薔薇の証明 #15

夜のとばりが降り、街灯の明かりが支配する街の中、自宅の玄関前で桜が部屋着のままバンデン・プラのヘッドライトに照らされていた。傍らには寛子も居る。桜は両目にライトの光を反射させながら、真っ直ぐ自分に迫る車を見据えていた。

 叶は桜の数メートル手前で停車すると、素早く運転席を出て桜に向かって手招きした。

「桜ちゃん! 早く!」

「探偵さん!」

 呼応こおうした桜が駆け寄るのに合わせて、叶が後部座席のドアを開けた。中を覗き込んだ桜の動揺が、側の叶にも手に取る様に判った。

「パパ!」

 ひと声喚くなり、桜は後部座席に飛び込んだ。後ろから叶が劉に声をかける。

「中野さん! 桜ちゃんだぞ!」

 すると、それまでしかめ面で俯き、荒い息を吐いていた劉が、ゆっくり顔を上げて微笑んだ。

「さ、くら、お、大きく、なったな」

「パパ、大丈夫? しっかりして!」

 桜が蒼白な顔で劉に縋りつくと、劉は優しく受け止めて言った。

「あ、んまり、くっつくと、汚れ、るぞ」

 桜は激しくかぶりを振り、血に染まったシャツに顔を埋めて泣きじゃくった。

「会いたかったよ、会いたかったよパパ!」

 七年ぶりの父娘の再会を、安堵と心配がないまぜになった表情で見ていた叶の傍らに、助手席を出た新田が寄って来た。

「良かったな、間に合って」

「オレは当然の事をしただけさ」

 叶がうそぶいて笑顔を見せていた時、車内から尋常ではない咳が聞こえた。直後に桜が狼狽した声を出す。

「パパ! パパ! 大丈夫?!」

 叶と新田が同時に中を覗き込むと、劉が再び夥しい量の血を吐き出していた。異常を察知したのか、それまで玄関先で見守っていた寛子も駆け寄った。命の危険を感じ取った叶が口走った。

「まずいな、救急車を――」

「いいんだ!」

 止めたのは劉だった。射すくめられそうな程の強い眼差しを叶に向けながら、片手で桜の頭を優しく撫でている。

「もう、いいんだ。ここらが、潮時、だ」

「しかし、それじゃあ」

 反駁しかける叶だが、上手く言葉が出て来ない。

 劉はこみ上げて来るものを堪えて微笑むと、桜の方を向いて言った。

「桜、い、今まで、寂しい思いさせて、ごめんな。あ、あの世へ行ったら、ママ、にも、謝らなきゃ、な」

「嫌だ、パパ、死んじゃ嫌!」

 顔をくしゃくしゃにして懇願こんがんする桜の頬を滝の様に流れ落ちる涙を、劉は己の血で朱に染まった指先で拭いながらかぶりを振った。

「本当に、ごめんな、で、でも最後に、桜に会えて、よ、良かっ、た、探偵さんに、感謝しないと、な。ああ、お母さん、桜の事、よろしくお願いします」

 劉が外の寛子を見て伝えると、寛子も大粒の涙をこぼした。

「ま、将人、さん」

「さ、桜、元気、で――」

 別れを告げようとした瞬間、劉の顔色が豹変ひょうへんした。咄嗟に桜を突き飛ばして距離を取ると、目を背けたくなる程の大量の血を吐き出して、それきり力を失って助手席の背もたれに頭を預け、微動だにしなくなった。辛うじてシートから転げ落ちるのを堪えた桜が、両目を真ん丸に見開いて唇を震わせた。叶がたまらず桜の肩越しに大声を出した。

「中野さん!」

「パパ? パパ! ねぇパパ! パパってば! ねぇ起きてパパ!」

 叶の声に触発しょくはつされたのか、桜が劉の身体にしがみついて激しく揺すった。だが二度と、劉が顔を上げる事は無かった。

 車内で桜が泣き喚き、車外で寛子がしゃがみ込んで顔をおおった。叶は放心した顔で後ずさり、新田にふつかって止まった。その新田も、沈痛ちんつうな面持ちで車内の様子を見ていた。

「亡くなった、か」

 新田の言葉に、叶が力無く頷くと、そこへ漆黒しっこくのセドリックが接近した。叶と新田が同時に視線を移すと、セドリックはバンデン・プラのすぐ後ろで停車した。数秒後に後部座席のドアが開き、中から白髪混じりの頭髪をゆるく七三に分けた、スーツ姿の初老の男性が降りて来た。怪訝そうに見つめる叶の横で、新田が驚いた顔で言った。

「岩瀬、警視長」

「何?」

 叶の表情が、瞬時に引き締まった。

 ふたりの前に現れたその男性こそ、かつて中野を潜入捜査官に仕立て上げた挙げ句に切り捨てた、岩瀬迅一郎じんいちろう警視長だった。

 目の前の男性の正体を知った刹那、叶が地を蹴っていた。

「テメェ!」

 思わず身構える岩瀬だが、硬く握られた叶の右拳は岩瀬に届かなかった。寸での所で新田が叶を羽交はがい締めに取っていた。

「やめろ叶!」

「放せ! コイツの所為で中野さんは――」

「判ってる! だがここは堪えろ」

「新田さん!」

 納得行かない叶だったが、新田の真剣な目つきを見て振り上げた拳を下ろした。新田は叶の拘束を解くと、軽く肩を叩いてから岩瀬に向き直った。

「警備企画課長がわざわざこんな所まで、何の御用でしょう?」

 新田がつとめて穏やかな口調を作って訊くと、岩瀬は溜息を吐いてから口を開いた。

「死んだか、中野は?」

 横柄おうへいな物言いがかんさわった叶が再び前に出ようとしたが、新田に片腕一本で制される。新田は未だに桜の嗚咽おえつが響くバンデン・プラを一瞥してから答えた。

「ええ、つい先程」

「そうか、惜しいな」

 岩瀬の言葉に、新田が眉を上げて言い返した。

「使える駒がひとつ亡くなったから、ですか?」

「何?」

 気色けしきばむ岩瀬にゆっくり歩み寄ると、新田は自分のスマートフォンで録音した劉の証言を再生した。聴いた途端に、岩瀬の顔が紅潮した。

「これは、何の真似まねだ?」

 新田は顔色ひとつ変えずに言った。

「岩瀬警視長、今のままでは彼は警視庁警察官の中野将人ではなく、チャイニーズマフィア『五虎』の構成員である劉恩海として葬られる事になります。貴方にとってはそちらの方が都合が良いかも知れませんが」

「何が言いたい?」

 眉間に皺を寄せながら訊く岩瀬に、新田が告げた。

「中野さんを警察官に戻す事と、警察葬をお願いしたい」

「何だと?」

 新田の提案を聞いた岩瀬が瞠目した。新田は更に続ける。

「貴方か過去におこなった、法を逸脱いつだつした行為が明るみに出る事を考えたら、そのくらい働きかけるのは容易たやすいんじゃありませんか? そのついでに、中野さんの名誉も回復して頂ければ尚よろしいですな」

 岩瀬が顎を引いてうなった。それから暫く、周辺を桜の啜り泣く声が支配した。

 やがて、岩瀬が沈黙を破った。

「判った。中野の籍は戻す。警察葬も、何とかしよう」

「ありがとうございます」

 返答を聞いた新田が、身体を四十五度に折って最敬礼した。岩瀬は忌々しげな顔で新田と叶を交互に見据えると、セドリックに戻った。直後に、セドリックがバックし、路地を利用してUターンした。遠ざかるテールランプを見送ってから、叶は新田に問いかけた。

「アンタ、どうして?」

 新田は肩越しに振り返ると、快活かいかつそうな笑顔で答えた。

「もしも俺が中野の立場だったらって考えたらよ、謎の中国人のまま死にたくねぇな、って思ってよ」

「本当かよ? あの岩瀬とかいうオッサンを強請ゆすって出世しようとしてたんじゃねぇのか?」

 叶が言い返すと、新田はわざとらしくおどけて見せた。

「ああ、その手があったか! しまった〜全然思いつかなかったぁ」

「嘘つけ」

 叶は吐き捨てる様に言うと、きびすを返して桜の所へ向かった。


《続く》



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