2012年、ふゆ
ナガレ
軍司と静乃がこちらに移ってきてからはじめての年越しは、これといった障害もなく静かに迎えることができた。
お節は順也の嫁さんからのおすそ分けと適当に見繕って買ってきたもので済まし、受験生である静乃は学校の友人たちと一度は二年詣りにいった以外は外出らしい外出もせず、むしろ軍司が心配になるほど熱心な様子で机にむかっている。
学校の教師からの連絡では、志望校には余裕で入学できる成績をあげているそうであるから、保護者としては歓迎をするべき傾向であるのかも知れないが、軍司としてはその年齢不相応な集中力にどことなく違和感をおぼえてしまうのであった。
息子や孫の成長を見守ってきた経験がある軍司からみても、今の静乃の集中の仕方は異様に思える。
あの年頃の子どもいうもんは、学校の勉強などよりも、もっと別のもんに興味を持つもんじゃないのか。
やっていることが勉学であるだけに、まさかやめさせるわけにもいかず、軍司としてはひとりで気を揉んでいる。
それに、最近の静乃は、極端に睡眠時間が減っている様子でもあった。
これについても、
「受験が終わるまでには、おおっぴあらに咎めるわけにはいかんのかの」
と、軍司は思っている。
静乃の異様な様子は気にかかるものの、だからといってここで無理に休養させ、その結果受験に失敗でもしたら、かえって問題を面倒なものにする気がして、仕方がなかった。
静乃の異常はやはり心理的なものであり、それを解決するためには、やはり静乃の軍司との間に相応の信頼関係がないと、なにをするにも覚束ない。
肝心の静乃が受験にやる気を出している以上、今はやりたいようにやらせておくしかないか。
軍司としては、今の時点ではそうとでも思うしかなかった。
なに、体がきくなれば静乃も自然と休みは取るであろうし、今はいけるところまでやってみればいい。
静乃が学校に通い、受験勉強に専念している間にも、軍司の迷宮通いは続いている。
というより、こちらには田畑も山もないので、軍司にできることといったら、迷宮へいくことくらいしかない。
年齢的にいっても隠居も同然の身である軍司は、特に静乃が学校に通っている時間帯は暇を持て余しているのであった。
だからといって、今からパチンコ屋にでも通うんも、なにやら馬鹿馬鹿しいしの。
これまで、家族を養うためにずっと働き続けて来た軍司は、息子たちが独立するようになってからもこれといった趣味を持ったことがなかった。
田舎にいれば、畑仕事に狩りにと、やるべき仕事は山のようにある。
山に入って罠をしかけたり猟をしたりするのも、獣を間引いて少しでも害獣を減らすことに、幾分かでも役立っているはずであった。
頻繁に人が立ち入らなくなった山というのは、荒れる。
そこの縄張りが空いているものと見て、動物たちが遠慮なく降りてくるようになるのだ。
だから適度に道普請などをして、ヒトの気配を定期的に刻みつけておく必要がある。
軍司たちが捨てて来たあの村も、そう遠くない未来には、すっかり野に還ってしまうことだろう。
それはともかく、ほとんど毎日通っていることも手伝って、〈印旛沼迷宮〉における軍司の知名度は格段にあがっていた。
そもそも、シロのような犬を連れて迷宮に入るような探索者はほとんどいないため、軍司の存在は以前からかなり目立っている。
さらにいえば、東京近郊に三十三ヶ所ある迷宮の中でも、〈印旛沼迷宮〉はかなり辺鄙で交通の弁が悪い場所にある、という事情もあった。
そうした立地であればこそ、わざわざ遠くから〈印旛沼迷宮〉にまで足を伸ばすような探索者は少なく、比較的近郊に在住をしている者など、ほとんどかなり限られた探索者しか利用していない。
そういう、事情もあった。
一言でいえば、〈印旛沼迷宮〉を利用している探索者の社会は狭く、少しでも目立てばその噂はあっという間に広まるのである。
軍司が〈狙撃〉という、強力な遠距離攻撃用のスキルを獲得したことは、瞬く間に広まった。
誰がいいふらしたというわけでもないのだが、〈印旛沼迷宮〉に出入りをする探索者の中には鑑定系スキルの持ち主も相応に存在するので、その手の情報は自然と広まってしまう。
それ以来、だいたいはシロだけを連れて迷宮に入っていた軍司は、他の探索者からも声をかけられることが多くなった。
頼りになる後方支援要員を欲するパーティは、それなりに多いのである。
というより、打撃力というわかりやすい指標がありさえすれば、たいていのパーティでは戦力として欲しがるものだった。
迷宮内では火力さえあればたいていの危機を乗り切ることができるといわれていて、前衛後衛を問わず、強力なスキルの持ち主は歓迎される傾向にある。
ましてや、軍司のように固定でパーティを組むでもなく、たいていはひとりで迷宮に入っていく探索者は、当然のことながら引っ張りだこになった。
「いっしょにいくのはいいけんども」
そうして誘われたとき、軍司は決まってある条件を出した。
「お前さたち、うちのシロさ、好きにさせてやれっか?」
迷宮内でシロの自由を保証できるのか。
軍司が同じパーティを組む連中に期待することは、その一事だけであった。
中にはシロの存在をするあかるさまにないがしろにしようとする連中もいたが、こうした連中については軍司の側が丁重にお引き取りを願って、以後、距離をおくことになる。
たいていのパーティはシロの存在も含めて快諾したし、そうして迷宮内に入れば索敵能力を含めてシロがずいぶんと役に立つ様子を見せつけられ、シロも込みで軍司と同行をしたがるパーティは増える一方になった。
一口に探索者といっても、様々な者がいた。
大きく分けると、順也のように別に本業を持っていて、副業として探索者として活動しているものと、探索者は以外の生計の途を持たない専業の探索者と。
ちなみに、現在、他にこれといった収入源を持たない軍司は、このうちの後者、専業探索者ということになる。
この専業探索者たちも、その内実や背景事情は多様であった。
学生時代から探索者をしていて、そもまま就職をせずにズルズルと探索者をしている者。
本業は別にあるのだが、開店や独立のための資金を稼ぐために、一時的に探索者をしている者。
調理師としての資格と経験を持ち、一時的に探索者となっている者は意外に多かった。
引退したスポーツ選手やアスリート、除隊した国防軍の兵士などが、なにか体を使う仕事を求めて迷宮に流れ着くことも、多い。
あるいは、借金を抱えてそれを返済するために一攫千金を狙い、探索者となる者。
それ以外に。
「大きな自然災害が来るとよ」
そうして知り合った探索者のひとり、田坂邦彦という男はいった。
「どっと、探索者が増えるんだとよ。
この国は、地震の国だからな」
この田坂という男は、聞くところによると阪神淡路大震災の被災者であったという。
あの震災から、もう十五年以上は経っている。
今年で、十七年くらいになるのか。
この田坂という男があの震災の被災者であるのが本当であったのなら、そのときに妻子を失っていてもおかしくはない背格好ではある。
この田坂という男は、〈印旛沼迷宮〉を利用する探索者たちの中ではあまり評判がよくなかった。
強引に小銭を借りていって、踏み倒そうとする。
くだらない嘘を、よく吐く。
競馬などのギャンブルも一通り嗜んでおり、なにやら借金も多いらしい。
酒臭い息を吐きながら迷宮に入ろうとし、同じパーティはとして活動をする予定だった者たちから総スカンを食らうことも、珍しくはないらしい。
ようするに、どうしようもない、身を持ち崩した中年男に過ぎなかった。
この田坂が探索者たちの中では今ひとつ信頼されていない理由が、もうひとつある。
この田坂は、特定の迷宮に根城を定めていない、いわゆる「ナガレ」の探索者であった。
探索者という集団をまとめて評価できないように、いわゆる「ナガレ」と呼ばれる探索者たちの内実も一様ではなかった。
ただ、特定の迷宮を決めて探索者としての営みを重ねている者からみると、ある種の偏見は持たれがちではある。
つまり、
「活動をする場所を一ヶ所に定めていないのは、なんらかの不行跡があって、迷宮から迷宮へと転々としているからではないか」
そういう疑念が、拭いきれないのである。
ましてや、ここは〈印旛沼迷宮〉。
数ある迷宮の中でも、格段に不便な僻地に存在をする迷宮であった。
こんな場所にわざわざ出向いてくる探索者は、よほどの物好きか、それとも訳ありか。
とにかく、「ナガレ」ではない、つまり、特集な事情を抱えているわけではない探索者にしてみれば、そうした疑いのあるナガレと好んでパーティを組むような者は、ほとんどいなかった。
だから、田坂は頻繁に軍司に声をかけて来た。
ナガレの田坂にしてみれば、固定したパーティを組むことがない軍司は声をかけやすい相手でもあったのだろう。
たいていは、軍司は先約、すなわちすでに他にパーティを組む相手が決まっていることが多かったし、そうでなかったとしても、一度この田坂とシロの組み合わせで迷宮に入ったとき、小銭を借してそのまま放置されていたので、その一回しかパーティを組んだ経験がなかった。
パーティを組むことがないとはいえ、この田坂は迷宮のロビーなどで軍司を見かけるたびに近寄ってきて、声をかけてくる。
ようするにこの男は、寂しいのではないか。
軍司はそう思うと、無下に扱うことができないのであった。
「爺さんよう」
田坂は赤ら顔を歪めて懇願するような口調でいった。
「同じ被災者同士、探索者同士なんだから、もっと仲良くしようよお」
どうしようもないやつだと、そう思いながらも、軍司はこの田坂の話相手をしてやることが多い。
「やあ、どうも」
その女性の探索者が声をかけてきたのは、そうして軍司が迷宮のロビーで絡まれているところだった。
「白い犬を連れたおじいさん、ってことは、あなたが〈狙撃〉の人でいいのかな?
こっちは、ナガレの探索者で、鵜飼瑠美」
「早川軍司」
軍司は若干の気おくれを感じながらも、短く答える。
「そのナガレが、こんなじじいになに用かの?」
鵜飼瑠美と名乗った探索者は、三十前後の小柄な女性であった。
軍司にしてみれば、十分に若い女性であるといえる。
「こっちはナガレだから、いきなり信用をしろっていうのは無理かもしれないけど」
鵜飼瑠美は淀みのない口調でいった。
「できれば、でいいんだけど、早川さんに手を貸して欲しいと思っている。
わたし、この迷宮からいける〈泥沼〉を攻略してみたいんだ」
あるいはこの女性は、こうした勧誘の言葉をしゃべり慣れているのかも知れないな、と、軍司は思った。
「ほう。
〈泥沼〉の」
軍司は顎を撫でながら確認した。
「あそこは、かなりキツイと聞くがの。
足場が悪い上、倒しにくい亀が出るという」
「だから、〈狙撃〉を持っている早川さんに声をかけたんだけどね」
鵜飼瑠美はそういって笑い声をたてた。
「もちろん、それ以外にも準備をすることはあるし、すぐにっていうわけにはいかないけど。
だけど、できれば前向きに検討しておいて欲しいかな」
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