匿う男 #1

 軽快なBGMを切り裂く様に、乾いた破裂音はれつおんと激しい息遣いきづかいが響く。

熊谷くまがいボクシングジム』の中央に鎮座ちんざするリングの上で、叶友也かのうともやの構えるパンチングミットに立て続けにパンチが打ち込まれる。

「よぉし、もう一丁!」

 叶の発破はっぱに、若い練習生が力強くうなずき、汗を飛び散らせながら己の両拳を振るう。叶も着ているTシャツを汗で染めつつ受ける。

 ジム内に、三分経過を告げるベルが鳴り渡り、思い思いの練習をしていた練習生達が一斉に動きをゆるめた。

「OK! 今日はこれまで!」

 叶が大声で告げると、練習生はファイティングポーズをいて深々と頭を下げた。

「ありがとうございましたぁ!」

 ミットを外してリングを下りた叶に、練習生が後ろから声をかけた。

「あの、叶さん」

「ん?」

「叶さんって、たまに来なくなりますよね?」

「あ、あぁ、まぁな」

 言葉をにごす叶に、練習生はリングを下りて更に訊いた。

「叶さんは、教え方もわかやすくて、気合も入れてもらえて、すごく良い練習になるんです。だからもっと、叶さんに指導して欲しくて」

「あ、悪い」

 照れ笑いと共に練習生の言葉をさえぎり、叶は出入口近くの壁を指差して言った。

「オレ、本業はあっちなんだ」

 叶が差した先には、十代と思しき女性の顔写真が大きくせられた、色褪いろあせたチラシが貼ってあった。写真の下に、『この女性を探しています 叶麻美かのうあさみ(失踪当時十六歳) 心当たりのある方は以下へ御連絡ごれんらくください 叶探偵事務所かのうたんていじむしょ』と大書されていた。


 ジムの掃除そうじを済ませてスーツに着替きがえた叶は、愛車バンデン・プラ プリンセス一三〇〇をってジムを後にした。指導の疲労からか、猛烈な眠気におそわれた叶がこみ上げる欠伸あくびみ殺した時、左から突然人影が車の前に飛び出した。

「うわっ」

 叶は思わず声を上げ、ブレーキペダルに全体重をかけた。耳障みみざわりな音を立てて車がまり、反動で叶の身体が前につんのめった。

「あぁびっくりしたぁ……あっ」

 大きく息を吐いた直後、叶はあわててシートベルトを外して運転席を飛び出し、車の前方へ駆けつけた。そこには、小柄こがらな女性が長い黒髪を乱して倒れていた。

「オイ! 大丈夫か!?」

 叶は女性のそばかがみ込み、上半身に手をかけてかかえ起こした。彼女の顔を見た途端とたん、叶の表情が驚きで硬直した。かすかに震える唇から、言葉がれる。

「あ……麻美?」

 その顔は、ジムに貼ってあったチラシの顔写真、即ち叶の妹の麻美と瓜二うりふたつだった。

 声をかけられた少女は、数秒キョトンとしていたが、急に顔をしかめてまくし立てた。

「は? ちげぇし。つかアサミって誰? それより危ねぇなオッサン! もうちょっとで死ぬ所だったじゃねぇかよオイ!」

 顔に似合わぬ口汚い罵声ばせいを食らって、たちまち叶の表情がめた。叶の知っている麻美は、決してこんな汚い言葉は使わない。

 叶は彼女の身体から手を離し、立ち上がって告げた。

「そんなに元気なら心配ねぇな」

「はぁ? ふざけんな、今ウチはすげぇビビったんだぞ! それにホラ、手もいてるじゃんか、慰謝料いしゃりょう払えよオッサン!」

 いくら麻美にそっくりとは言え、赤の他人から二度までもオッサン呼ばわりされて不愉快ふゆかいになった叶は、額に数本青筋を立てて言い返した。

「ふざけんなだと!? そりゃこっちの台詞せりふだ、横から急に飛び出しといて勝手な事言ってんじゃねぇぞ! 最低限の交通ルールも知らねぇくせにデカイ口叩たたくな!」

「何だとこの――」

 やり返そうと口を開きかけた少女が、来た方を振り返るなり顔を引きつらせ、急に立ち上がって叶にすがりついた。

「そんな事より助けて! 変な奴等やつらに追っかけられてんの!」

「変な奴等?」

 叶がいぶかしげな顔でのぞき込むが、街灯が少ないせいか見通しが悪く、怪しい人影は確認できない。

「誰も居ないみたいだぞ」

「とにかく助けてよ」

 そう言うが早いか、少女は叶の脇をすり抜けてバンデン・プラの助手席に入り込んでしまった。慌てて叶が運転席側に回り込み、ドアを開けて怒鳴どなりつけた。

「オイ、勝手に乗るな!」

「いいじゃん減るもんじゃなし、それより早く車出してよぉ」

 急に声のトーンを上げて、ひとみうるませながらうったえる少女にあきれつつ、叶は運転席に座ってエンジンをかけた。


「くそっ、逃げられた」

かれたら手間がはぶけたのにね」

「どうする?」

「バンプラだったね」

「バンプラ?」

「車だよ。僕が昔観てた刑事ドラマで主役が乗ってたんだ」

「それがどうした?」

「今時あんな車乗ってる人、そんなに居ないでしょ。案外簡単に見つかると思うよ」

「なるほどな……頼むぜ」


《続く》


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