薔薇の証明 #9

「組対にガサをかけられるいわれはねぇがな」

 叶はわざと余裕をよそおって返した。『ガサ』とは『ガサ入れ』の略で、家宅捜索を表す警察の隠語だ。対する新田の声はトーンが低くなった。

「心配するな。俺はもう劉達の担当じゃない」

「どういう事だ?」

「それも含めての話だ。とにかく開けてくれ」

 叶は眉間にしわを寄せて少し考えたが、ここで拒否して公妨なんて言われたら面倒なので仕方なく扉を開けた。入って来た新田は、叶の顔を見て驚いた様子で訊いた。

「何だその顔?」

 新田の指摘を受けて己の顔に手を当ててみると、鼻の頭と左の頬骨の辺りに痛みが走った。前蹴りを受けた箇所かしょり傷になっているらしい。叶は新田を睨みつけて答えた。

「やられたんだよ、アンタの仲間に」

「仲間? 何の事だ?」

「とぼけんな、三人がかりで袋叩ふくろだたきにしやがって」

 文句をつけながらソファに腰を下ろした叶に、新田は心底戸惑った表情で尋ねた。

「三人がかりだと? 何でそいつ等が警察官だって判った!?」

 未だ新田を信用していない叶は、舌打ちして言い返した。

「ひとりが特殊警棒持ってやがったんだ。しらばっくれんな」

「いや待て、俺は本当に知らん。今日突然上司からの命令で担当を外されたんだ、それでなくても俺にはお前に危害を加える理由が無い」

 疑っていた叶も、動揺を隠さずに抗弁する新田を見て、嘘は言っていないらしいと判断した。

「まぁいい、それで話って何だ?」

 改めて叶が訊くと、新田は叶の対面に座ってジャケットのポケットに手を突っ込みながら口を開いた。

「それなんだがな、ああその前に煙草いいか?」

「構わんが灰皿は無いぜ」

 叶の返答を聞いた新田は、煙草の箱とライターを一旦前のテーブルに置いてから、逆のポケットに入れていた携帯用吸い殻入れを取り出した。表情を曇らせる叶をよそに一服つけてから、新田が切り出した。

「お前、劉が中野将人とか言う元警察官だって言ったな?」

「それがどうした」

「警視庁のデータベースを調べたが、中野将人と言う警察官は存在しなかった」

 中野のデータが抹消されているのは既に風間から聞いて知っているので、叶は大して驚かない。

「だから俺は、所轄時代同僚だった奴に訊いたり、年齢から年次を割り出して同期の警察官に話を聞いたりした。すると確かに、中野将人という警察官は存在した」

 新田は言葉を切ると、煙草をゆっくり吸い、盛大に主流煙を吐き出した。匂いに顔をしかめる叶に構わず、もう一度紫煙しえんを撒き散らしてから続けた。

「だが同期も、元の同僚も、誰も今中野が何処で何をやってるか全く知らない。誰ひとり、だ」

 叶は目の前にただよう煙を手で払いながら言った。

「アンタまさか、ここまでわざわざ泣きごと言いに来たのか? それともオレに手を引かせる為にそんな話をしてるのか?」

 新田はかぶりを振ると、煙草を吸い殻入れに押し込んで返した。

「いや、警告だ」

 風間に続いてのただならぬ言葉に、叶の表情が引き締まる。新田は口の中に残った煙を力強く吐き出してから続けた。

「警察官の個人データが消される要因はふたつある。ひとつは、SATサットに入隊した時」

 SATとは、警視庁を始めとする全国八都道府県に配備されている特殊部隊の通称である。所属隊員の身の安全等に考慮して、入隊した警察官のデータは一時的に抹消される。

「だが中野がSATに入る事はあり得ん」

「何でだよ?」

 叶がいぶかしげな顔で訊くと、新田は上目遣いで叶を見返して答えた。

「SATに入れるのは機動隊の中でも能力に優れた隊員だけだ。警備畑にすら居なかったらしい中野には無理だ」

「へぇ。それで、もうひとつは?」

 叶が先を促すと、新田の表情が険しくなった。

「それは、潜入せんにゅう捜査だ」

「潜入? 本当にあるのかそれ?」

 叶は半信半疑で質問を重ねた。映画や小説といったフィクションの世界にしか存在しないと思っていたものを、急に現職の刑事から聞かされてすっかり戸惑っていた。

「あるさ、まだ組対が編成される前、暴力団を扱う捜査四課、通称マル暴や、生安の銃器対策課や薬物対策課じゃ捜査対象の組織の内部情報を得る為にふた通りの方法を取った」

「またふたつかよ、二択クイズやってんじゃねぇんだぞ」

 混ぜ返す叶を、口角を吊り上げて一瞥してから新田が続けた。

「ひとつは組織の中にエスを作る。エスってのは早く言えばスパイだ、つまり組織の人間を抱き込んで情報を引き出させる。これは公安の連中も得意とする手だ」

「寝返らせるって事か」

「そうだ」

 叶の言葉に頷いた新田が、新たな煙草を取り出して火を点けた。

「ふたつ目が潜入だ。警察官の中から適任者を選び出して、偽りの身分を与えて目当ての組織に潜り込ませる。目的にもよるが、一度潜入したら軽く七、八年は戻って来れない」

「そんなにか?」

 叶は思わず身を乗り出していた。その拍子に新田が吐き出した主流煙の迎撃げいげきを受けて顔をそむける。

「ああ。潜り込んで相手の信用を得るのも、任務を終えて組織から脱出するのも簡単じゃない。特に脱出は慎重の上に慎重を重ねなければ上手く行かん」

「なるほど、中野はその潜入だとアンタは思ってる訳だな?」

 新田は叶の問いに二、三度頷くと再び煙を吐き出した。

「中野は生安に居た訳だし、SATよりかは現実味がある。問題は、誰が中野を潜入させたかだが、少なくとも組対じゃない事は確かだ。もしそうなら俺達の耳に入らない訳が無い」

 煙草を咥え、腕組みして考え込む新田に、叶が尋ねた。

「そう言やアンタ、捜査を外されたって言ってたな。何で急に?」

「判らん。理由を聞いても取り付く島が無かった」

 新田はのろい動きで頭を振ると、煙草をひと吸いしてみ消した。その全身からにじみ出る無力感に、叶の表情も深刻になる。

 事務所内を支配しかけた沈黙を、叶が破った。

「アンタ、それで引き下がるのか?」

「何?」

 新田の鋭い眼光が、叶に突き刺さった。


《続く》

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