薔薇の証明 #14

 劉の口から飛び出した言葉に、叶も新田も驚きを隠せなかった。

 囮捜査とは、捜査担当者及びその関係者が身分をいつわって捜査対象に接触し、何らかの犯罪行為を誘発ゆうはつして検挙につなげる捜査手法だが、警察では違法行為とされている。唯一囮捜査が許されているのは、厚生労働省麻薬取締官こうせいろうどうしょうまやくとりしまりかん事務所、通称『マトリ』である。その囮捜査を、当時の県警本部長が主導したと劉は言っているのだ。

「しかし、何だってまた岩瀬警視長はそんな事を?」

 当然の疑問を、新田が口にした。劉は辛そうにつばを飲み込んでから答えた。

「岩瀬は、あの頃からしきりに中央に戻りたがってた。九州の片田舎で終わりたくないってな。後で知ったんだが、その頃岩瀬に異動の噂が出たらしく、奴は中央に戻る為の手土産がどうしても欲しかったそうだ」

「功を焦ったのか、まぁキャリアってのは上へ行けば行くほど座る椅子が減るからな」

 新田が言った『キャリア』とは、大学を卒業して国家公務員上級試験に合格し、警察庁に入庁した警察官僚かんりょうの通称である。叶が運転席でつまらなそうに鼻を鳴らした。

「岩瀬は、本部のマル暴所属の刑事が使ってた元売人を囮に仕立てさせて、おれが潜っていた組の売人に接触させた。だがその後がまずかった」

 言葉を切った劉が再び咳き込む。その様子をバックミラーで見た叶が心配顔で呼びかける。

「オイ、大丈夫か? キツかったら喋んなくていいぞ」

「馬鹿言え! こっからが肝心なんだろうが!」

 途端に新田が声を荒らげて反論する。劉は口の端の血を拭うと、ミラー越しに叶と目を合わせてひとつ頷き、話を続けた。

「当初の段取りじゃ、囮と売人が離れた所で県警の連中が売人をパクる筈だったが、いつからマークしてたのか、マトリが現場を押さえやがった」

「あちゃー、とんだ横槍よこやりだな」

「更にまずい事に、岩瀬はその囮におれの存在を教えてやがった。マトリに捕まった時におれの事をチラつかせたらしく、すぐに岩瀬の所に問い合わせが行ったそうだ」

 言い終えた劉は、苦しそうな表情で顔を背けた。

「それじゃ、何年もかけた潜入が水の泡じゃないか、どうしたんだそれで?」

 新田は遠慮会釈えんりょえしゃく無しに質問を浴びせた。叶は信号待ちと新田の態度に苛つきながら、ハンドルを握る手に力を込めていた。まだ桜の家までは距離がある。

「岩瀬はおれの事を隠す代わりに、取引の日時をマトリに流す約束をしちまった。勿論もちろんおれに黙ってな。頭の上でそんな取引が行われてたとは全く思わないおれは、やっと決まったチャイニーズマフィアとの取引の日時を正直に岩瀬に流した。その時の岩瀬が妙に歯切れが悪かったんだが、その時気づいてればおれはあんな目に遭わずに済んだ」

 それまで前のめりで話を聞いていた新田が、急に身体を引いたかと思うと上着のポケットをまさぐった。だが煙草を切らしているのを思い出すと忌々いまいましげに舌打ちして叶に言った。

「おい叶、コンビニ寄ってくれないか?」

「断る」

 叶はにべも無く返し、バックミラーで劉の様子をうかがった。咳こそ出ていないものの、その表情は明らかに苦しそうだった。額には脂汗あぷらあせが浮かび、シャツの胸の辺りはずっと強く掴んでいるので皺だらけになっている。

「もうちょっとだ、頑張れよ」

 視線を前方に向けたまま励ます叶の隣で、新田が改めて尋ねた。

「で、取引当日は?」

 劉は少し身じろぎし、大きく息を吐いてから答えた。

「岩瀬との打ち合わせでは、おれ達が取引を終えて現場を離れてからそれぞれを県警の連中が包囲する段取りだった。だがそこでも、取引の真っ最中にマトリが入って来た」

「抜け駆けってのはそれか」

 反応したのは叶だった。一昨日劉がトイレで喋った言葉を思い出したのだ。劉は叶を見て頷く。

「しかもマトリは潜入がおれだとは知らない訳だから、容赦無くおれもパクろうとした。おれは必死で逃げたよ、その時点じゃまだ岩瀬を信じてたからな。おれは何とかマトリの追跡から逃れて岩瀬に助けを求めた。だが岩瀬はおれからの電話に一切出なかった。奴はおれを切り捨てたんだ!」

 興奮し過ぎた所為か、また劉が口を押さえて咳き込んだ。その手の隙間すきまから、今までにない量の血がしたたり落ちた。

「中野さん!」

「劉!」

 叶と新田が同時に呼びかけた。劉は己の足元におびただしい量の血液を撒き散らしながら咳き込み、全身を震わせた。つられて叶の顔面も蒼白そうはくになる。

「オイ、しっかりしろ!もうちょっとで桜ちゃんに会えるぞ!」

 半ば喚き散らしながら、叶はアクセルペダルを踏み込んだ。片や新田は助手席の背もたれを掴んで首を伸ばし、尚も劉に問いかけた。

「そんなお前が何で今回も岩瀬に情報を流したんだ?」

 劉は咳を堪えて血まみれの口を腕で拭くと、憎悪丸出しの顔で答えた。

「今回の取引日時はガセだ。今夜あいつをあの倉庫におびき出して、武器弾薬もろとも吹っ飛ばずつもりだった」

「なるほど、それで五虎も神山組も居なかったのか」

「おれは香港に逃げた後も、律儀りちぎに岩瀬に連絡を取ってた。だが奴はおれの元妻、桜の母親が病気で死んだ事すらおれに教えなかった。おれが彼女の死を知ったのは、今回の取引の為に日本に来てからだ。奴は九州でおれを見捨てた癖に、五虎に入ったおれを利用しようとしたんだ。その為に、おれに里心がつかない様に情報を隠してたんだ」

「だから、せめてものつぐないに墓参りに行ったのか? わざわざ薔薇とカモミールを調達して」

 叶の言葉を聞いて、劉の顔がややほころんだ。

「彼女は、本当に花が好きだった。おれや桜の誕生日には必ず誕生月の花をアレンジメントにして贈ってくれた。彼女のおかげで、花言葉も沢山覚えたよ、もう殆ど忘れちまったがな」

「今でも覚えてる数少ない花言葉が『ごめんなさい』かよ?」

 叶は思わず肩越しに振り返っていた。劉は叶の眼差まなざしを拒む様に苦笑しつつ顔を明後日の方向に向けた。

「それも必死に記憶からひねり出したんだ、駄目な男だろ」

「そんな事ねぇよ、オイ中野さん、見なよ」

 叶があごをしゃくった。劉は視線をフロントガラスに移して、瞠目どうもくした。

「アンタの娘だ」


《続く》

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