蘇る本能 #10

 再びオクタゴンにスポットライトが当たり、先ほどのリングアナウンサーの男がマイクを掲げた。

『続きまして、青コーナーより、選手の入場です!』

 今度は画面が青く染められ、カメラがリングアナウンサーの左側を向いた。映った扉を開けて出て来たのは、上半身裸に真っ赤なトランクスのみを履いた日本人だった。

「えっ? 佐伯仁さえきじん?」

 先ほどより声は小さいが、叶が受けた衝撃は大きかった。

 佐伯仁は元プロボクサーで、日本スーパーライト級王座に就いた事もあるが、後にキックボクシングに転向した。しかし怪我が重なって一年で引退を余儀無くされた。その後は古巣のボクシングジムに戻ってトレーナーをやっている、と叶は記憶していた。その佐伯がこの得体えたいの知れない興行に関わっている事に、叶は不審を覚えずにいられなかった。

 佐伯もひとりでオクタゴンに入り、画面が通常の色彩に戻った。ここまで、オクタゴン内とその周辺以外は全く映っていない。外から不特定多数の人間が発するざわめきが聞こえるので観客は居る様だが、どうもカメラがわざと観客席を避けて撮影しているらしい。

 両選手を紹介してリングアナウンサーがオクタゴンを出た所で、叶が重要な点に気づいた。

「レフェリーが居ない?」

 通常、格闘技に限らず全てのスポーツでは、競技の進行を管理、監視し、ルールに則って公正な判断を下す第三者がそのフィールド内に配置される。だが、今映っているオクタゴンの中には、アンドラーデと佐伯しか見当たらない。その状態のまま、試合開始のゴングが鳴り響いた。

 アンドラーデは背中を丸めて両腕を前に出し、開いた両掌を下に向けて、右脚を前に出して肩幅よりやや広めのスタンスを取っている。片や佐伯は両腕をほぼ直角に曲げ、軽く握った両拳を顔の高さに構えて、左脚を前に出して後脚に重心を置いている。キックボクサーがよく使うアップライト・スタイルという構えだ。

 二人はオクタゴン内をゆっくり右回りにサークリングしながら、互いの出方をうかがっている。二人の描く円が徐々に縮小し、互いの腕を伸ばせば触れ合うほどの距離まで近づいた時、佐伯が左足を踏み込んで左ジャブを放った。だがアンドラーデはひるまず、佐伯の拳が戻るのに合わせて一気に前進し、タックルに入った。すると、その動きを予測していたのか、佐伯が即座に右膝を突き出した。カウンターの膝蹴りがアンドラーデの左頬を掠めて肩口に当たった。体勢を崩しつつもアンドラーデは右腕を伸ばして佐伯の左脚を掴んだ。バランスを崩しかけた佐伯が、アンドラーデの髪を左手で掴み、右腕を折り畳んで肘を真っ直ぐ相手の後頭部へ振り下ろした。

「あっ!」

 叶は驚愕きょうがくの声を上げた。現在の総合格闘技では、後頭部や背骨等、生命の危険に繋がりかねない箇所への打撃はルールで禁止されている。その行為を平気で行っている事が、この試合が公に出せない代物だと雄弁に物語っていた。


《続く》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る