第16話高いところ~翼~
「美空ちゃん、校舎の高さを測ろうとしてるみたいなんだ」
しんと静まり返った廊下の隅で、安達はできる限り声を押さえている。辺りに人はいないが、どうしても誰かに聞かせたくない意図があるらしい。
「今朝、たまたま早く学校来たんだよね。そしたらまだ誰も来てない校庭に独り、美空ちゃんが……」
安達は壁にもたれかかり、軽く握った手を額に当てた。
その様子を翼と近野は静かに見守る。
何かを思い出すように目を細め、安達は続ける。
「あの細い紐みたいなものは……たぶんメジャー、だったと思うんだ。それから……三角定規」
「メジャーと……三角定規?それを夏目が持ってたの?」
翼が口を挟む。近野もわけがわからないといった風に眉をひそめている。
「遠くからだったから、そのときはよくわからなかったんだ。でも、さっき美空ちゃんのノートをのぞいて思い当たった。美空ちゃんは校舎から自分のいる位置までの距離を測って、三角定規を掲げて角度を調節してた」
「だからあんた意味わかんないって。ウチらにもわかるように言ってよね」
近野は既にいらだっている。腕を組み、無意識か指を肘に何度も打ち付けている。
「美空ちゃんのノートには、三平方の定理の公式が書いてあった。だけどそれじゃ駄目なんだ。だから美空ちゃんは先生に質問に行ったんだよ。それで先生は新しく三角比を教えた」
サンヘイホウの定理、というのについては先ほど安達が説明していた。翼は思い出す。たしか三角形の辺の長さを求めるとかなんとか。
「三平方の定理で辺の長さを求めるには、三角形の二辺の長さがはじめからわかってなきゃいけないんだ。でも美空ちゃんは地面の距離しか測らなかったから、つまり一辺の長さしかわからない」
「あっ」
近野が声をあげた。
「夏目ちゃんのいる位置と、校舎のてっぺんと、それから校舎の地面に着いてる部分の三つで三角形ってこと?」
「ああ、ごめん。そこから説明しなきゃいけなかったね。氷川もここまではオッケー?」
「……まあ」
実際全くといっていいほど理解していなかったが、翼は曖昧にうなずく。
「で、一辺の長さだけでも使えるのが三角比。俺は相似を使った方が簡単だと思うんだけどね。それをアドバイスしなかったあの数学教師はあんまり優秀じゃないみたいだ」
「……えっらそー」
ボソッと言う近野。
たしかにこれではただの安達の自慢話になってしまいそうだ。さっき自慢したいと言っていたのはあながち冗談ではないのかもしれない。
「とにかく美空ちゃんはそうやって校舎の高さを測ろうとしてるんだ。俺が話そうとしてたのはそれだけ」
「はあ」
明らかにがっかりしたように近野が組んでいた腕をほどいた。
「そんなこと話すためにわざわざ廊下まで出たの?」
「まーね。教室の中うるさかったし」
「ウチ、もう戻るわ。次の授業始まるし」
一足先に近野が教室に戻ったところで、翼もそれに続こうとすると、
「美空ちゃんは時間の流れがずれてる。ほっとくとヤバイよ、あの子は」
安達が翼の耳に素早くささやいた。
教室に戻ると、美空が困ったようにノートを見つめていた。
「美空ちゃん、どうしたの?」
安達がいつもの軽い調子で声をかける。
「あ……安達くん。あの、タンジェント45度ってわかる?」
「ああ、三角比だね」
わざとらしくその言葉を強調して、安達はこっそり翼に目配せした。それから美空に向かって微笑む。
「タンジェント45度は1だよ」
「……ありがとう!」
美空の顔が明るくなる。しかしすぐに真剣な表情になってノートに向かってしまった。
翼は不思議でならない。
校舎の高さなんか知って、どうするつもりなんだ?
そしてもうひとつ。
時間がずれているとはどういう意味なのだろう。
安達の方を見ても、彼はいつも通りの余裕の笑みを浮かべて首を傾けただけだった。
美空はいったいその内に何を抱えているのだろう。
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