薔薇の証明 #8

「中野将人さん、ですよね?」

 叶が振り返って訊くと、劉は横目で一瞥いちべつしてから口を開いた。

「人違いだ」

 手洗い場に立つ劉に並びかけて、叶は更に訊く。

「日本人なのは認めるって事ですか? 何故中国人のフリしてるんです?」

 劉は手を洗い終えて傍らのタオルペーパーで手を拭き、叶を無視してきびすを返した。だが叶は尚も食い下がる。

「桜ちゃん、娘さんが会いたがってますよ」

 桜の名前を出した途端、劉は突如叶に急接近して胸倉を掴んだ。

「おれの事は放っておいてくれ、俺には時間が無いんだ」

 小声だが、有無を言わさぬ口調で劉が言った。叶も気圧されない様に腹に力を入れて言い返す。

「そうは行くか、こっちも仕事なんでね」

「仕事?」

「オレは探偵。桜ちゃんにお父さんを探してくれって依頼を受けてな」

 再び桜の名前を聞いた劉が、一瞬物悲しそうな顔になった。だがすぐに表情を引き締めて叶を睨みつける。

「とにかく、おれにかまうな。おれは――」

 言葉をごうとした劉が、突然顔をゆがめた。同時に叶の胸倉を掴んでいた手の力も緩む。

「どうした?」

 叶が尋ねた直後、劉が口を手で押さえて激しく咳き込み出し、床に膝を着いた。

「お、おい、大丈夫か?」

 狼狽ろうばいして屈み込んだ叶の目の前で、劉のあごに赤い筋が引かれた。狼狽を深めた叶が介抱しようとするが、劉はその腕を振り払う。そこへ、出入口の扉が開いて郭が入って来た。うずくまる劉を認めて声をかける。

「发生了什么(どうした)?」

 叶は郭を見上げて「オイ、救急車呼べ!」と指示するが、当然郭には通じない。叶は不思議そうな顔で見返す郭を押しのけてトイレから顔だけを出し、声を張り上げた。

「誰か! 救急車呼んでくれ!」


 十分程で救急隊が店に到着し、苦しむ劉をストレッチャーに乗せて運んだ。救急隊員は最初郭に事情を尋ねたが、やはり日本語が判らない郭には対応ができない。そこへ叶が割り込み、どさくさにまぎれて救急車に同乗した。

 車内では劉に応急処置が施され、何とかひどい咳は治まったらしい。落ち着きを取り戻した劉は、救急隊員に何度か降ろして欲しいとアピールしたが、隊員は許さず、叶も止めた。

 病院に到着し、叶は今にも逃げ出そうとする劉を隊員と共に半ば引きずる様にして診察室へ入れた。ベンチに座ってひと息吐けたと思った所へ、看護師が現れて事情を訊かれた。叶は劉を中国人だと説明し、状況を伝えた。


 一時間以上が経過した。叶が何本目かの缶コーヒーを飲み干した所で、ようやく診察室の扉が開いた。中から白衣を着た若い男性医師が出て来て、叶と目が合うなり厳しい口調で告げた。

「あの方、劉さん、ですか? 取り敢えず入院してもらいます」

 叶はベンチから立ち上がり、医師に問いかけた。

「あの、彼はどんな病気なんですか?」

 医師はすぐに答えず、一旦周囲を見回してから俯き加減で言った。

「肺がんです。それも、末期の」

「末期?」

 予想を超えた返答に、叶は思わず目を見開いた。

 劉は恐らく、自分の病状を知っていた。だからこそ時間が無いと叶に告げ、救急搬送も断ろうとした。

 癌におかされた身体にむち打って、劉は何をしようとしているのか?

 明日の夜十時に、粂崎埠頭で何があるのか?

 謎を解明する術が見つからないまま、叶はベッドに寝かされて病室へ運ばれる劉を見送り、『諸葛飯店』の電話番号を調べて公衆電話からかけた。対応した店員に事情を説明し、入院先を郭に伝える様に頼んで電話を切った。


 タクシーを使って『諸葛飯店』の近くに戻った叶は、組対二課に見つからない様に用心しながらコインパーキングに回り、バンデン・プラを出した。念の為に『ホテルサンセットヒルズ』の前を通ってみたが、組対二課の車に変わった様子は見られなかった。


 月極つきぎめ駐車場にバンデン・プラを入れて出て来た叶の前に、スーツ姿の男が立ちはだかった。もう日も暮れかけているのにサングラスをかけている。不審に思った叶が口を開きかけた時に、背後に別の気配を感じて振り返ろうとした瞬間、首の辺りに強い衝撃を受けた。

「な、何だオマ――」

 叶が激痛を堪えながら言いかけた所へ、今度は前の男から強烈なボディブローを受けた。二度の不意打ちを食らった叶が咄嗟に身体を沈めて横に転がり、はさみ撃ちの状態から逃れた。首筋を押さえながら立ち上がろうとした所へ、今度は背中に何かがぶつかり、前につんのめった。軽く咳き込みつつ地面に空いた手を着いて後ろをあおぎ見ると、革靴の底と対面した。顔面に前蹴りを貰い、叶は地面に横倒しになった。そこへ、もう二本の脚が容赦なく襲いかかった。叶は必死に身体を丸めて防御を試みるが、脚はあらゆる角度から叶を蹴りつけた。

 純白のスーツがすっかり土気色つちけいろに染まった頃、叶は髪を掴まれて無理矢理起こされた。最初に対面したサングラスの男が叶に顔を近づけて冷徹な口調で告げた。

「劉恩海に近づくな」

「オ、オマエ等、チャイニーズ、マフィアか?」

 叶の問いに、男は頭突きで答えた。鼻を押さえて顔を背ける叶に、男は更に言った。

「手を引け。いいな」

 男は叶の頭を乱暴に離し、手に付着した髪の毛をわざと叶の上に払い落として立ち上がり、他の二人と共に駐車場から離れた。痛みに顔を歪めながらその後ろ姿を見送る叶の目に、男のひとりが手に持った得物えものをしまう様子が見えた。それは警察官が使用する伸縮しんしゅく式の特殊警棒とくしゅけいぼうだった。


 いつもの倍近く時間をかけて事務所に辿り着いた叶が、汚れたスーツを脱いでジャージに着替えていると、出入口の扉が強くノックされた。時計を見ると、午後八時を大きく回っている。

 叶はのろい動きで出入口に近づくと、深く息を吐き出してから告げた。

「どちら様? 今日はもう閉店だ」

 すると、扉の向こうから野太い声が返って来た。

「警視庁の新田だ。話がある」

 叶の全身に、緊張が走った。


《続く》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る