第12話小鳥~空~

 活気に溢れていたグラウンドから、だんだんと人がはけていく。下校時刻が迫っていた。どの部活も練習を終え、片付けやグラウンド整備にかかり始める。


「誰?そこにいるの」


 そんな中、中学校の敷地を区切るフェンスに近寄る影があった。


「……もしかして、夏目?」


 翼だった。手には赤い三角コーンを抱えている。器具庫に片付けるよう指示されたものだ。


 フェンスの向こう側にうずくまる人影は、まるで置物のように動かない。


「夏目、だろ?」


 小さな掌で顔を覆っている。その指の隙間から、透明な滴が滴り落ちた。

 泣いて……る?


「夏目」


 呼びかけに答えない。まさかと思う。彼女は止まっている?

 翼は持っていたコーンを半ば乱暴に放り出した。分厚いフェンスに身体を押し付けるようにして美空を呼ぶ。


「夏目……返事しろよ、夏目!」

「………………」

「俺の声、聞こえるだろ!?」


 美空の肩がぴくりと震えた。


「夏目……?」

「……独りぼっちの飛べない小鳥」


 それは美空の声だった。翼は耳を疑う。今、彼女はなんと言った?


「小鳥は美しい白鳥を演じて、陰で泣くの」


 顔を覆っていた手を彼女はゆっくりとほどいた。その頬にはまるで氷細工を溶かすように彼女を削った涙の跡があった。美空はその手で自分の身体を抱き締めた。寒さに凍える身体を精一杯に守ろうとしているようだ。

 周りは暖かな春の気候だというのに。


 翼は美空を呼ぼうとした。すぐ目の前にいて、果てしなく遠い世界に存在している彼女を。

 呼ぼうとしたが、声にならなかった。美空の名は翼の喉の奥底をかすめ、そのまま行くあてもなく溶けていった。


 代わりにフェンスを通して美空の目の前にしゃがんだ。彼女と同じ目線になってやっとわずかな息遣いが聞こえてきた。


「小鳥は自由を求めて……」


 小さな声で、美空は淡々と続ける。


「大空を夢見るんだ」


 美空の目は周りの景色を映さず、どこか別の風景を見ていた。


 独りぼっちで飛べない美空。美空は美しい自分を演じて、陰で泣く。美空は自由を求めて……大空を夢見る。


 翼はフェンスにそっと手を置いた。


「君は……飛びたいの?」


 美空がゆっくりと顔を上げる。光の差さないその瞳で無感情に翼を見つめると、やがて力が抜けたようにこくっとうなずいた。


「あの日も君は飛ぼうとしていた」


 もう一度、美空はうなずく。そして小さく唇を震わせる。


「誰にも秘密……なの」

「……うん」

「私を理解してくれる人なんてどこにもいない。心が……石みたいなの。硬くて、重くて……独りぼっちの私には、受け止めきれないぐらい……」


 表情が崩れた。美空の瞳から次々と涙が溢れてくる。頬が赤い。さっきまでの静かな涙とは違った。

 それはとどまることを知らない涙だ。押さえる必要のない涙。


「夏目の秘密、話してくれてありがとう……あの、俺」


 フェンスがきしむ音がした。翼が強く握ったせいだ。


「俺さ……夏目は、独りぼっちなんかじゃないと思うよ。きっと皆、君の力になりたいって思ってる」


 美空の涙がこんなにも激しいのは、目の前に彼がいるからだ。


「……皆?」

「うん」

「……氷川くん、は?」


 そう尋ねる美空の声は震えている。それは涙のせいだけではなかった。

 翼は美空の心の内側を垣間見た気がした。


「俺は……」


 初めて美空が本当の自分を伝えようとしている。


「俺は夏目を独りにしたくない……」


 美空は独りぼっちではないと言ったのは自分のはずなのに、そんな言葉が口をついて出た。


 違う。俺が本当に言いたいのは……。


 フェンスをつかんでいる翼の手にそっと美空の手が触れた。温かかった。彼女の手の温もりは、きちんとあった。翼の思考を遮るほどたしかに彼女は存在していた。


「ありがとう」


 美空は目の縁を赤くしながらそう言った。




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