蘇る本能 #14

 一方的になぐられていたはずの叶の表情は、まるで何事も無かったかの様に涼しげだった。

「そんな、何でだ?」

 動揺する長身に、身体を起こした叶が言った。

「残念だったな。オレはボディで倒れた事が一回も無いのが数少ない自慢でな」

「ほざけ!」

 長身が再び右ボディブローを打つが、叶は左掌で右へ逸らし、お返しとばかりに己の右拳を長身の腹へ吸い込ませた。

「おげぇっ」

 綺麗に鳩尾みぞおちに入り、長身は腹を押さえて悶絶した。それを見た小肥りが間合いを詰めるが、叶は素早く向き直って今度は左拳を右脇腹へ強振した。肝臓を強かに打たれた小肥りも顔面蒼白になって膝から崩れ落ちた。叶は小肥りの正面にしゃがみ込むと、怒気を含んだ声で告げた。

「いいか、あの娘はオレの依頼人だ、依頼人に手を出してみろ、絶対に許さんぞ! どうせ誰かボスが居るんだろ? そいつにもちゃんと伝えとけ!」

 上着の内ポケットから名刺を一枚取り出して地面に叩きつけると、叶は立ち上がって言った。

「オレは逃げも隠れもしねぇ」


 大通りに面したビルの一階全てを占めている『熊谷くまがいボクシングジム』に、スーツ姿に大きなスポーツバッグを肩に掛けたアンバランスな状態の叶が駆け込んだ。

「オッス、遅くなりました」

「おぅ、来たか友也」

 ジムの会長で、元世界ウェルター級王者の熊谷保くまがいたもつが、ジムの端から声をかけた。

「すみません、ちょっと仕事で」

 叶は熊谷に言い訳すると、玄関で皮靴を脱いで下駄箱の上に置き、フローリングの床へ上がった。その場でバッグを下ろして中に一礼してから、奥の更衣室へ向かった。そこへ熊谷が問いかける。

「友也、仕事って、探偵のか?」

「え? 当たり前じゃないスか」

 叶の返答に、熊谷は渋い表情で「そうか」と呟くと、それきり押し黙った。訝りつつ、叶は軽く会釈して更衣室に入った。

 四分ほどで、白いTシャツと黒いジャージのズボン、ボクシングシューズという格好に変わった叶が、スポーツタオルを首に掛けながら更衣室から出て来た。

 ジムの中央にはリングが鎮座し、中では数人の練習生がシャドーボクシングを行っている。リングの周囲にはサンドバッグが三本とパンチングボールがふたつ設置され、腹筋ベンチやトレーニング器具も置かれている。空いたスペースでは、他の練習生が縄跳びをしたり、一方の壁のほぼ全面に貼られた鏡に向かってシャドーボクシングをしている。

 ジムの壁に掛けられたタイマーが、三分を経過した所でベルの様な音を鳴らすと、それまで思い思いに動いていた練習生が、一斉に息を吐いて動きを緩める。一分後には再びベル音が鳴り、休んでいた練習生はまた活発に動き出す。ボクシングの試合は一ラウンド三分間、インターバルは一分間と決まっている。その時間感覚を養う為に、常にタイマーは同じタイミングで音を出し続けている。

 インターバルに入った所で、リング上で身体を動かしていたひとりの若い男の練習生が、叶に向かって呼びかけた。

「叶さん! 一丁お願いします!」

「おぅひろしか、OK、やるか!」

 応えた叶は、ジムの片隅にまとめて置いてある道具類の中から、使い込まれたパンチングミットをひと組取り上げてリングに上がった。宏と呼ばれた練習生は、コーナーポストの根元に置いた自分のパンチンググローブを嵌めて、叶に一礼した。他の練習生がリングを下り、タイマーのベル音が鳴ると叶は両手に着けたミットを二度軽く打ち合わせて、

「さぁ来い!」

 と気合充分に言って構えた。宏のパンチが小気味良い音を立てて、ミットを叩いた。


《続く》

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