蘇る本能 #15

 午後十時を過ぎ、練習生が全員帰ったジムの中で、叶と熊谷が床にモップをかけている。ひと息吐いた熊谷が、手を止めて叶に訊いた。

「なぁ友也、いつまで探偵やるつもりだ?」

 叶は視線を床に落としてモップをかけながら答えた。

「決まってんじゃないスか。麻美を見つけるまでっスよ」

「しかし、もう八年だろ。いくら何でも――」

「タモさん」

 熊谷の言葉を、叶が強い口調で遮った。

「タモさんの言いたい事、よく判ります。こうして、ジム手伝わせてもらって、正直ありがたいです。でもオレ、絶対あきらめませんから」

 叶が顔を上げて見つめた先、ジムの出入口脇の壁には、やはり色褪いろあせた麻美の顔写真入りのチラシが貼ってあった。

「……すまん」

 俯いてびると、熊谷は再びモップを動かした。叶もまた、掃除を続ける。

 暫くの間、床を拭く音だけがジム内に響いていたが、急に叶が沈黙を破った。

「そういえばタモさん、佐伯仁って今どうしてるか知ってますか?」

「佐伯? あぁ、あのキックに行った奴か。急にどうした?」

「いや、ちょっと」

 熊谷の問いに叶が言葉を濁すと、熊谷は懐かしそうに言った。

「あぁ、彼奴はお前と同期だったっけな。東日本新人王の準々決勝、彼奴あいつに判定で負けたんだよな」

「ハイ」

 ほろ苦い記憶と共に、アンドラーデの裸絞めで血泡を吹いた佐伯の顔を思い出し、叶は顔を曇らせた。

「確か、古巣に戻ったって話は聞いた気がするけど、それからは判らんなぁ」

 熊谷が首をかしげつつ言うと、叶は「そうっスか」と応えて掃除を切り上げた。熊谷は不審そうに叶を見るが、何も言わずにモップを片付けた。


 翌朝、ランニングと朝食を済ませた叶が事務所に戻って仮眠を摂ろうとすると、デスク上のファックス付き電話機が鳴った。不機嫌そうに溜息を吐いてから、叶はアームチェアに腰を下ろして受話器を取った。

「ハイ叶探偵事務所」

『あ、ちょっと伺いますが』

 聞こえて来たのは、重低音の男の声だった。

「何です? 浮気調査なら他当たってください」

 やる気の無さそうな叶に対し、相手は尊大な口調で問いかけた。

『貴方、叶友也さんと仰る?』

「ええ、そうですよ」

 叶が認めると、相手が予想外の質問を浴びせた。

『貴方もしや、かつて日本スーパーライト級二位にまで上り詰めながら、王座挑戦目前で突然引退してしまった元プロボクサーの叶友也さんではありませんか?』

「なっ」

 叶は思わずアームチェアの背もたれから跳ね起き、受話器を耳から離して凝視した。


《続く》


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る