蘇る本能 #12

 鈍い音がして、アンドラーデの鼻が真横に曲がった。意識も飛んだのか、両目があらぬ方向を向いた。叶が思わず「うっ」と呻いて顔を歪める。

 立場を逆転させた佐伯が、朦朧もうろうとするアンドラーデの顔面に狂った様にパンチを打ち込み始めた。肘と指二本が折れている右腕も動員している。ガードもままならないアンドラーデの瞼の傷口が更に開き、飛び散った血液が純白のマットに水玉模様を描く。何かに取りかれたかの様に両拳を振るう佐伯を見ながら、叶はうわごとの様に、

「やめろ、佐伯、もうやめろ……」

 と呟き続けた。

 一分近く殴り続けた佐伯が、打ち疲れたのか一旦間を置いて息を吸い込み、とどめを刺すかの様に左腕を振りかぶった。

 渾身の力を込めた左拳が振り下ろされた瞬間、アンドラーデが両脚を佐伯の胴に絡みつかせ、パンチを左へ受け流しながら身体を左へ回転させた。全体重を拳に乗せていた佐伯は、堪え切れずに前へ倒れ込んでしまう。

またも体勢が入れ替わり、アンドラーデがうつぶせの佐伯の背後で馬乗りになった。すかさず右手を佐伯のあごの下に差し入れ、腕を首に巻きつけて己の左上腕をしっかり掴んだ。左腕は直角に畳み、掌を後頭部に押し当てる。柔術でいう裸絞めの状態だ。アンドラーデは身体を密着させ、全身に力を込めて絞め上げた。

 佐伯は顔を真っ赤にしながら、歯を食い縛って耐えていた。首に巻きついた腕に己の左手をかけて引き剥がそうと試みるが、深々と入った腕は全く動かせない。

 そのまま、どのくらい絞められていたか叶にも判然としなかったが、急に佐伯の左手の抵抗が止み、マットに落ちた。直後に佐伯が両目を見開いたかと思うと、口の端から血の泡を吹いて頭を前に垂れた。

「えっ?」

 叶が困惑する間も絞め続けたアンドラーデが、やがて相手の身体から力が抜けた事に気づいてやっと腕を解き、両脚も放して立ち上がった。俯せに倒れたまま微動だにしない佐伯を見下ろしながら、アンドラーデがゆっくり両手を挙げた。直後にゴングが打ち鳴らされ、大歓声が湧き起こった。

 ここで唐突に映像が止まった。だが叶は放心状態でモニターを見つめ続けた。

「……何なんだ」

 ようやく言葉を絞り出すと、叶はのろい動きでパソコンの電源を切り、左手を額に当てがいつつ立ち上がって部屋から出た。

「あの、どうしたんですか?」

 奥のリビングから、史穂が廊下を覗き込んで尋ねた。叶は左手を下ろして微笑を作り、

「大丈夫、何でもないよ」

 と答えてリビングへ入った。


《続く》

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