ブラッド・ライン #6

 叶の声に肩をすくませて振り向いたいのりが、せまり来る原付バイクに気づいて悲鳴を上げた。

「きゃあっ!」

 咄嗟とっさに道の端へ飛び退いたおかげで、間一髪の所で接触せっしょくまぬかれた。そのまま原付バイクはいのりを振り返る事もせずに走り去る。

「待て!」

 叶は追いかけながら原付バイクのナンバープレートを確認しようとしたが、中央から下が折り曲げられていてナンバーが読み取れなかった。

 追跡をあきらめた叶は、いのりに歩み寄って声をかけた。

「大丈夫、ですか?」

 道の端で横座りになったいのりは、叶を見上げて力無く頷いた。叶は身体を少しかがめていのりの状態を観察したが、特に怪我けが等はしていない様だ。周囲を見回してから、叶はいのりに告げた。

「落ち着いたら、警察に連絡するといい。それじゃ、お気をつけて」

 立ち去ろうとする叶の背中に、いのりの悲痛な呼びかけが浴びせられた。

「あ、あのっ!」

 身辺調査の対象と関わり合いになる事が、今後の仕事に影響が出かねないのは百も承知しょうちだが、このままいのりを放置して立ち去るのも余り気が進まない。

 数秒逡巡しゅんじゅんして、叶は振り向いた。

「何か?」

 いのりは切羽詰せっぱつまった表情で、叶に右手を伸ばした。

「こ、腰が抜けて、立てません」

 突然後ろからおそわれたのだ、無理も無い。叶は二、三度頷くといのりに背中を向けてしゃがんだ。

「家まで送ろう。さ、どうぞ」

「え? あ、ありがとうございます」

 いのりは少し困惑こんわくしつつも、身体を引きずる様に叶の背中につかまった。歩き出そうとした叶だったが、いのりからすれば初対面なのに自宅を知っているのは不自然だと思い直して、肩越しにいのりにいた。

「で、家はどちら?」

 いのりは無言で右腕を伸ばし、行き先を指差した。叶も無言で頷いて、マンションへ向けて歩を進めた。いのりの身体が小刻みに震えているのが、背中から伝わって来た。心臓も早鐘はやがねごと拍動はくどうしている。叶は少しでもいのりが落ち着く様に、殊更ことさらゆっくり歩いた。

 マンションの前へ辿り着いた所で、いのりが叶に言った。

「もう、大丈夫です、ありがとうございました」

 叶は足を止めて、慎重にいのりを降ろした。地に足をつけたいのりは、多少ふらつきながら叶に深々と頭を下げた。

「じゃ、失礼します」

「気をつけてね」

 自宅へ戻るいのりを、叶はしばらく見送ってからおもむろにスマートフォンを取り出した。

「二十二時三十一分、帰宅」


 事務所に戻った叶は、襲い来る眠気をコンビニで購入したコーヒーでまぎらわしながら、いのりの行動記録をノートパソコンに打ち込んだ。原付バイクに襲われた事実は、記載きさいしなかった。

 文書を保存してノートパソコンを閉じた叶は、コーヒーを飲み干して天井てんじょうあおいだ。

 いのりは、何故命を狙われているのか?

 この依頼は、本当に身辺調査か?

 あの女弁護士は、何かを隠していないか?

 様々な疑問が去来きょらいし、叶の眉間に深いしわが刻まれた。


 翌朝、いのりの自宅マンションから七、八メートル程離れた道路上に、叶のバンデン・プラが停まっていた。昨夜間近で顔を合わせてしまったので、路上で張り込んでいて万が一見られたら確実に怪しまれると判断した。これで昨日の様に電車に同乗する事はできなくなったが、調査継続の為には致し方無かった。

 やがて、昨日とは異なり白いダウンジャケットを着たいのりがマンションから出て来た。明らかに昨日よりも警戒心けいかいしんが増している。叶はダッシュボードに置いたスマートフォンに向かって「七時十二分、自宅を出る」と吹き込み、いのりとの距離を充分に開けてからエンジンをスタートさせた。駅へ向かう道中、いのりの身辺に特に変わった事は起こらなかった。叶はいのりが改札をくぐるのを確認してからアクセルをみ、大学へ先回りした。


 叶は大学の正門が見える横道にバンデン・プラを停めていのりの登校を待った。だが通学する生徒達の波の中に、なかなかいのりの姿が見えない。

「おかしいな、とっくに電車は着いてる筈だ」

 いぶかしんだ叶は、運転席を出て駅へ向かった。すると、駅の出入口近くにある交番の中で、いのりが背中を丸めて椅子いすに腰掛けているのが見えた。叶は対面で事情聴取じじょうちょうしゅおこなっている制服警官に怪しまれない様にそっと近づき、中の様子を窺った。すると、机の上に置かれたいのりのトートバッグの横腹が、大きくななめに切りかれているのが見て取れた。恐らく、ナイフかカッターを使ったのだろう。

 数分後、いのりが切られたトートバッグを抱えて立ち上がり、警官に礼をべて踵を返した。叶は慌ててその場を離れて身を隠した。いのりは青ざめた顔で交番を出ると、大学には向かわずに駅へ入った。叶は小走りにバンデン・プラに戻り、もどかしげにエンジンをかけた。


《続く》

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