びながら見ている世界。

 飛びたい。

 きっとあの世界は自由な場所だ。自由なんだ。だって、そこには時間の流れが存在しないから。


 空を飛ぶ翼がほしいと思っていた。ずっと。美空は自由な世界そらを求めていた。


 ある日出会った彼はそれを持っていて。

 翼を。

 空を翔る彼。


 羨ましいのとは少し違う感情。胸の奥が温かくて、そしてなぜだか涙が溢れる。

 独りじゃないと言ってくれた彼。


 自分に味方は誰もいないのだと思っていた。理解なんてしてくれない。

 重い心を溶かしてくれた彼。


 そんな彼との思い出を美空は覚えていない。彼とどうやって出会ったのか。どこで出会ったのか。そして彼は誰なのか。


「氷川くん……あなたは誰?」


 名前も知っているのに、彼の存在が自分の時から外れかかっているように思う。何もわからない。自分の心さえ見失いそうになる。

 だから美空は決めた。


「私は決めたの」


 天使の歌声のような声で、美空は暗い空に色めきを与える。分厚い窓ガラスをすり抜けて、彼女の声は空に昇っていく。


「時を止める……!」


 彼と同じ時に生きたい。

 ただそれだけの理由で。彼女は決意してしまった。

 世界を永遠の眠りにつかせることを。



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