薔薇の証明 #8
「中野将人さん、ですよね?」
叶が振り返って訊くと、劉は横目で
「人違いだ」
手洗い場に立つ劉に並びかけて、叶は更に訊く。
「日本人なのは認めるって事ですか? 何故中国人のフリしてるんです?」
劉は手を洗い終えて傍らのタオルペーパーで手を拭き、叶を無視して
「桜ちゃん、娘さんが会いたがってますよ」
桜の名前を出した途端、劉は突如叶に急接近して胸倉を掴んだ。
「おれの事は放っておいてくれ、俺には時間が無いんだ」
小声だが、有無を言わさぬ口調で劉が言った。叶も気圧されない様に腹に力を入れて言い返す。
「そうは行くか、こっちも仕事なんでね」
「仕事?」
「オレは探偵。桜ちゃんにお父さんを探してくれって依頼を受けてな」
再び桜の名前を聞いた劉が、一瞬物悲しそうな顔になった。だがすぐに表情を引き締めて叶を睨みつける。
「とにかく、おれにかまうな。おれは――」
言葉を
「どうした?」
叶が尋ねた直後、劉が口を手で押さえて激しく咳き込み出し、床に膝を着いた。
「お、おい、大丈夫か?」
「发生了什么(どうした)?」
叶は郭を見上げて「オイ、救急車呼べ!」と指示するが、当然郭には通じない。叶は不思議そうな顔で見返す郭を押しのけてトイレから顔だけを出し、声を張り上げた。
「誰か! 救急車呼んでくれ!」
十分程で救急隊が店に到着し、苦しむ劉をストレッチャーに乗せて運んだ。救急隊員は最初郭に事情を尋ねたが、やはり日本語が判らない郭には対応ができない。そこへ叶が割り込み、どさくさに
車内では劉に応急処置が施され、何とか
病院に到着し、叶は今にも逃げ出そうとする劉を隊員と共に半ば引きずる様にして診察室へ入れた。ベンチに座ってひと息吐けたと思った所へ、看護師が現れて事情を訊かれた。叶は劉を中国人だと説明し、状況を伝えた。
一時間以上が経過した。叶が何本目かの缶コーヒーを飲み干した所で、
「あの方、劉さん、ですか? 取り敢えず入院してもらいます」
叶はベンチから立ち上がり、医師に問いかけた。
「あの、彼はどんな病気なんですか?」
医師はすぐに答えず、一旦周囲を見回してから俯き加減で言った。
「肺
「末期?」
予想を超えた返答に、叶は思わず目を見開いた。
劉は恐らく、自分の病状を知っていた。だからこそ時間が無いと叶に告げ、救急搬送も断ろうとした。
癌に
明日の夜十時に、粂崎埠頭で何があるのか?
謎を解明する術が見つからないまま、叶はベッドに寝かされて病室へ運ばれる劉を見送り、『諸葛飯店』の電話番号を調べて公衆電話からかけた。対応した店員に事情を説明し、入院先を郭に伝える様に頼んで電話を切った。
タクシーを使って『諸葛飯店』の近くに戻った叶は、組対二課に見つからない様に用心しながらコインパーキングに回り、バンデン・プラを出した。念の為に『ホテルサンセットヒルズ』の前を通ってみたが、組対二課の車に変わった様子は見られなかった。
「な、何だオマ――」
叶が激痛を堪えながら言いかけた所へ、今度は前の男から強烈なボディブローを受けた。二度の不意打ちを食らった叶が咄嗟に身体を沈めて横に転がり、
純白のスーツがすっかり
「劉恩海に近づくな」
「オ、オマエ等、チャイニーズ、マフィアか?」
叶の問いに、男は頭突きで答えた。鼻を押さえて顔を背ける叶に、男は更に言った。
「手を引け。いいな」
男は叶の頭を乱暴に離し、手に付着した髪の毛をわざと叶の上に払い落として立ち上がり、他の二人と共に駐車場から離れた。痛みに顔を歪めながらその後ろ姿を見送る叶の目に、男のひとりが手に持った
いつもの倍近く時間をかけて事務所に辿り着いた叶が、汚れたスーツを脱いでジャージに着替えていると、出入口の扉が強くノックされた。時計を見ると、午後八時を大きく回っている。
叶はのろい動きで出入口に近づくと、深く息を吐き出してから告げた。
「どちら様? 今日はもう閉店だ」
すると、扉の向こうから野太い声が返って来た。
「警視庁の新田だ。話がある」
叶の全身に、緊張が走った。
《続く》
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