第15話高いところ~翼~

 まだ日が昇りきったばかりの早朝。誰もいない校庭に、ある音が響く。

 シャク……シャク……シャク。

 わずかに湿った土を踏みしめる音だ。ゆったりとしたテンポで、それは響く。

 シャク、シャク……。

 ふと足音が止まる。

 いつの間にか校庭には人影が浮かんでいた。影は校舎を見上げ、静かにうなずいた。






 授業が終わってすぐ、美空が先生のもとへノートを持っていった。


「あの、質問があるんですけど……」


 その様子を見ながら翼は感心する。

 勉強熱心だなぁ。

 翼ははっきり言って勉強意欲が低い。そこそこの成績を取れば満足してしまうのだ。前の学校での成績は中の上程度。


 しばらく先生と話したあと、美空は自分の席に戻ってきた。机の上にノートを広げ、シャーペンを走らせ始める。


「氷川、あれ」


 隣の席の安達がこっそり翼に耳打ちしてくる。


「美空ちゃんがやってるの、中三の問題だよ。三平方の定理」

「サンヘイホウ?」

「別にそれ自体はそんな難しい定理じゃないんだけどね。直角三角形の辺の長さを求める公式なんだ」


 翼は首を傾げる。


「それが、何?」

「いや別に?俺が高校受験までの範囲を全部終わらせてるとか、自慢したいわけじゃないよ?」


 ……自慢したかったのか。

 翼がどう反応したものか考えていると、


「と、まあ冗談はここまでにして」


 冗談を言った本人がクールにストップをかけた。まるで翼の冗談がすべったのをフォローでもするような口調だ。

 翼は内心思うことがないでもなかったが、続きを話そうと安達が口を開いたので黙っていた。


「言ったよね、三平方はそう難しくないって。たぶん氷川でも解けると思うよ、公式に代入するだけだから。応用問題となると話は別だけど。で、本命はもうひとつの方だね。三角比だ」


 若干、いやかなり馬鹿にされた気がする。氷川でも解ける、とは……。

 でもってなんだ、でもって。


「三角比は高校で習うんだけど……」


 そのとき、安達の話を遮るように、


「なーに話してんの?」


 後ろから近野が割り込んできた。


「あーもうマミ、静かにしててよ」


 珍しく安達が声を荒げる。

 近野は一瞬驚いた顔をしたあと、口を尖らせた。


「いーじゃん別に。夏目ちゃんなんか難しそうな問題やってて相手してくれないしさ。暇なの」

「マミには関係ない話だから」

「はあ?なんかずるい」


 いつもと立場が逆だ。しつこくされて不機嫌になるのは近野の役目だった。しかし今は安達が迷惑そうに近野を追い払おうとしている。


「いいからマミはあっちいって」

「なんで?」

「いいから」


 こんな押し問答をしている間も、美空は顔を上げずひたすらにペンを走らせている。


「あー!もうしつこいな。いいよ。外、出よう」

「え?あ……」


 立ち上がった安達につられ、翼も反射的に立ってしまった。


「ちょっとー、そんなにウチが邪魔なわけ?」

「……マミも来ていいよ」


 不満の声をあげた近野に、安達は渋々といった様子でそう言った。

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