第13話どこに~翼~

 彼らはどちらからともなくお互いの手を放した。


「あ、あの……私。教室に、忘れ物して」


 美空がおずおずと言った。その顔はまだわずかに赤い。

 一方翼は半ば呆然とした様子で自分の手を見ている。つい先ほどまで美空と触れていた手を。


「……氷川、くん?」


 美空が小さく首を傾げた。

 翼はようやく口を開く。


「ああ……忘れ物ね。何を忘れたの?」

「えっと、数学の問題集」


 美空の答えに一拍置いて翼がうなずく。


「たしか明日までの課題出てたんだっけ」

「うん。だから持ち帰って今日中にやらないとって思って」


 すると翼はいきなり立ち上がった。しゃがんだ際に付いた土を払いながら言う。


「俺、取ってくるよ。夏目は校門のとこで待ってて」

「え、でも」

「夏目に聞きたいことあるの思い出した。片付け終わったら各自解散って言われてるから、一緒に帰ろ」

「一緒に……?」


 美空は戸惑ったような表情を見せたあと、小さくうなずいた。それから翼の目線がずっと上の方にあることに気づいて、自分も立ち上がろうとする。

 ところが長い間しゃがんでいたせいだろうか、脚に力が入らなくてよろめいた。

 翼がとっさに手を伸ばす。しかしその手はフェンスに当たって、彼女との間に壁があることを思い出させた。


「大丈夫?」

「……うん」


 美空はフェンスに体重をかけるようにして体勢を立てる。どうにか両足で身体を支えて、翼に向き直った。美空の視線はある一点に注がれている。

 行き場をなくした自分の手をもて余しながら、翼は苦笑いした。


「反射って怖い。間にフェンスがあること忘れてた」


 それだけ美空を近くに感じていた。壁の存在を忘れてしまうほどその距離はないに等しく、たしかに彼女は手を伸ばせば届く距離にいるのだ。


 しかしなぜだろう。距離はなくとも、その間の壁は。消えない。はっきりとそこに存在する。触れようとする翼の手を弾く。


「じゃ、取ってくるよ。教室のどこ?」


 翼は努めて明るく尋ねた。美空の視線から隠すように手を身体の後ろに回した。


「本当にいいの?」

「たぶん俺が行った方が早いと思うよ。夏目、歩くのゆっくりだから」

「そうかな」

「うん」


 美空はそれまでより少しだけ視線を下げた。


「……ロッカーの中」

「わかった。じゃあちょっと待ってて」


 放り出したままになっていた三角コーンを拾い、翼は駆け足でその場を離れた。先ほどまでの自分の考えを吹き飛ばすように軽く首を振る。


 壁なんて。


 壁なんて壊してやる。壊す?それが彼女が自分を守る唯一のバリケードなのだとしたら?


 どうしたらいいかわからない。

 こんな気持ちは初めてだった。

 進む道の先にあるものなんてたどり着いてから確かめればいい。ずっとそう思っていた。でもそれで手遅れになったとしたら。取り返しのつかないことが起こってしまったら。


 ただ走るだけしか能のない自分。本当に走り続けることが正しいのか。自分は立ち止まるタイミングを間違えはしないか。


 こんな気持ちは初めてだった。

 走るのが不安な、こんな気持ちは。

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