ソゲキ

 九月に入り、 静乃は再び学校に通いはじめた。

 かといって、隠居がてらに迷宮に通っている軍司の生活に大きな変化はないのであるが。

 静乃はこれからしばらく、高校受験が片づくまでは、探索者としての活動は中断するという取り決めとなっている。


「まだまだ、暑いな」

 軍司は、そう思う。

 暦の上ではすでに秋に入っているというのに、残暑が厳しい。

 軍司にとってこの千葉県も所詮トウキョウの延長線上に存在しているように、暦の上では秋だといわれても実感としてはまだまだ夏のうちであった。

 いつまでの緩まない熱気と湿気が、老いた体にはひどく堪える。

 軍司だけではなく、シロの様子もソトではかなりぐったりとして元気がなかった。

 シロはかなりの老犬である。

 軍司と同じように、この残暑は体に応えるであろう。

 軍司が毎日のように迷宮に通うのは、半分以上、このシロのためでもある。

 迷宮の中でならばシロは、若い頃のように元気に飛びまわれるのだから。


 その日も、駐車場にバンを停めて後部座席の扉を開けると、床面に寝そべっていたシロが跳ね起きて外に飛び出してきた。

 駐車場内はすでに迷宮の影響範囲内であり、シロも軍司自身も累積効果の恩恵を受けることができる。

 ソトでよりもよほど元気な様子のシロの首輪にリードをつけてそれを握り、水筒などが入っているナップザックを肩にかけてからバンを施錠をして、軍司は〈印旛沼迷宮〉が収納されている建物へとむかう。

〈印旛沼迷宮〉をはじめとする東京近辺に出現した三十三カ所の迷宮は本来露出しているものであったが、警備の都合とそれに迷宮に出入りする探索者の利便性のために、すっぽりと迷宮を囲むように周囲を建築物を建てることが多かった。

 ここ〈印旛沼迷宮〉もその例に漏れず、迷宮に出入りができるゲートは屋内に存在する。

 売店で買う物もないので、軍司はそのままゲートまで直行する。

 ゲートといっても、実際には迷宮と呼ばれる異空間へと通じる場所を囲むように、探索者用のIDカードを読み取り、記録する機械が置かれた、若干の警備の者がいるだけの場所になる。

 探索者のIDカードは非接触型のICカードも兼ねており、そのIDカードをゲートに設置されたリーダーにかざせばそのまま通過することができる。

 IDカードを持たない者、つまり探索者としての資格を持たない者は、当然のことながらこのゲートを通過することができない。

 軍司はシロのリードを手にしながらいつものようにゲートを通過し、そのまま進んで迷宮内にまで進む。


 迷宮内に入った軍司はまず肩にかけていたナップザックを〈フクロ〉の中に収納し、ついでシロの首に手を延ばして、シロをリードから解放する。

 リードを外すとシロはいつも尻尾を振りながらスキップするような足取りで軍司の周囲を走り回った。

 田舎じゃ、こげな邪魔くさいもん、しておらんかったからの。

 と、軍司は思う。

 このシロも、年を取ってから慣れない都会生活を強要されているわけで、さぞや窮屈な思いをしているのであろう。

 しばらく周囲を跳ね回ったあと、少し落ち着いたシロが軍司の顔をじっと見あげる。

「よし、いけ」

 軍司が合図をすると、シロは吠えもせずに弾かれたように走り出す。

 そのあとを、軍司が悠々たる足取りで追っていく。


 遠くまで走って姿を消したシロは、獲物の姿を察知すると一度引き返して来ることで軍司にその存在を伝える。

「そちらさ、おるのか?」

 軍司が小さな声で確認をすると、シロは顔をあげたまま軍司の目を見返して、大きく尻尾を振る。

 軍司はシロが引き返してきた方向に目線をやり、目を凝らす。

「おるな」

 やはり小さく誰にともなく呟き、軍司は片手をあげる。

 順也によると、別に指鉄砲の形を手で作らなくともスキルは発動するはずである、とのことだが、長年猟師として鉄砲を扱ってきた軍司としては、なんらかの格好をしてこうして狙いを定めなければ狙いを外してしまいそうな気がするのであった。

 軍司が指鉄砲を構えると、ただそれだけのことで遥に先、何百メートルも先の光景がぐんと目前に迫ってくるような気分になる。

 気分だけ、なのか、それとも実際になんらかのスキルの効果により、一時的に視力が良くなっているのか、その辺の事情は軍司自身にも実はよくわかっていない。

 ただ、そういうときは、それだけ離れた場所にいる獲物の様子が、すぐ目前にいるかのように、明瞭に見えるのは事実だった。

 それだけはっきりと視認できれば、狙いを定めるのも当然容易になってくる。


「バン」

 軍司は口に出してそういった。

「バン、バン、バン、バン」

 軍司が口に出してそういうたびに、群れをなして飛んでいたコウモリ型のエネミーが体の一部に遠距離攻撃用スキルを受け、破損をしながら地面に落ちていく。

 この迷宮浅層に出没するコウモリ型エネミーの体は脆弱であり、体のどこか一部を損なうだけで飛行能力を喪失して墜落する。

 シロが、はやり吠えもせずにその落ちた獲物の方へとまっしぐらに走り去っていく。


 数十体いたコウモリ型エネミーをすべて撃ち落としたあと、軍司はゆっくりとした足取りでエネミーを落とした場所へと歩いて行く。

 その場所の着くと、シロはコウモリ型エネミーのはらわたを適当に食い散らかし、ドロップしていた金属片を前肢で弾いいて集めているところだった。

 こうしたドロップ・アイテムは、こうした浅層だと値打ちものが出てくることはほとんどなく、鉄や銅でできた硬貨や短剣がほとんどであった。

 換金をしたとしてもたいした金額になるわけでもなく、そのため大多数の探索者は先を急ぐようにしてより深い階層を目指していく。

 しかし軍司自身は、そもそもこの迷宮において一山当てようという気もないので、いまだにこうして浅層に留まっていた。


 この年で死に急ぐより、シロや静乃を喜ばす方が、よほど大事だしの。


 それに、用心に用心を重ねて凌いできた猟師のときの習性も抜き難く、自分からより深い階層へと進む気持ちは、軍司の中では希薄であった。

 それにその安い鉄材も、最近では若干の値あがりしているという。

 震災復興の影響によって需要が伸びて、そのおかげで、ということであった。

 多少値あがりしたとはいってもも、ともとさほど高価なものでもなし、たかが知れているのであるが。

 それでも、軍司の小遣い稼ぎとしては十分なのであった。


 二、三時間ほどそうしてエネミーを狩り、キリがいいところで一度外に出る。

 静乃がいるときはそれで切あげて習志野に帰ってから昼にするのだが、シロと軍司だけのときはここで一度昼休憩を取ることにしている。

 シロは冷房を入れたバンの中では留守番をしてもらい、軍司は迷宮が収まっている建物内部にある、探索者むけの食堂で適当に昼食を摂る。

 そうした食堂は安いだけが取り柄で味はひどいものであったが、それでも我慢をすれば食べられないこともない。

 もともと食が細くなっている軍司はゴムみたいな食感の蕎麦かなにかを適当にすすり、バンに戻ってシロといっしょに一休みしたあと、再び二、三時間ほど迷宮に入る。

 というのが、いつもの軍司たちのパターンであった。


 九月に入ったばかりのその日も、軍司とシロはいつものようにたっぷりと休憩をとってから午後の探索に入る。

 慎重に無理をせず、というのが猟師として山に入っていた頃から一貫して続けている軍司のやり方であり、この日もいつもと同じように、第一階層からせいぜいいっても第二階層までにしか進まないつもりであった。

 軍司の攻撃能力とシロの索敵能力との組み合わせを考えれば、実力的にはもっと深い階層の、それこそ第十階層よりも深い階層にまで足を伸ばしても十分にやっていけるはずであったが、軍司の方にそこまで深い階層に降りていかねばならないモチベーションがそもそもなかった。

 だから、軍司とシロとがその異変に遭遇したのも、迷宮の第一階層でのことになる。


 いつものように安全確実な狩りをおこなっていたはずであった。

 そもそも、この第一階層では、シロ一匹でうろついていてたとしても、脅威となるべきエネミーは出現しない。

 何十、何百と群れをなして襲ってきたとしても、シロだけで余裕を持ってあしらえる、そんな小動物めいたエネミーしか出現しないはずであった。

 つまり、通常であれば、ということなのだが。


 その巨大なエネミーの出現を察知したのは、例によってシロの方が早かった。

 何百メートルも先にいっていたシロが、吠え声をあげながらなにやら慌てた様子でこちらに走ってくる。

 何事か?

 と、軍司は目を細めた。

 そもそも猟犬であるシロが、これほど声を出しながらこちらに帰ってくるということは滅多にない。

 シロが吠え声をあげるときは、ほとんど追跡中の獲物の気を引くときだけと、そのように躾けてある。

 軍司の疑問は、いくらもしないうちに氷解した。

 シロの背後に、巨大な獣が迫っていたのである。

 それも、ひどく足が速い。

 ともすれば、シロよりも俊足であり。


「シロ!」

 軍司は叫んで、指鉄砲を構えた。

 軍司がこちらにむかって来るシロの姿に気がついた、ということには、その叫びだけでシロにも察することができたはずだ。

 事実、シロは軍司が名前を呼んだ直後から声を発することもなく、ひたすら走ることに専念しているように見える。


 軍司はそのまま、遠距離攻撃用のスキルをその巨大な獣に対してたてつづけに発射した。

 巨大な獣、熊型のエネミーに軍司の攻撃スキルがまとめて命中したようであったが、そのエネミーが進む速度はいささかも鈍らない。

 これまで軍司が相手にしていたような浅層の小物ならば一発で沈められるスキルも、そのエネミーほどの大きさにもなれば、たいした打撃にはならないようだ。

 軍司にしてみても実際に目撃をするのはこれがはじめてであったが、熊型のエネミーといえば、本来であればもっと深い階層に出没するはずのエネミーである。

 そのように、普段とは違う階層に出没するエネミーのことを、俗に「イレギュラー」と呼ぶらしい。

 迷宮内では、出没するエネミーの種類は階層ごとにある程度の規則性があるのだが、その規則性も絶対ということはない。

 かなり稀な事例であるが、こうして本来は現れないはずの階層に、その場所にはふさわしくはないエネミーが姿を現す現象は、ままあるらしい。

 そうした知識は探索者としての資格を取るときの講習でも教えられていたし、順也からも聞かされている。


 どうする?

 軍司は見る間に大きくなっていく熊型のエネミーに対して攻撃用スキルを連射しながら、冷静に考える。

 自分とシロだけでは、この大型エネミーを仕留めるだけの攻撃力を欠いている。

 そしてここ、迷宮の中では、外部から応援を呼ぶこともできない。


 ならば、〈フラグ〉さ使って、逃げるか?


 軍司はシロと熊型エネミーとの距離を目測で読み取り、まだ少し余裕があることを確認した。


 あと、一発。

 デカいのぶつけて、そいで駄目ならば、〈フラグ〉さ使ってシロと逃げよう。


 なんとなく、できそうな気がしていた。

 軍司はごく短時間のうちに神経を集中させ、シロの背後に迫る熊型エネミーの頭部にむけて、今の自分にとって最大の攻撃を放つ様を想像する。

 火だの、雷だの、氷だの。

 そんな生易しい代物じゃあ、間に合わね。

 もっと頼りになる、ずしりと重い代物を高速度で発射するような。

 どんな凶悪な獣であってもその頭蓋を貫通するような。


 猟師としてライフル射撃を何度となく経験してきた軍司は、そうした様子をかなり克明に想像することができた。


「バン」

 軍司が短くつぶやくと、数拍遅れて眉間に大穴を開けた熊型エネミーが姿勢を崩し、しかし勢いはそのままであったから、そのまま前のめりに何回か転がってから、ようやく止まった。


 のちに〈狙撃〉と呼ばれることになる、かなりレアな遠距離用物理攻撃スキルを、軍司がはじめて使用した瞬間であった。



「2011年、ナツ」編、了。

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