カタミ
軍司が久々に体験するトウキョウの夏は、予想外にしんどいものになった。
暑さ自体は郷里も似たようなものであったが、なんといっても湿気が、いけない。
四方八方をコンクリートやらアスファルトやらで塞いでいるものだから、熱と湿気の逃げ場がなくて、真夜中になっても蒸し暑いままだった。
軍司が就寝時に冷房を効かせるようになったのは、こちらに移って来てからのことになる。
こちらの暑さに参ったのは軍司だけではなく、シロも軍司と同様に参っていたようだ。
軍司が契約をしたマンションではペットを飼うことはできない決まりになっており、しかたがなく順也の家の庭に、ホームセンターで急ぎ購入した犬小屋を置かせてもらっている。
猟犬として手塩にかけて育てて来たシロを、愛玩用動物と一律に扱われること軍司としては抵抗があるのだが、都会もんにはすべての家畜が、経済動物も愛玩用も使役用も含めてすべてを引っくるめて、あらゆる動物がペットに見えるのだろう。
街場には街場なりの、村には村なりの基準というものがあり、軍司がいくら不服に思おうが、その基準は小揺るぎもするものでもない。
だからそのマンションの規則についても、諾々と従うより他なかった。
シロの散歩などの世話は基本的に軍司自身か静乃が行っているのだが、この時期、アスファルトは直射日光にやられてすっかり焼けてしまうので、シロの足を痛めないように、早朝のまだ日が出ていない時間帯を狙って散歩に行くようにしている。
すでに十歳を超えているシロは立派な老犬であり、軍司自身と同じような老いぼれであった。
迷宮の中にでも入って累積効果とかいうものの影響下にでもない限りは、すっかり落ち着いた様子を見せている。
順也の嫁さんのはなしでは、日中は玄関に入れたり、犬小屋の中に水をいれて凍らせたペットボトルを入れたりして、涼を取らせているらしい。
軍司自身は田舎にいたときには農作業をやっていたわけで、早起き自体はさして苦にもならなかった。
迷宮に入っているときのシロは、若い頃のように溌溂とした様子をしていた。
累積効果によって、迷宮外にいるときよりは、よほど元気な様子を見せている。
孫の静乃は、若いこともあって、すぐに迷宮という環境に馴染んだようだった。
その静乃が、なぜ自分から迷宮に入りたいといい出したのか、軍司はその理由をあえて聞いていない。
必要があれば、静乃自身の口から説明をしてくれるだろうと、そう思っていた。
静乃は迷宮という環境にすぐに慣れ、そして、素早く数多くのスキルを習得していった。
生やしたスキルの数が多過ぎて、そのすべてをすぐには使いこなせていないほどの勢いだ。
だが、静乃は若いからな、と、軍司は思う。
すぐに、そうしたスキルも使いこなしていくだろう。
軍司自身は、年齢とは関係ない理由により、迷宮という環境に馴染んでいる。
というのは、以前に順也が指摘をしたように、
「山の奥に入るよりは、迷宮に入る方が、よほどたやすい」
からだった。
まずもって、迷宮内は、山とは違い、気候が急変する心配をしなくていい。
また、〈フラグ〉とかいうスキルがあるおかげで、その気になりさえすればいつでも迷宮の入り口にまで引き返すことができる。
迷ったり、遭難したりする心配も、まずない。
それ以外にも、軍司にいわせれば、山の中で獲物を追うよりは、迷宮内でエネミーとやらを仕留める方が、ずっと楽であった。
なにしろ、迷宮の中では、獲物を方からこちらに向かってやって来てくれるのだから。
野生動物とエネミーとの大きな、そして致命的な違いは、多くの野生動物は、人間の存在を察知するや否や逃げにかかるのだが、エネミーはその反対に、人間を見つけ次第、全力でこちらに向かって来て攻撃をしようとする点にある。
狩る側からすれば、これほどやり易い相手もいない。
なにもせずとも、標的の側から近寄ってきてくれるのだ。
警戒心が強い獲物を僅かな痕跡を辿って追い詰めていく通常の狩猟の方が、迷宮内での狩りよりも、よほど複雑で難しかった。
「おれも探索者になる!」
順也の息子である颯
はやて
も、顔を輝かせてそういう。
順也の家で週に一度か二度、行われる、晩餐の席でのことだった。
「お前はもう少ししないと、探索者登録はできんなあ」
順也が平静な声で指摘をした。
「探索者になれるのは、最低でも十二歳の誕生日が来てからだ」
颯は静乃よりも四つ下で、まだ十歳だった。
この順也と嫁さんとは、大学の時分から迷宮に出入りするようになりはじめ、何度か中断の時期を経ながら、今の週末とかに迷宮に入っている。
あくまで副業として探索者をしているので、あまり深層へまで足を運ぶことはなく、浅層で獲れるエネミーの肉体を知り合いの食肉業者に卸して収入を得ているといっていた。
食べさかりの時期に食糧難を経験している軍司にしてみれば、迷宮産の食肉に対してあまりいい印象がないのだが、順也にいわせれば、それもシメ方と狙うエネミーを厳選することで、味はかなりよくなるという。
実際、ほとんど毎週末ごとに軍司と静乃とは順也の家にこうして招かれているわけだが、そのときに食べる肉は臭みがほとんどなく、かなりうまい。
「それから、田舎から連絡が来ての」
親類同士の談話が途切れたのを見計らって、軍司が別の話題を切り出した。
「うちの瓦礫を撤去する、手配がついたそうだ。
近いうちに一度、むこうに戻らねばならん」
このことは、静乃にはすでに告げていた。
その手の解体やら瓦礫撤去の業者もしばらくは順番待ちの状態で、ようやくこちらの番が回って来たのだった。
軍司としては戻るあてもないあの家の瓦礫など、しばらくそのままにしておいてもいいくらいの気持ちであったのだが、防災だか防犯だかの関係でお役所からできるだけ速やかに片付けるよう、指導が来ているのも事実なのだった。
都会ならばともかく、わざわざあの寒村にまで出向いていって放火やら火事場泥棒やらを行うと不届き者がいるとも思えなかったが、軍司の家の場合、その瓦礫の下に保管ロッカーに入ったままの猟銃も埋れているままにしてあったので、早めにケリをつけておくのに越したことはない。
それもまた、確かなことなのである。
仮に瓦礫で押しつぶされた猟銃を誰かが掘り出したとしても、そのまま使用できるわけもなかったが、そこは「管理責任」というやつで、最後まで軍次自身が見届ける必要があったのだ。
「ジ様、ひとりでか?」
「あんななんもない場所に、静乃やシロを連れて行っても仕方がなかろう」
軍司は即座にそういった。
もともとなにもない場所であったが、震災以後は、さらに嫌な思い出ばかりが残っている土地になってしまっている。
静乃にしてみれば、そのはずであった。
「だからまあ、しばらく、その間は静乃とシロを頼むわ」
せっかくの夏休みであることだし、まだ若い静乃はいつまでも昔に囚われずに、今をしっかりと楽しむべきだ。
軍司は、そう考えている。
老い先が短い自分とは違い、静乃ら若い者たちは、過ぎたことを振り返るよりは先を見据えておく方がよい。
そんなわけで、数日後、軍司はこちらに来たときと同じバンに乗って一路北へとむかう。
来たときからしばらく時間が経っているせいか、往路ではまだ不通であった道の多くが復旧されている。
その速度を見る限り、この国もまだまだ底力を残しているんだなと、頼もしくも思った。
なにしろあの震災から、まだ半年と経っていない。
トウキョウにいると、そのような災厄がこの国を襲ったばかりだということさえ忘れそうになるほど、以前となにも変わらない日常が続いている。
しかし高速を降り、次第に交通量の少ない道に入るつれて、いまだ生々しく震災の爪痕を残す光景が視界に入ってくる頻度があがる。
優先的に復興を支援される場所と、そうでない場所との区別は厳然して存在しており、被災地の周辺を長く走っていると、否応なくその格差を認識させられるのであった。
そして軍司の目的地は、そのうちのどちらかといえば放置をされている場所、つまりは世間的にみればいつまでも復興せずとも誰にも害が及ばないと、そのように判断されている地域に属していた。
途中、何度か休憩を取りながら、軍司は長年住んでいた、かつてのわが家へと帰ってきた。
とはいえ、今は単なる瓦礫の山であり、その周囲にトラロープが張り巡らされて、「立ち入り禁止」と大きく書かれたコピー用紙がいくつも透明なビニール袋に入れられた状態で、そのトラロープにぶら下がっている。
下手に足を踏み入れると瓦礫が崩れてその下敷きになりかねないので、注意をうながすためにそうした表示を行っているわけだが、当時の被災地ではどこにでも見られる風景でもあった。
瓦礫撤去の業者は明日から作業を開始するとかいっていたので、今日は軍司の他には周囲に人影がみえない。
震災の以前から村の人口は減る一方であり、隣家までたっぷり百メートル以上は離れているような田舎である。
以前からの寂れっぷりに、あの震災が駄目押しをしたようなものだった。
おそらくは、軍司たちの一家がこの村から引き払ったように、この村に在住していた者たちもほとんど別の場所に移住していくのだろう。
実際、ここに来るまで、軍司は村の衆の姿をついぞ見かけなかった。
おそらくは、軍司たちの一家がこの村から引き払ったのと同じよように、この村に在住していた者たちも、そのほとんどが別の場所に移住していくのだろう。
震災の被害を受けてもなお、無理をして住み続けるほどの魅力がある場所ではなかった。
寂しいことだが、仕方がない。
軍司は生まれ育った家の跡を見て、そう思った。
ときの流れとは、つまりはそういうものなのだろう。
高齢化もかなり進んでいたし、仮に震災がなかったとしても、あと何十年か経てば、この村はやはり自然に同じような結末を迎えていたことだろう。
そいつがいくらか早まっただけのこった、と、軍司は思う。
自分が年を取るのと同じように、無理に抗ったとしても、得るものはなにもないのだ。
その日、軍司は車の中に泊まり、翌日の早朝から契約をしていた瓦礫撤去の業者が周辺に集まり出した。
この辺ではまだ復旧している道が少ないので、かなり遠回りをしてきたようだが、それでもかなり余裕を見て出てきたらしく、午前の七時半ごろには家の前に到着している。
二トントラックが三台と、それに若い衆を載せたワゴン車が二台来ていた。
若い衆の中の、監督と名乗った男が軍次に挨拶に来る。
貴重品らしきものが出てきたら軍司に確認をしてくれること、猟銃をしまっていた保管ロッカーがあること、それに、仏壇付近から位牌などが出てきたら、やはり軍司に知らせてくれることなどを確認してから、撤去作業に入ってもらう。
仏さんはなあ。
車の中から作業を見守りながら、軍司はそんなことを考えた。
それこそ、仕方がない。
軍司たち一家の菩提寺であったお寺さんは、以前から住職の後継者のことでなにやら揉めていた様子なのだが、震災を機会に同じ宗派の別の村にある寺と実質的に合併することになっていた。
そのことが、軍司がこの土地から完全に引き払うことを決心させた一因にもなっている。
どうせ先祖代々守ってきた墓が元あった場所からなくなってしまうのならば、ついでにもっと便利のいい、お参りのしやすい場所に移した方がいいと、そのように判断したのだ。
こちらの早川家で残ったのは軍司自身と静乃の二人だけであったが、トウキョウの習志野さいけば、順也たち一家がおる。
だとすれば、どうせ移すのであれば、そちらに新しく墓を都合して、そこに移った方がいい。
そういや、順一や嫁の京子さん、順一の長男である、つまりは静乃の兄にあたる始は、ついに見つからなかったな、とか、軍司は思う。
彼らはそれぞれ車で遠くにある都会の職場や学校にいっており、そこで震災に遭遇している。
そして、今に至るまで消息が知れない。
常識で考えれば、これほどの時間をおいてなんの消息もないのだから、きっと、ずっと、このままなのだろうな。
軍司はそんなことをぼんやりと思うのだが、今に至るまで強い実感は持っていなかった。
途中、休憩時間ごとに車で買い出しに出ては冷たい飲み物を撤去業者に振舞ったりしながら、軍司は自分の家の家財がなんの価値もないゴミとしてトラックの荷台に積みあげられて行く様子を見守った。
こんなご時世でも、いや、震災のあとだからなおさらなのか、廃棄物の分別にはうるさく、木材、鉄、それ以外の金属、その他と、想像以上に細かく素材別に分けて、トラックの荷台に積んでいく。
仏壇も猟銃の保管ロッカーも、それぞれに半壊した状態で見つかり、軍司は仏壇からは位牌だけを取り出し、保管ロッカーは重機でこじ開けて貰って、銃身が曲がって使い物にならなくなった猟銃を出して、自分のバンに乗せた。
このうちの壊れた猟銃は、馴染みの銃砲店に引き渡して証明書を発行してもらい、狩猟許可を取った警察署にその証明書を提出する予定であった。
この国の法律では、銃器を所有するためにはいろいろと面倒な義務が課せられているわけで、煩雑だとは思うものの、軍司としてもその法を自分から逸脱するつもりはない。
「こんなの出てきたんですけど」
若い撤去業者が、ある物体をいくつか、軍司に見せた。
「奇跡的に、ほとんど無傷の状態です。
貰ってしまってもいいですか?」
「鉄砲の、オモチャか」
軍司は呟いた。
順一の息子である始が、そういえばそんな趣味を持っていたな、と、ぼんやりと思い出す。
ガス圧で玉が出るのと、格好だけのと、何種類かそのモデルガンとかいうオモチャを、始は持っていたはずだ。
「好きにしてくれ」
といいかけて、軍司はあわててその言葉を飲み込む。
「ひとつだけ、状態がいいものをこちらに貰えんかの」
よくよく考えてみれば、たとえオモチャといえども、始の形見ではある。
粗略に扱うべきではないし、そう、静乃への、いい土産になるだろう。
順也の家の庭先に入り、ビニール袋と水が入ったペットボトルを手にした静乃は、まっすぐシロの犬小屋へむかった。
シロは匂いで察したのか、小屋の前で静乃のことを待ち構えてシッポを振っている。
猟犬として躾けられているので無駄吠えはしないが、基本的に人懐っこい犬であった。
「よしよし」
静乃はシロの鼻面を少し撫でてから固定していたリードを外し、手に持って庭から出る。
まだ日が昇る前の、かなり早い時間であった。
もともと眠りが浅い静乃は、朝が早いことは苦痛ではなかった。
軍司がシロの散歩をしている日も、ほとんど同じ時間に起きている。
また、軍司が不在にしているこの数日は、シロも静乃も迷宮に入っていない。
迷宮に入らない日は、シロはいつもより長い距離を歩きたがった。
都会というのは、なにかと窮屈だなと、リードを持って歩きながら、静乃はそんなことを思う。
元住んでいた家では、シロも放し飼いでよかった。
人を襲わないように躾けているのは当然のこととして、そちらの村ではそれが当たり前だったのだ。
シロの方も、運動がしたかったら自分で勝手に裏山にでも出て行って、しばらくすると帰ってくる。
都会は、なんでも便利だし、綺麗で清潔で、快適ではあるけれど、やはり窮屈に感じることがある、というのが、この時点での静乃の感想である。
軍司が留守にしている間、マンションではなく順也の家に寝泊まりしないかとも誘われていたのだが、この誘いも静乃はさり気なく躱していた。
順也叔父さんの一家は、みんないい人だとは思う。
それはいいのだが、静乃にしてみれば、こちらに本格的に移ってくる以前は、年に一度か二度、会うか会わないかといった疎遠な親類でしかなかったわけで、それをいきなり打ち解けろというののも、無理に思える。
それでなくても、静乃はあの震災で肉親を失ったばかりであり、普段から気持ちの整理がついていない部分が多い。
普段から口が重い軍司ならばいっしょに暮らしていてもさして苦にはならないのだが、いい意味で普通の家庭である順也の一家としばらく寝食をともにするのは、今の静乃にしてみれと、かなりキツい。
学校の友人のように、同年輩で、ある程度距離感やつき合い方がわかっている相手ならばともかく、その距離感からして一から判断しなければならない相手と何日もいっしょに暮らすことは、今の静乃には、かなり大きな負担になる。
明確にそう思考をしたわけではないのだが、本能的に静乃は、軍司抜きで順也の一家と親しくつき合うことを、漠然と避けていた。
「ジ様さ、はやく帰って来ねかな」
シロを散歩させながら、静乃は、そんなことを思う。
軍司は、夏休みがあと数日で終わるという日に、こちらに戻って来た。
メールなどで毎日のようにぶっきらぼうな短文のメッセージは貰っていたので、軍司のことを心配していたわけではなかったが、実際に軍司の顔を目の当たりにすると、静乃の胸には自分でも不思議なほど、深い安堵の感情が広がる。
「これさ、出てきた」
帰ってきたばかりの軍司は、いつものように言葉少なく、持参した土産を静乃の前に差し出す。
「これ、アニさの」
アサルトライフルのモデルガンを目にして、静乃はそいったまま、しばらく絶句した。
なぜ胸が詰まるのか、静乃自身にもよくわからない。
「始さの、形見だ」
軍司は短く、しかし、はっきりとした口調でそういった。
静乃は軍司から手渡されたモデルガンを前にして、しばらく動けないでいた。
そのモデルガンの上に、ひとつ、ふたつと水滴が落ちていく。
静乃は、自分でも気づかないうちに泣いていた。
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