薔薇の証明 #7

 パンを完食した叶は、缶コーヒーを煽りながら思案にふけった。

 劉恩海が中野将人だという確証はいまだ無いが、警察の様な権力を持たない私立探偵の叶には確証を得る術が殆ど無い。劉に直接確かめようにも組対二課にホテルの内外を固められては手も足も出ない。

 缶コーヒーを飲み干した叶の視界に、午前中にホテルに入ったふたりの刑事が戻って来るのが見えた。万が一を考慮してシートの背もたれを倒して身を隠したが、刑事達は叶の方には目もくれずに車へ取り付き、助手席側から中へ向かって何事か話した後にひとりは後ろのドアを開けて車内に入り、もうひとりはこちらへ小走りに近づいた。

「見つかったか?」

 狼狽ろうばいした叶が慌てて狸寝入たぬきねいりするが、刑事はあっさりバンデン・プラの横を通り過ぎた。叶が頭を上げると、刑事は先程叶も利用したコンビニエンスストアに入って行った。

「パシリかよ」

 独りごちた叶が、ふと何かを思い出した。そのまま数秒考え込むと、エンジンをかけて呟いた。

「ちよっとバクチだが、やってみるか」

 バンデン・プラは組対二課の車の脇を通ってその場を離れた。


 午後四時少し前に、『ホテルサンセットヒルズ』付近のコインパーキングに再びバンデン・プラが入った。降りた叶の服装は今までのダークスーツから純白のスーツに変わっていた。そこから、ホテル前で張り込む組対二課の車を避ける様に遠回りし、昨日新田と九条に職務質問を受けた路地を通って大通りに出た。何気ない風を装って左右を見回してから、叶は素早く雑居ビルに入った。

 エレベーターで三階に上がると、真正面に『諸葛飯店』と縦に大書された扉と対面した。

「まさか羽扇持ったオッサンがお出迎えって事は、ないか」

 呟いて微笑すると、叶は扉を引き開けて店内に足を踏み入れた。直後に、威勢いせいは良いがイントネーションのおかしい挨拶が飛んで来た。

「らしゃいまーせー!」

 出迎えたのは、小太りの中年女性だった。ありがちなチャイナ服ではなく、清潔そうな白いブラウスと黒いスラックスに身を固めている。ひとつ難を挙げるなら、地肌との差が明瞭めいりょうな程の厚化粧からただよう強烈なファンデーションの匂いか。

 叶は女性の営業スマイルに愛想笑いで応じると、案内に従って店の奥へ進み、二人掛けのテーブル席に陣取った。夕方に差し掛かっているからか、店内はそこそこ賑わっていて、あちらこちらで日本語と中国語が入り混じった雑多ざったな会話が交わされている。

 テーブルに置かれたメニューを開くと、当然ながら漢字のオンパレードだった。叶は料理名の上に小文字で書かれた解説を頼りに、先程とは別の女性店員を呼び止めて水餃子すいぎょうざ麻婆豆腐まーぼーどうふを注文した。入れ替わる様に現れた最初の中年女性店員から水を受け取ってひと口飲むと、叶は腕時計に目を落とした。時刻は午後四時十分を少し回った所だった。昨日と同じ行動パターンならば、劉と郭はそろそろ現れる筈だ。

 五分程って、出入口の扉が開いた。入って来たのは、叶の読み通り劉と郭だった。叶は口角が上がりそうになるのを奥歯に力を込めてこらえ、ふたりの姿を目で追った。先に立つ劉が出迎えた女性店員に何事か告げると客席の奥、叶から見て左へ進んだ。その先に、上階へ上がる階段が見える。叶が首を伸ばし気味にふたりの後ろ姿を見つめていると、視界をさえぎる様に店員が水餃子と麻婆豆腐を運んで来た。受け取ったついでに、叶は店員に上階に何があるのか尋ねた。

「上はぁ、個室があるです。予約制ですよ」

 無言で頷いた叶は、テーブル隅に置かれたしゅ塗りの箸を取り上げて、水餃子をつまんだ。

 三、四分くらい後に、店に恰幅かっぷくの良い中年男性が入って来た。その左右を、スーツを着ていても判るくらい筋肉質の男性ふたりが固めていた。その身のこなしから、叶はふたりがボディガードなのだろうと見当をつけた。

 店員は中年に対してやたらへりくだった応対をして、奥の階段へ促した。中年は軽く頷いて、ボディガードと共に階段を上った。

 店員の態度からして、中年は単なる店の常連じょうれん客ではなさそうだ。仮にここが劉達の組織の息のかかった店だとしたら、中年は組織の幹部かんぶクラスかも知れない。

 妙な緊張を感じながら麻婆豆腐を口に運ぶ叶だったが、花椒かしょうかたまりを飲み込んでしまい、激しくむせた。


 食事を済ませた叶が、追加で頼んだ烏龍茶うーろんちゃをちびちび飲んでいると、劉がひとりで階段を降りて来た。出入口には向かわず、トイレの案内表示がある方向へ足を向けた。叶は素早く立ち上がり、近くに居た男性店員にトイレの場所を訊いてから移動した。

 男子トイレの扉をゆっくり押し開くと、正面に手洗い場が設置されていて、叶は鏡に映った自分と対面した。右手に空間が伸びていて、手洗い場と並ぶ様に小便器が二台置かれ、その奥に個室がふたつ見える。その内のひとつだけ扉が閉ざされているので、劉が利用しているのだろう。叶は特に便意をもよおしてはいないので、小便器の前に立って用を足すふりをしながら耳をそばだてた。

「明日だ。夜の十時、粂崎埠頭くめざきふとう。ああ、そうだ」

 個室から男の声が漏れ聞こえた。叶は出入口を気にしながら、続きを待った。

「あの時みたいに他が抜け駆けして来る事はないんだろうな? 危うく死ぬ所だったんだからな」

 男の口調には、怒りと焦燥しょうそうが感じられた。

 それからふた言三言交わして、会話は終わった。水を流す音に続いて個室の扉が開き、劉が出て来た。叶は用を足し終えた体で身体を震わせ、劉が背後を通り過ぎた瞬間に呼びかけた。

「中野さん」

 劉の足が、止まった。


《続く》





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