おとうと #24

 数日後、叶のバンデン・プラは再び『国料大学付属病院』の駐車場に入った。叶が運転席から出た直後に、後部座席のドアが開いて私服姿の美緒が降り、続いてジャージの上下という出で立ちの忍が窮屈きゅうくつそうに身体を丸めて出て来た。よほど車内がせまく感じたのか、忍は外へ出るなり「ウーン」と唸り声を上げながら大きく伸びをした。

「すまんな、小さい車で」

 叶が振り返って謝ると、忍が慌ててかぶりを振った。

「あ、いえ、乗せてくれてありがとうございます」

 苦笑で受け止めると、叶は姉弟の前に立って歩き出した。

 源治郎が居る病室が近づくにつれて、忍の足取りが明らかに重くなる。叶と美緒が病室の前に辿り着いた時には、忍との距離は十メートル近くに開いていた。見かねた美緒が、戻って忍を見上げる。

「どうしたの?」

「姉さん……僕、やっぱり」

 忍が憂鬱そうに呟くと、美緒は忍の腕を掴んで励ました。

「ここまで来て何弱気になってるの? 自分の口から話すって、忍が決めたんでしょ? わざわざ探偵さんに頼んで付き添ってもらったんじゃない」

「うん……」

 俯いて口を尖らせる忍に、叶が歩み寄った。

「オイ忍、ここで止めたら、オマエは一生自分を殺して生きて行く事になるぞ? それに、やる前から負けを認めるなんて、それこそオヤジさんが許さないだろ」

 その言葉を聞いた忍は、暫くけわしい表情で思い詰めていたが、やがて意を決した様に顔を上げると、両手で頬を二度叩いて気合いを入れた。

「よしっ! 行きます!」

「オウ!」

 笑顔で応えて、叶は再び病室へ歩を進めた。

 出入口で、叶は身を端に寄せて姉弟を中へ促した。会釈して美緒が先に入り、続いて歯を食い縛った忍が大股で入室した。その後ろ姿を見ながら、叶が続く。

 源治郎のベッドの周囲を囲むカーテンの向こう側を覗き込んだ美緒が、中に声をかけた。その後、振り返って頷き、忍を手招きした。忍も美緒に頷いて見せてから、叶を振り返って言った。

「じゃ、行って来ます」

「オウ、行って来い」

「はい!」

 真っ直ぐな眼差しで応えた忍が、カーテンの向こうにその巨体を入れた。叶が足音を忍ばせてベッドに近づくと、中から忍の緊張した声が聞こえた。

「父さん、実は……」

「何だ、はっきり言いなさい」

「その……えっと」

 叶のすぐ前で、美緒が両手を胸の前で組み合わせていのる様な姿勢しせいを取っている。その口からはか細い声で「忍、頑張れ」と漏れている。

 数秒後、中から忍の力強い声が聞こえた。

「僕、プロの漫画家になります!」

「な、何!?」

 声の調子だけで、中の源治郎の動揺が手に取る様に判った。忍の少し震え気味の声が続く。

「僕はずっと、父さんに褒めてもらいたいって理由だけで柔道をやって来ました。でも、それじゃ父さんに申し訳ないし、何より柔道に失礼だと思います。でも、漫画は昔からずっとなりたかった、僕の夢なんです。お願いします。漫画家を、やらせてください!」

 一瞬、カーテンがそよいだ。恐らく忍が父に向かって深く頭を下げたのだろう。

 重苦しい沈黙が訪れた。美緒の両手は遂に額にくっつき、身体は小刻みに震えている。叶も不安げな顔で、親子の対面をおおい隠すカーテンを凝視した。

 永遠にも感じられる数分間が過ぎて、漸く源治郎の声が聞こえた。

「判った、やってみろ。その代わり、途中で投げ出す事は断じて許さん」

「は、はい! ありがとうございます!」

 喜色に満ちた忍の声が病室内に響いた。と同時に、美緒が両手をほどいて安堵の溜息を漏らした。

「はぁ、良かった」

 美緒が振り返って叶を見た。叶も美緒を見返して、微笑で応える。そこへ、忍が出て来て叶と美緒に向けて言った。

「はぁ、言えました」

 叶は忍に向かって頷くと、二人の脇を抜けてカーテンの向こうへ顔を出した。気づいた源治郎が、やや気の抜けた表情で言った。

「君か」

 叶は軽く頭を下げて、姉弟を一瞥いちべつしてから口を開いた。

「ご子息は、多分今までで一番の勇気を持って、ここまで来ました。その思いを受け止めてもらえた様で、安心しました」

 源治郎は小さくかぶりを振った。

「いや、儂は忍に、自分のエゴを押しつけていたのかも知れんな。いつまでも何もできない子供だと思っていたが、知らない内に成長するものだな。叶君、だったか、君の言葉は身にみたよ。感謝せねばいかんな」

 今度は叶がかぶりを振る番だった。

「いや、あの時は生意気言ってすみませんでした。では、お大事に」

 頷く源治郎に慇懃に頭を下げて、叶はベッドから離れた。

 廊下に出た叶に、姉弟が呼びかけた。

「あの」

 叶が振り返ると、美緒と忍が並んで深々と頭を下げた。

「色々と、お世話になりました」

「いや、気にするなって。忍、頑張れよ」

「はい、頑張ります」

 忍の力強い返事に満足げに頷き、叶が姉弟に軽く手を振って踵を返した。その背中に、美緒の声が追いすがった。

「本当に、ありがとうございました、探偵さん、いや、ともちんさん!」

 叶の身体が、膝から崩れ落ちた。


〈『おとうと』了〉

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