第3話聞きたいこと~空~

 美空は咳き込んだ。

 心臓が早鐘を打っている。激しく暴れ回り、今にも胸を突き破りそうだ。


「……どうしよう」


 翼。


 彼の名前は翼といった。それを聞いたとき美空は思った。

 これは夢だ。

 そう思ったから安心していた。いつだって現実は狭苦しいもの。自分の望んだものが形になったとしたら、それはきっとただの幻なのだ。

 ところがそうではなかった。翼という人物は存在した。美空の見た夢ではなかった。


「欲しい……」


 美空はゆっくりと息を吐き出す。


「私も翼が欲しい」


 バッグの肩紐をぎゅっと握り、美空は歩調を速めた。






「君、歩くの遅くない?」

「え……?」


 急に後ろから声をかけられた。美空は驚いて振り返る。


「俺の方がだいぶ後に学校出たのに」


 見ると、翼が人懐っこそうな笑みを浮かべて立っていた。美空はとっさに顔を背けてしまう。


「氷川……くん」

「夏目も家こっちなの?」

「あ、うん……」

「俺も」


 美空のよそよそしい態度を気にする様子もなく、彼女の隣に並ぶ翼。

 そんな彼に、美空は動揺を隠せずにいた。


 どう……して?


 どうして彼は気後れすることもなく自分に話しかけたのだろう。


「夏目って何部入ってるの?」

「……文芸部」

「へえー、本読むの好き?」

「うん」


 まるで普通の友達のように。


「俺はね、走るのが好きかな。この学校って陸上部ある?」

「ある……と思うけど」


 そういえば自己紹介のときも言っていたなと思い出す。

 美空は話しながら、翼の言葉が全て質問であることに気づく。翼は美空とコミュニケーションを取ろうとしているのだ。美空が自分で話題を作らなくても、会話が成り立つように。


「夏目って」


 あるとき翼の方にも限界が来たようだった。


「こういうの嫌だった?よく知りもしない相手と歩くの」


 美空はハッと顔を上げた。


「ううん。そんなことない」


 率先して翼が話題を振ってくれるのでそれに甘えて短い受け答えばかりしていたが、翼もかなり気を遣っていたのだ。美空は申し訳なく思って、必死に力を込めて首を振った。


「ごめん、なんか気遣わせちゃって」


 逆に翼に謝られてしまった。


「違うの、あのね」


 美空は覚悟を決める。


「氷川くん、私に本当に聞きたいこと、あるよね?」


 思いきって言ってしまった。美空なりの精一杯だった。


「聞きたいことかあ」


 翼が苦笑する。そんな表情もいかにも人がよさそうに見える。


「うーん、ないと言えば嘘だけど。でも、聞くつもりはないよ」

「え……?」


 意外だった。自分に尋ねたいことがあって追いかけてきたのだと思っていた。


「だって夏目本人がそれを隠したがってる。それを無理に知ろうとするほど俺は嫌な人間じゃないよ」


 美空は何も返せなかった。

 黙り込んでしまった美空を気にして、翼がまた困った顔になる。


「夏目?」

「…………違う、よ」


 首を傾げる翼。しばらくして、「あっ」と小さな声をあげる。


「別に隠したいとかそういう感じじゃなかった?ごめん、偉そうなこと言って」

「そうじゃなくて」

「…………………」

「嫌な人間じゃない。私、氷川くんのことそんな風に思ってない」

「…………」

「…………」

「………あ」


 一瞬翼はぽかんとして、やがてくすっと笑った。美空にはその笑いの理由がわからなかった。


 何が面白いんだろう。


 美空は不安になった。自分の置かれている状況が飲み込めなかったせいだ。


「夏目っていいこだね」


 いい……こ?


「俺の何気ない言葉じりにもちゃんと気づいて、本人よりもそれを気にしてる。自分中心の奴はそんなことないだろ。だからいいこ」


 そう言って翼はにっこり笑った。その笑顔は美空の心の奥底まで染み込んできた。

 温かい、気持ち。

 美空は自分の胸に手を当てた。

 初めてだ、こんな風に……。


「……ふふっ」


 思わず笑みがこぼれた。その表情のまま翼を見上げる。


「え?」


 そこまで美空が反応すると思っていなかったのか、翼は戸惑ったように頬を赤くした。そんな様子も人がよさそうだった。

 この瞬間だけは、美空は自分の求める「翼」のことを記憶の奥の方に潜めておけた。

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