ブラッド・ライン #17

 夜になって、叶は『熊谷ボクシングジム』に入った。週末とあってか、中には大勢の練習生がひしめき合っていた。リング上では、会長の熊谷保くまがいたもつがプロボクサーの片岡護かたおかまもるとミット打ちをしていた。叶は熊谷に目礼してから、目当ての相手を探しつつ更衣室へ向かった。

 着替えを済ませて更衣室から出て来た叶に、その目当ての相手である仁藤玲奈にとうれいなが寄って来た。

「ア〜ニキッ!」

「おう、どうだ調子は?」

 叶が訊くと、玲奈は笑顔で右拳を突き上げた。

「絶好調。つか何で昨日来なかったの? 探偵の仕事?」

 玲奈の切り返しに乗じて、叶は前屈みになって玲奈に訊き返した。

「それなんだが、オマエ明日暇か?」

「明日? あ、ウン、バイトは午前中だけだからお昼からは全然。何で?」

「そうか、じゃあひとつ頼みがある」

「頼み? 何、探偵の助手とか?」

 目を輝かせる玲奈に、叶はかぶりを振りながら返す。

「助手、とはちょっと違うんだが、オマエに適任てきにんの役割だ」

 玲奈は一瞬難しそうな表情になるが、すぐに口角を吊り上げて尋ねる。

「適任か、ギャラくれる?」

「考えとく」

 あっさり答えて、叶は玲奈から離れてウォーミングアップを始めた。だが玲奈は不満げに追いすがる。

「え、ちょっとそこハッキリしてよ!」

「うるせぇな、出さないとは言ってねぇだろ、早く練習に戻れよ」

「何よ! 絶対貰うからね!」

 吐き捨てついでに歯をき出して「イ〜〜だ!」と言い放つと、玲奈は下唇を尖らせて踵を返した。叶は苦笑しつつ見送り、ウォーミングアップを続けた。


 翌日、いのりの自宅マンションの前に停まったバンデン・プラの中には叶と玲奈が居た。パーカーとミニスカートと言う出で立ちの玲奈は、スマートフォンを見ながら欠伸あくびを連発している。

「着いたぞ。オイ、もっとシャキッとしろよ」

 エンジンを停めた叶が注意するが、玲奈は眠そうな顔のまま言い返す。

「しょーがないじゃんウチ今日五時半起きなんだから」

「そいつぁ悪かったな、行くぞ」

 全く悪びれずに告げて、叶は運転席から出た。遅れて玲奈も降りる。マンションの玄関をくぐって階段で五階へ上がろうとした叶を、玲奈がジャケットの裾を引っ張って制した。

「何だよ?」

 肩越しに振り返って叶が訊くと、玲奈が心底嫌そうな顔で言った。

「ねぇエレベーターで行こうよ〜」

「甘えんな、これもトレーニングの内だ。オマエプロボクサーになるんだろ?」

「えぇ〜」

 嫌がる玲奈の腕を引いて、叶は意気揚々いきようようと階段を上った。五階に辿り着く頃には、玲奈は疲労にまみれて肩を落としていた。

「あ〜シンド。何でバイト終わりにこんな目に遭わなきゃなんないの?」

 膝に手を着いて、床に向かって文句をぶつける玲奈の脇に腕を通して無理矢理起こすと、叶は玲奈を引きずる勢いで五○三号室の前まで連れて行った。昨日同様、インターホンを三回鳴らす。

『はい、探偵さんですか?』

 スピーカーから聞こえるいのりの声には、やはり元気が無い。叶は顔をしかめつつ答えた。

「ああ、こんにちは。ちょっと、いいかな?」

『はい』

 素っ気無い返事の数秒後に扉が開き、部屋着姿のいのりが姿を見せた。その表情は暗い。叶は笑顔を作って言った。

「昨夜は、眠れたかい?」

「ええ、まぁ」

 いのりは叶と目を合わせずに答えた。昨日の今日で、いまだに心の整理がついていないのだろう。叶は間を外す様に周囲を見回してからいのりに告げた。

「あのさ、安全の為と言っても、ずっとひとりで部屋に引きこもってるのも息苦しいよね? だから今日は話し相手を連れて来たんだ」

「話し相手?」

 訊き返したいのりに、叶は横に控えていた玲奈の姿を見せた。

「はじめまして、仁藤玲奈です」

 先程までの疲労困憊ひろうこんぱいが嘘の様な爽やかな笑顔で、玲奈が挨拶した。戸惑いつつ会釈するいのりに、叶が説明する。

「コイツは、オレが前にボディガードした事があってね、それからプロボクサー目指して練習してる。一応高校生」

「一応って何よ、あ、どうもアニキがお世話になってます〜」

 わざとらしくしなを作って言う玲奈に、いのりが目を丸くする。

「プロボクサー? アニキ?」

「あ、ああ、その辺はおいおい、ともかく、オレよりコイツの方が話し易いんじゃないかと思ってね」

 叶がフォローすると、玲奈が提案した。

「ねぇアニキ、いくら身の危険があるからって、閉じこもってるのなんて可哀想かわいそうだよ。ね、皆でどっか行こ!?」

「オマエな、本当に判ってんのか? マジにヤバいんだぞ彼女」

 叶がしかめ面で言うが、玲奈は聞き入れずにいのりに向かって提案を続ける。

「ね! 一緒に出かけましょ! アニキがついてるから大丈夫だし、いざとなったらウチも戦うから」

「玲奈!」

「いいじゃん!」

 叶と玲奈の睨み合いを、いのりが止めた。

「あの、私も、外に出たいです」

「ホラァ〜、いのりさんもこう言ってるよ? それとも、守る自信無いのアニキ?」

 玲奈に意地悪そうな顔で訊かれ、叶はムッとして返した。

「何だと? 判ったよ、キチンとガードして見せるよ」

 途端に、玲奈が破顔はがんして声を上げた。

「やったぁ! そう来なくっちゃ、そうと決まればいのりさん、早く支度して!」

「あ、うん」

 いのりは玲奈につられて微笑し、叶に向かって軽く会釈して扉を閉めた。叶は溜息を吐くと、玲奈の頭を右手で鷲掴わしづかみして言った。

「この、上手く乗せやがって」

 髪を乱されながら、玲奈は叶を見上げて舌を出した。

「へっへ〜、してやったり」


《続く》



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