蘇る本能 #9

 六畳の室内の約三分の一ほどを、金属パイプ製のロフトベッドが占拠せんきょしていた。マットレス部は叶の肩より少し上に位置している。ベッドの真下に座卓とクッションが置いてあり、座卓の上にデスクトップパソコン一式が鎮座している。

 床にはジョイント式のラバーマットが隙間無く敷き詰められ、ダンベルやベンチ等のトレーニング器具が整然と並ぶ。奥の壁にそびえる本棚には、格闘技やトレーニング関連の書籍が満載されていた。ベッドの反対側がクローゼットになっている。

 叶は史穂に「ちょっとパソコン動かすね」と断ってからロフトベッドの下に潜り込み、パソコンを起動させた。部屋を出た史穂が扉を閉めた音を聞き流しつつ、叶は座卓の引き出しを開けて中を物色した。文房具や生活用品に混じって、金融機関からの封書や貸金業者からのダイレクトメール等がしまわれていた。

 OSが立ち上がり、モニターの画面に多数のアイコンが表示されると、叶はすぐにマウスを掴んでカーソルを動かし、メールソフトのアイコンをクリックした。

 受信ボックスを開くと、個人的な知り合いやジム関係者からのメールと、貸金業者からの返済督促とくそくメールが見られた。その中の一通、『サンプル』という題名のメールが叶の目を引いた。

「何だ?」

 メールを開くと、本文は『御検討ください』とだけ記されていた。添付ファイルの存在に気づいた叶が、すぐにファイルを開いた。すると、動画再生ソフトが立ち上がり、数秒後に真っ黒な画面の中央に『よみがえるパンクラチオン』という白い文字がゆっくりと浮かび上がった。

「蘇るパンクラチオン?」

 叶が音読して首を傾げる間に、文字は溶ける様に消えて、代わりにある構造物が映し出された。

 真っ白な八角形のマットの全ての角に黒いウレタンを巻いた支柱が立ち、その間を同じく黒い金網がつないでいる。多くの総合格闘技の興行で採用されている『オクタゴン』と呼ばれる競技施設である。その中央に、黒光りするタキシードを着て、濃いサングラスをかけた男が、右手にマイクを持って立っていた。スポットライトを一身に浴びつつ一礼すると、男はマイクを掲げて喋り始めた。

『皆様、大変長らくお待たせ致しました。只今より、本日のメインイベントを開始致します。赤コーナーより、選手の入場です!』

 しゃべり終えると同時にスポットライトが消え、画面全体が赤い照明で染まった。直後にカメラが男の右手に振られて、スポットライトに照らされた灰色の扉を映し出した。数秒後にその扉が開いて、ひとりの男が姿を現した。男の容貌ようぼうを見た瞬間、叶は思わず声を上げた。

「ペドロ・アンドラーデ!」

 その男は、かつてブラジリアン柔術世界選手権で二度の優勝経験があり、総合格闘技でも好成績を残している柔術家だった。叶の記憶では一昨年に引退し、その後は日本のブラジリアン柔術道場に招かれてコーチに就任している筈だった。

 アンドラーデは現役時代と同じく、純白の柔術着と黒帯で身を包み、セコンドをひとりも連れずにオクタゴンに近づき、金網の一ヶ所に設けられた扉をくぐって中に入った。スタッフらしき男によって扉が閉ざされると、アンドラーデは帯を解いて上衣を脱ぎ、金網の外に放って帯を結び直した。露わになった褐色の上半身には、様々な紋様の刺青が施されている。特に左胸に彫られた太陽をイメージした刺青が目を引く。


《続く》

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