蘇る本能 #26

 その場で柔軟体操を行って身体をほぐすと、表情を引き締めてファイティングポーズを取り、シャドーボクシングを始めた。最初はゆっくり、徐々にスピードを上げて空へパンチを繰り出す。拳が風を切る音が室内に響き、叶の額に次第に汗が浮く。時折、後ろへ大きくバックステップして、相手のタックルを切る様な動作も混じる。

 叶の上半身にも汗が浸食しんしょくした頃、部屋の扉がノックされて、直後に外から男の声が聞こえた。

「五分前です。入場の準備をお願いします」

 叶はシャドーボクシングを止め、バッグからタオルを出して身体と額の汗を拭い、タオルを戻してバッグのチャックを完全に閉めて長椅子の上に置いた。

 部屋を出ると、薄暗い廊下に運転手が立っていた。

「こちらへどうぞ」

 叶を促し、先に立って歩き出す運転手の後を、少し遅れて叶がついて行く。先へ進むにつれて、大勢の人間が出すざわめきの様な音が少しずつ聞こえて来た。オクタゴンに近づいている実感に、にわかに緊張感を増した叶が二、三度肩を上下させた。

 やがて、灰色の無機質な扉の前まで来た。この向こうに、佐伯とアンドラーデが闘っていたオクタゴンがある。叶の脳裏に、首を絞められて血泡を吹く佐伯の顔が過る。無意識に顎を強く噛み締め、歯が軋る。

 扉の向こうのざわめきがひときわ大きくなった。その直後に、リングアナウンサーの声が聞こえた。

『お待たせ致しました。只今より、本日のメインイベントを開始致します! 赤コーナーより、選手の入場です!』

 紹介が終わり、観客が更に大きな歓声を上げた所で、運転手が扉を開けて叶を促した。軽く頷いてから、叶は俯き加減で扉をくぐった。途端に、スポットライトの直撃を受ける。

「当て過ぎだ」

 眉間に皺を寄せて呟くと、叶は視界を確認しつつオクタゴンに向かって歩き出した。途中で歓声のする方に目を向けると、そこには異様な光景が広がっていた。

 広いスペースにいくつもの円卓が並び、そこに年齢も性別も様々な大勢の観客が、高級そうな衣裳を身にまとい、顔を色とりどりの仮面で隠してこちらを注目していた。その手にはワイングラスと札束が握られ、彼等の間を数人の男が動き回って金を受け取ってまわっていた。

「なるほど、そういう事か」

 叶が小さく吐き捨てた。

『蘇るパンクラチオン』は、薩摩が胴元を務める賭博場でもあるのだ。賭けの対象は当然、試合に出場する選手である。場内で現金を集めているのは、迂闊うかつに電子化して違法賭博の物的証拠が残る事を恐れた為であろう。

 義憤ぎふんに似た感情をき上がらせながら、叶はオクタゴンに足を踏み入れた。マットに目を落とすと、前の試合で流れたと思われる血の跡が散見された。

 金網の扉が閉まった直後に、再びリングアナウンサーが喋り始めた。

『続いて、青コーナーより、選手の入場です!』


《続く》

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