おとうと #1

『熊谷ボクシングジム』の中央に鎮座ちんざするリングの中で、叶友也かのうともやが両手にパンチングミットをめて胸の前辺りに構え、顔面とTシャツを大量の汗で濡らしながら目の前の少女に向かって叱咤しったの声を浴びせていた。

「どうしたぁ玲奈れいな!? まだ半分あるぞ!」

「ハイ!」

 叶の対面たいめんでパステルカラーのジャージを着て両手に真っ赤なパンチンググローブを嵌め、叶に劣らない量の汗を流している仁藤玲奈にとうれいなは、眼前にかかげられたミットをにらみつけながら、荒い息を吐きつつパンチを繰り出した。

 リング上で繰り広げられる、叶と玲奈の熱のこもったミット打ちに、周囲の練習生達も半ば圧倒されていた。

 壁に設置されたデジタルタイマーがけたたましい音を立てて、三分経過を告げた。ボクシングジムのタイマーは、実際の試合同様に一ラウンド三分とインターバル一分のサイクルでアラームが鳴る。試合感覚をやしなう為だ。

「よぉーし、OK!」

「あー終わった!」

 ミット打ちが終わるなり、玲奈はポニーテールにまとめていた髪をほどきながらリングを降りた。叶はその後ろ姿を苦笑交じりに見つめながらミットを外し、玲奈の後に続いてリングを降りた。

 叶が使っていたミットの内側に消臭スプレーを吹いていると、背後から玲奈が声をかけた。

「ねぇアニキィ」

「ん?」

 叶と玲奈は、かつて叶の本業で知り合ったが、その時に叶に連れられてこのジムに来た事がキッカケで玲奈はプロボクサーを目指す様になった。玲奈の顔は、行方不明の叶の妹、麻美に瓜二つなのだが、玲奈に「お兄ちゃん」と呼ばれる事を叶が嫌った為、代替案だいたいあんとして「アニキ」と呼んでいる。

「あのさぁ、明日事務所行っていい?」

「は? 暇潰ひまつぶしならお断りだ、それにオマエ、アルバイトあんだろ」

 肩越しに振り返って答える叶に、玲奈は首に掛けたスポーツタオルで顔の汗を拭いながら更に言った。

「違うって、本業の方。先輩が依頼したい事があるんだって」

「何?」

 叶は消臭スプレーを置いて、玲奈に向き直った。

くわしく話せ」

 叶の本業は、私立探偵である。


《続く》


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