希望と絶望

第19話 希望と絶望

 人には誰でも、主義主張がある。それは尊重すべきものだし、軽んじる気など毛頭ない。だから、今回の件についての批判は粛々と受け止める覚悟はできている。

 ただ、批判をする前に少しだけ考えてもらいたい。確かに、いま状況は切迫しているといえるだろう。金平の話では、復活した人間が、私たちリボットの自由意志を奪おうと、画策している。早急に、その策略を絶たねばならない。時間はない。すぐにでも行動に移るべきだ。分かっている。すべて分かっている。だがしかし。だがしかしだ。

 つまり私たちにも休養は必要だということだ。躰はもちろん、特に精神的な面での、休養だ。それだけは理解してもらえないだろうか。だが、ここでまた批判をするものがいるだろう。休養は理解できる。ただ、これは幾らなんでも不謹慎ではないかと。いやまあ、それはそうなんだが。

 だがもう一度だけ、心を広くして考えてもらいたい。つまり私たちは、遅すぎたということだ。神に誓って、いままで私たちの間に、そう言った行為は、まったく、かけらも、つゆほどもなかった。今時には珍しいことで、いや、だからといって、それが言い訳にならないことは、十分承知しているのだが。

 ただほら、あんなことがあって、二人の気持ちもいつになく昂ぶっていたわけだし。雰囲気も悪くなかった。だから、流れでそういうことになったことを、責め過ぎるのは、あんまりというものじゃないだろうか。いや分かってるんだ。大変なんだよな。急がないといけないな。でも、えっと、駄目だろうか。

 ちなみに、峯岸さんたちのことを聞いたのは、春日とことが終わった後だった。そこは声を大にして言いたい。いくら私でも、世話になった先輩が死んでしまったというのに、そんなことをするわけが、わけが、いや、まあ、どうだろう。自信はあまりない。それだけ、あの時は周りが見えなくなっていたから。あ、いや、しない。するわけがない。

 兎に角、そんなわけで、私、先織杏と春日幹也は、はれて大人の関係になったわけだが、えっと、ごめんなさい。すみません。反省しています。浮かれていました。謝ります。許してください。

 

 病室の窓から、朝日が差し込む。先織は「うーん」と躰の筋を伸ばした後、頭を指でトントンと叩いた。

 まだ頭痛は収まっていない。しかし不思議と昨日よりは、だいぶ楽になったような気がした。難しいことを考えるのをやめて、開き直ったせいだろうか。それとも、昨日の春日との行為のせいだろうか。峯岸は、そういった行為はストレス解消に最適だと、よく言っていた。これは、先織の反応を面白がるための、峯岸の悪い冗談だったと思うが、あながち的外れではなかったのかもしれない。

 凛音のことを考えると、まだ胸が痛む。だがそれは昨日感じていた、絶望感に満ちたものではなくなっていた。とても辛くて悲しいことだが、その苦しみに耐えていく覚悟が、いまの先織にはあった。

「それに、また悲劇のヒロインぶったこと言えば、あいつに怒鳴られるからな」

「誰に?」

 春日がコーヒーをふたつ、両手に持って病室に入ってきた。彼は片方のコーヒーをズズッとすすりながら、もう片方を先織に渡す。昨日は怪我で身動きできなかったくせに、もう普通に動き回っている。怪我の手当はもちろんしているのだが、彼の頑丈さに呆れてしまう。それは、昨夜にも思ったことだが。

 先織は「別に。なんでもないよ」と、受け取ったコーヒーを一口飲む。苦味が口のなかに広がり、頭が冴え渡るのを実感する。彼女は一息つくと、気軽な口調で言った。

「さてと、それじゃあ出かけるとするか」

 先織の言葉に、彼は顔を険しくした。

「人間の所に?」

「ああ。このまま放っておくわけにもいかないだろ。乗りかかった船だ。結末を見届けてやろうじゃないか。それに……」

 先織の表情に、ほんのわずか影が差す。

「峯岸さんや仲間たちの敵討ちでもあるしな」

 春日もその想いは同じだろう。しかし彼は、あくまで先織のことを優先したようだ。

「……君はまだ体調が万全じゃないんだ。無理をしないで、署に連絡をいれて、他の連中に任せるのも、いいんじゃないのか?」

「署に連絡は入れるが、私が抜けるのはなしだ。クソガエルからあんな不愉快な思いをさせられて黙って引き下がれないだろ」

「だからって、まだ頭の痛みは取れないんだろ?頭痛の原因だって、まだ良くわかっていないんだ。いまは良くても、どこでまた悪化するか分からないだぞ」

「そんなこと心配してちゃ動くに動けないだろ。悪化したら悪化した時だ。頭抱えて、人間様に鉛球ぶち込んでやるさ」

 あまりにも楽観的な先織の考えに、春日は呆れたように天を仰ぐ。

「どうして君はそう、いつも無茶ばかり言うんだよ。リボットの俺たちは、人間に攻撃はできないって、知っているだろ?」

「クソガエルは殺れたぞ?」

「あれは……わからないけど。兎に角、駄目だ。それに金平の話では、人間は記憶のデータセンターにいるんだろ。俺達にはデータセンターが何処にあるかも分からなければ、そこに向かう足だってないんだぞ」

「ああ、それなんだが……」

 先織は窓に近づき外を指差す。

「あの横転している軽トラック。使えないかな?見たところ、それほど損傷もしてないようだし、まだ動くかもしれないぞ」

 春日も窓に近づき、軽トラックを見る。

「あれは駄目だよ。他人ひとのものだから」

「なんだ。持ち主を知っているのか?」

「あれは前橋さんのだよ。ここの家主で、君を治療してくれた人。ほら。一度君も会ってるんだけど覚えてない?」

「ああ。えっと熊みたいな男か。私を縛った」

「すごく語弊がある言い方だけど。まあそう。俺達の恩人さ。そんな恩人の車をかっぱらうなんて、そんな恩を仇で……」

 そこで、春日の言葉は止まった。先織は不思議に思って彼を見つめる。彼の顔面は蒼白で、汗をだらだらとかき、眼鏡越しに見える瞳が、ブルブルと震えていた。はて、なんだろうかと、彼女がじっと見ていると、彼は突然、窓枠に足を掛けて叫び声を上げた。

「あああああ!忘れてたあああああ!前橋さあああああん!生きていてください!」

 そう言うと、春日は眼の前で、窓から豪快にジャンプしてみせた。


 先織が昨日まで眠っていたベッド――ちなみに金平の死体は、昨日のうちに近くの川に捨てておいた――で、足を吊った男が腕を組んでふて腐れている。その男に対し、春日はコメツキバッタのようにペコペコと土下座していた。だが、足を吊った男――前橋は不機嫌に顔を背け、彼の方を一切見ようとしない。彼女は、必死に許しを請う彼の手助けをしようと、土下座している彼の頭を足で踏みつけて、ガンガンと繰り返し床に叩きつけてやった。眼を丸くしている前橋に対し、彼女は両手を胸の前で組み、目に涙をためてこう言った。

「見てみてくれ。彼はこんなにも反省しているんだ。ほら。頭が割れて血が床にベッタリと。こんな過激で強烈な土下座をする男を見たことはないだろう。そうまでする彼を、どうか許してやってもらえないだろうか」

 とか言っている間も、ガンガンと春日の頭を床に打ち付ける。彼がビクンビクンと痙攣し始めた頃に、前橋が「分かった!分かったから!もうやめてやれ!」と、まるで慌てたように声を上げた。そんな彼に対し、彼女はキラキラ輝く潤んだ瞳で言う。

「ほんとうか?ほんとうに許してくれるのか?もう少しの間、許さなくても良いんだぞ?」

「なんでだ!いいから!許すから!やめろ!むしろゴメン!謝るから!」

 どうやら私たちの紳士的な態度が、前橋の心を打ったようだ。前橋は蒼白した顔で、快く私たちの謝罪を受け入れてくれた。よかったよかった。彼女は、痙攣が止まりピクリとも動かなくなった彼を見下ろして、ニッコリと微笑んだ。


「いいよ。あんなボロい軽トラで良けりゃよ、乗ってけよ。どうせ暫く運転できねえしな」

 こちらの車を貸してほしいという申し出に、前橋はそう答えた。ベッドの上でタバコをふかし、フーと煙を吐き出している。

「すまない。恩にきる」

 先織は礼儀正しく床に正座し、ペコリと頭を下げた。誠意を込めて、丁寧にお礼を言う。彼女の隣では、頭に包帯を巻いた春日が、何故か不機嫌そうに、壁の方を向いて体育座りをしていた。車まで貸してくれた恩人に対し、無礼極まりない態度だが、彼女はそんな彼を放っておくことにした。昔から男というものは礼儀作法に無頓着なものだ。ここは女性の私が彼のぶんまで、失礼がないよう振る舞わなければならない。

 そんな勝手なことを先織が思っていると、前橋がふと気がついたように、ベッド脇の棚を開ける。そこから瓶を取り出して、彼女に放って寄越した。彼女は右手で瓶をキャッチすると、指につまんで眼の前にかざす。その瓶の中には、小さな白い錠剤が何粒か入っている。前橋はタバコの煙を吐きながら言う。

「鎮痛剤だよ。1日3回、食後の後に飲みな。まだ頭痛は治まってねえんだろ」

「ああ。まあ」

 先織は、左手で自分の頭を軽く押さえる。頭の奥で疼く、鈍い痛み。まだ耐えられないほどではないが、その痛みは朝にくらべて、確実に強さを増してきている。やはり、気の持ちようだけで完治するほど、この頭痛は簡単なものではないらしい。

「この頭痛。原因はわからないのだろうか?」

「わかんねえ」

 先織の問いに、前橋はにべもなく答えた。左手に持った灰皿に、タバコの灰を落として、前橋は言う。

「ここには大した設備なんかねえからな。ちゃんとした病院で頭の検査をしてもらいな。その薬はそれまでの、気休めみたいなもんだ」

 そして前橋はタバコを再び咥えた。一見すると、彼の態度は冷たいものに思える。しかし、彼は自分がやれることを、正しくわきまえているだけなのだろう。そのうえで、私たちに最善を尽くしてくれている。

 先織は深く頭を下げ、お礼を言った。

「何から何まで。本当に感謝する」

「おいおい。俺は慈善事業でやってんじゃねえんだぞ。感謝なんかいらねえから、後でちゃんと金払いに来いよな」

 前橋はそう言って笑った。強面の彼の表情に浮かんだ、思いがけない愛くるしいその笑顔に、先織の表情もついほころんだ。

「ああ。もちろんだ。軽トラックも返さなければいけないからな。必ず戻ってきて、今回のお礼をさせてもらうよ」

 そう言って、先織は再び深く頭を下げた。そしてスッと立ち上がると、春日に近づいていく。そして体育座りをしている彼の背中を、思いっきり蹴ってやる。「ブギャ」と言いながら、顔面から床に叩きつけられる春日。

「いつまでふて腐れているんだお前は。ほら行くぞ。時間がないんだから」

 春日が床から顔を、ゆっくりと引き剥がす。赤くなった鼻をさすりつつ、眼鏡の奥から先織のほうを、恨めしそうに見てきた。

「……杏。俺に何か言うことない?」

 春日の言葉に、先織は眼をパチクリとさせる。腕を組み首を傾げて考える。暫くジッと彼の顔を見つめて、そしてぽつりと呟く。

「どうしてその眼鏡、割れないんだ」

「いや、そこじゃなくて」

「どうしてその眼鏡、外れないんだ」

「さらに、そこじゃなくて」

「どうしてその眼鏡、銀縁なんだ」

「なおのこと、そこじゃなくて」

「どうしてその眼鏡――」

「なんで眼鏡ばっかりなんだよ!俺のアイデンティティって眼鏡だけなのか?」

 春日は叫び声を上げた。そしてすぐに、疲れたようにがくんと肩を落とす。悲壮感の漂う表情をしながら、彼は半眼で先織に呟いた。

「杏……君、なんか性格変わってない?」

「そうか?」

 キョトンと先織。

「なんていうか……係長と話してる気分だよ」

「だとしたら、褒め言葉だよ」

 先織は笑って肩をすくめると、病室の出口に向かって歩き出した。「ちょっと、杏!」と呼び止める春日を尻目に、そのまま部屋を出て、階段をトントンと軽快に降りていった。

 

「行くって……何かあてがあるのかよ」

 春日はそう独りごちると、立ち上がって先織の後を追おうとした。すると「ちょっと待ちな」と前橋から声がかけられる。彼が振り向くと、前橋は腕を組んでこちらを見ていた。その表情は、先織と話していた時と異なり、厳しいものに変わっている。前橋は少し抑えたトーンで、春日に質問した。

「先織杏の頭痛は、いつから始まった?」

「え?」

 春日は、その質問に少し困惑した。なぜ先織に直接訊かず、自分にそんな質問をするのか、理解できなかったからだ。回答あぐねる春日に対し、前橋は続けてこう言った。

「再生された直後からじゃねえか?」

「それは……」

 それは、その通りだ。先織の不調は、コルヴォ劇場で死亡し、再生されたあとに表れている。だから先織の不調は、彼女に使われた『器』の初期不良ではないかと、春日も疑ったこともあった。前橋もそれを疑っているということだろうか。

 前橋は少し躊躇ちゅうちょしつつ、口を開く。

「……ちなみに、先織はいままで、何回ぐらい再生を受けてんだ?」

「回数……ですか。さあ、どうでしょうか。無茶なことばかりしてますから。俺が知っている限りでは、四回ぐらいでしょうか」

 この数は強行課のなかでも、飛び抜けて多い数字だ。それは先織が、リボットによる再生を、死の克服と考えていたからだ。そのため、彼女は自身の命を投げうって、任務を遂行することにためらいがなかった。いまはもう、彼女が闇雲に命を投げ出すことはないと、春日は信じているのだが。

 それにしても、なぜ彼女の再生回数を、前橋が訊いてきたのか、春日には分からなかった。それが、いま彼女に起こっている不調と、なんの関係があるのだろうか。

 前橋は舌打ちをして、静かに呟く。

「やっぱりか」

「と言いますと?」

「俺の知り合いに、都心で精神内科をやってん奴がいてな。そいつの所にたまに来る患者と、症状がそっくりなんだよ。そしてそいつらの特徴が、何度も死んだことがある、つまり、再生を繰り返し受けた連中なんだよ」

 前橋の言葉に、春日の心臓がはねた。

 以前、同じような話を聞いたことがある。それはコルヴォ劇場任務の後、係長を除く二係メンバーが、県警本部に集まった時のことだ。再生を繰り返す先織を、大内が躊躇いがちに、こう戒めたのだ。

「先織。いくら再生できるとはいえ、それに頼りすぎるな。何度も死を体験した奴は――例えその記憶がなくとも――なにかしらの精神疾患にかかりやすい」

 彼女はその話を、医学的根拠のないものだと、懐疑的に返した。大内自身、その噂を真に信じていたわけではないのだろう。だから、警告に留めるのみで、その話は終わった。

 しかし前橋の話は、まさにそのことを言っていた。再生を繰り返すことで、発症する精神病。それが、いま先織杏に起こっている、頭痛の正体なのかもしれない。

 春日は唾を一度飲み込むと、前橋に慎重に確認した。

「再生の繰り返しによる障害。俺も……先輩から聞いたことがあります。根拠のない噂だと思っていましたが。でも、どうして再生を繰り返すと、そんなことに?」

「それは俺にも分かんねえよ。いや分かる奴なんていねえのかも知れねえな。それにまだ、先織の症状の原因が、これに確定ってわけじゃねえ。だからまだ本人には言うなよ。お前に言ったのは、その可能性もあるってことを、一応伝えといてやろうと思ったからだ」

 確かに、いまの段階で原因を決めつけてしまうのは危険だろう。頭痛の原因など――ただの風邪も含めて――他に幾らでも考えられるのだから。前橋の言うように、先織には余計な先入観を与えずに、頭の検査をうけてもらうのが望ましい。そして検査を受けても原因が特定できない、あるいはその原因に納得できなければ、再度このことを考えればいい。

 しかし、仮に頭痛の原因が再生にあった場合、先織は一体どうなってしまうのだろうか。大内は、彼より年配の人間は、多くがこの症状が原因で、退職していったと話していた。退職後の様子はどうだったのだろうか。

「……前橋さん。その精神科にきた患者さんは、最後には完治したんですよね?」

 春日の質問に、前橋はしばらく黙りこんだ。根本まで火がついたタバコを、一度大きく吸い込み、煙を吐き出す。そして彼は、沈痛な面持ちで話した。

「嘘付いても、しょうがねえからな。ハッキリ言うぞ。症状はいっこうに良くならず、むしろ、どんどん悪化していって、しまいには自分が誰なのかも、分からなくなっちまったよ。治療法がまったくないんだ。残念だがな」

「そんな……じゃあ、杏が回復するためには、また再生しなきゃいけないってことですか?」

 せっかく先織が、いまの自分で生きていくことを決心してくれたのに、再生をして『器』を差し替えなければ、症状は回復しない。

 先織を、もう二度と死なせたくない。しかし、彼女が苦しみ続ける姿もまた、見たくない。春日にとっては苦渋の選択だ。

 だが、現実はより残酷だった。

「無理だ。これは再生じゃ回復しねえよ」

「え?」

 前橋が苦々しい口調で言う。

「こいつは、『器』をとっかえても回復しない。精神科にきた連中もそうだったらしい。何度再生をしても、症状は改善されなかった。そもそも、再生を繰り返したことが、病の原因なら、再生が治療法になるわけねえんだよ。躰の問題じゃねえ。恐らく、データセンターにある記憶の問題なんだろうぜ。だから、一度この病を発症したら、もう助かる手立てはない。患者に残された選択肢はふたつ。苦しみ続けてでも生きるか。あるいは――」

 前橋が灰皿でタバコの火をもみ消す。

「再生のない、本当の死を迎えるか。どちらかだ」

 春日は、眼の前が真っ暗になった。

 

「遅かったな。何してたんだ」

 春日が軽トラックに乗り込んだ時、先織は開口一番にそう言った。不満気というより、単に不思議に思ったのだろう。助手席に座る彼女が、首を傾げてこちらを見ている。

 前橋から話を聞いたあと、彼はしばらく診察室でひとり、黙って座り込んでいた。心を落ち着かせる時間が必要だったからだ。あのような話を聞いた直後で先織に会えば、彼の不安がつい表情に出てしまうかもしれない。前橋が言うように、彼女の頭痛の原因が、それと確定したわけではない。その段階で、彼女に余計な心配を与えるわけにはいかない。

「いやごめん。ちょっとトイレに行っててさ」

 彼は照れ笑いを浮かべて、彼女に適当な言い訳をした。そんな彼に対し、彼女は嫌そうに眉間にしわを寄せた。

「緊張感のないやつだな。これから命運を賭けた勝負をしよって時に」

「……ほんとに人間とやりあう気なの杏。そもそも記憶のデータセンターをどうやって探すのさ。全人類の記憶を保持するデータセンターの場所は当然だけど超極秘事項だ。俺たちに探し出せるとは思えないけど」

 春日の問いに、先織は軽く肩をすくめる。

「そんなの、知ってる奴から訊き出せばいい」

「簡単に言うけど、知ってる奴って誰さ。再生工場のスタッフなら知ってるだろうけど、工場の場所もスタッフの情報も、データセンターと同様に厳重に管理されている」

「他にもいるだろ。確実に知ってそうな奴が」

 先織の言葉に、春日はますます困惑する。

「他って……いったい誰?」

「リボットシステムの元開発者」

 先織はあっさりとそう言った。「え?」と思わず、春日は訊き返した。

「横岳に戻ったら、そいつと連絡を入れて会う約束をしようと思う。本来はお前が……というより警官が奴と会うのは、良くないことなんだが、状況が状況だからな。まあ知らない仲じゃあるまいし、仲良くしてくれ」

「俺が……知っている?」

 呆けた表情をしている春日に、先織は少し笑って、続けてこう言った。

「そう。お前も会ったことがある奴だよ」


 猫カフェ『にゃんにゃんパラダイス』。略して『にゃんパラ』。神奈川県横岳市北区にあるそのカフェを待ち合わせ場所に指定してきたのは、先方の希望だったそうだ。

 四台しか停められない狭い駐車場に軽トラックを入れて、春日と先織は車から下りた。『にゃんパラ』の建物は、コンビニのような四角い外観で、屋根の両サイドが、――猫の耳をモチーフにしたのであろう――ピンと尖っていた。正面入口の上には、いやに可愛らしい字体で店名が書かれた看板が、何色もの電飾によって輝いていた。

 こんな所に、本当にリボットの元開発者がいるのだろうか。春日は少し不安になった。別に元開発者が猫好きではいけないわけではないが、超重要人物と会う場所としては、ここは不釣り合いな気がする。しかし先織は特に気にした様子もなく、スタスタと店に入っていく。彼も慌てて彼女に続いて店に入った。

 店に入ると店員――意外にもごく普通の青年だった――が、こちらに近づき先織に挨拶をしてくる。彼女の話では、元開発者と話をするときは、いつもこの店を指定してくるそうで、すっかり顔なじみになってしまったらしい。店員に一言二言交わしたあと、彼女は店内を歩き、ひとつのテーブルに近づいていった。そのテーブルには、男がひとり、雑誌を読んで椅子に座っていた。その男はこちらに気がつくと、膝に乗っている猫を優しく撫でながら、笑顔で会釈した。

「やあ先織さん。こんにちは。再生は無事に済んだようですね。あれからご連絡も頂けなかったので、心配していたのですよ」

「よく言うよ。お前が心配なんてするたまか。要件は電話で話しただろ?早速話を訊かせてくれないか」

「相変わらずせっかちですね。何にしろ、まずはお掛けになってください」

 先織は素直に、男の向かいの席に座る。そして男は春日の方を見て、ニッコリと笑った。

「春日さんもお座りになって、何かご注文されてはいかがです?マロンケーキなどはお薦めです。私も頂きましたが、この濃厚な栗の風味は、やみつきになること請け合いですよ」

 そう言った男の前には、食べかけのマロンケーキが置いてあった。確かに他の店よりも、一段濃い色をしたマロンクリームは、美味しそうではある。しかし、いまの春日には、そんなケーキなど目に入らなかった。

 先織はリボットの元開発者のことを、春日も知っている人物だと話していた。だから恐らく、職場関係の人間だと当たりをつけて、ここに訪れた。だがそこにいた男は、彼のまったく予想外の人物だった。というより、初めから予想の対象から、除外していた人物。

 春日は、わななかせた指で男を指し、震える声で、男の名前を呼んだ。

「ストラス……」

 『器』を取り扱う闇商人。ほんの六日前に、二係がコルヴォ劇場で取り逃がした犯罪者。組織名にしてリーダの名前。ストラス。

 春日の驚きを他所に、その男――ストラスはマロンケーキを美味しそうに頬張った。


「ストラスの内通者が警察にいるって話があっただろ?あれは私のことだ」

 事も何気に、先織はそう言った。彼女の前には、ストラスお薦めのマロンケーキ。それをフォークで突っつきながらの言葉だった。春日は彼女の隣の席に座り、ただただ呆然としていた。ちなみに、彼の頭の上にはブチネコが行儀よく座っていたりもする。そんな彼に、彼女はケーキを食べながら話を続けた。

「お前にも凛音のことは話したことがあったよな。私の生きる目的は、友人の麻木凛音を再生することだった。とはいえ、ただ待っていても、凛音が再生される可能性は少ない。だから私は、リボットプロジェクトの関係者を探して、直談判してやろうと思ったんだ」

「直談判というより脅しでしたね。いきなり銃を突き付けてきましたから」

 やんわりとストラスが補足する。

「そうだったか。忘れた。私も必死だったんだな。可愛いものだ。兎に角、リボットプロジェクトの関係者であろうと、現在のリボット運用に口出しはできないそうだ」

「国のトップが警察に変わる前であれば、話は変わっていたのでしょうが、いまの警察に私を知るものは少ないですからね」

「いまは唯の犯罪者だもんな。お前は」

「それもトップが警察に変わってしまったからです。正規に『器』を手に入れる機会を失ってしまいましたからね。人工知能AIの研究を続ける為に、闇取引を始めたのですが、いつの間にか一大組織になってしまいまして。いや、これは可笑しい。はははは」

 ストラスは爽やかに笑った。もっとも、何が面白いのか、まったくわからなかったが。

「まあそんなわけで、まったく役に立たなかったストラスだが、こいつのリボットに関する知識は捨てたもんじゃない。お前も劇場で見たように、こいつは国家の設備を使わずに、『器』への人工知能AIの組み込みを、単独でやってのけた」

「劇場。そうだよ。あの時、君はストラスに殺されている。それはどう説明するんだ」

「それも計算のうちだよ」

 彼女は少しだけバツの悪そうに言った。

「細かい取り決めはしていなかったが、最終的に私は死ぬつもりだった。そしてその失態を理由にして、内通者の捜査を買って出るつもりだった。そうすれば、私とストラスの関係を誰にも疑われずにすむ」

「初めから死ぬつもりだっただって!杏!君は何を考えているんだ!君が死んだことで、俺がどれだけ悲しんだか!」

 先織の言葉に、春日は激しく抗議した。突然の大声に驚いて、春日の頭の上にいたブチネコが「にゃー」と鳴いて、彼の頭から降りる。彼女は頭を振って話を続けた。

「ストラスを捕まえさせるわけにはいかなかったんだ。奴を利用すれば、凛音を再生できると思ってたからな」

「だけど――」

「分かってる。馬鹿げた行動だよ。私は死ぬという意味を、余りにも浅はかに考えていたんだ。悪かった。もうしない」

 春日は怒りを抑えて引き下がった。いまの言葉から、彼女がその行為を、心から悔いていると分かったからだ。

 先織は「ありがとう」と、一言春日にお礼を言ってから、ストラスに向き直る。

「ストラス。さっきも話したが、状況は逼迫している。リボットを支配するために、人間が記憶のデータセンターに向かったんだ。その場所を知っているなら、教えてくれ」

 その言葉に、ストラスは思案深げに沈黙した。データセンターは全人類の記憶を蓄えている場所だ。どのような理由があろうと、容易に教えていいものではないのだろう。先織もそのことは分かっている。だから、焦らせるようなことは言わず、黙って、ストラスの決断を待っていた。

「ひとつ、質問させてください」

 ストラスが人差し指を立て、そう言った。

「何故、その人間を止めるのですか?」

「何を言ってるんだ?奴は私たちを……」

「そうです。人間が、私たちリボットを支配しようとしている。ですが、それはおかしなことでしょうか?例えば、貴方がたは仕事柄、拳銃をよく使用しますね。その拳銃が、引金を引いても、銃弾が発射されなければどうでしょう。拳銃を分解し、故障の原因を取り除くのは、当たり前のことではないでしょうか?」

「拳銃とリボットを一緒にするな!」

 ストラスの滅茶苦茶な物言いに、春日は感情的に反論した。しかしストラスは、春日の怒りを涼しく受け止め、話を続ける。

「一緒にするなとは?どこに違いが在るのでしょうか。この私の膝で、気持ちよさそうに寝ている猫ちゃん。この猫ちゃんなら、貴方の反論もわかります。自然発生した生命。それの所有権を主張することは、誰にもできますまい。それこそ神以外には」

 ストラスが、膝の上にいる猫の頭をなでながら、そう言った。猫はなでられるのがくすぐったいのか、いやいやと首を振る。

「ですが、我々リボットは違います。リボットは、人間の記憶を持った、ただの人工知能AIに過ぎません。人工物という点において、拳銃となにも違いはない」

「お前は……リボットが人間に支配されても、良いて言うのか!」

 犬歯をむき出しに、ストラスを睨みつける春日。ストラスはそんな彼を、冷たい目で見返し、淡々と話す。

「私は貴方がたに質問しているのです。私の意見など、この際どうでもいい。貴方がたがもしも、人類の未来のためにデータセンターへ向かうと、そう仰っているのであれば、見当違いです。人類の未来を想うのであれば、我々リボットは人間に支配されるべきです。それとも、人類の未来以上の大義名分が、貴方がたにありますか」

 ストラスの言うことは間違っている。どんな御託を並べようと、リボットを皆殺しにし、支配していい理由になど、なるはずもない。はずもないのだが――

 ストラスの言葉に、反論することができなかった。自分たちが護ろうとしているリボットは、人間の記憶を持った、人間でないものだ。記憶の持ち主は、60年前に、すでに死亡している。リボットはその人間たちの、模造品にすぎない。

 だが平は違う。正真正銘の人間だ。ストラスが言うように、人間の未来だけを考えるならば、リボットは人間の支配を、受け入れるべきなのだろう。

 人類ほんものの未来とリボットにせものの未来。

 どちらを優先するべきなのか。

 客観的に判断するならば答えは明白だ。

 『人類の未来』以上の大義名分など。

 自分たちにあるのだろうか。

 春日は、ぎりぎりと歯ぎしりをしながらも、ストラスに何も言い返すことができなかった。

 すると――

「大義名分なんかないさ」

 先織が、ひどく軽い口調でそう言った。

「奴が私や、私の大切な人まで殺そうと言うならば戦う。それだけだ」

「それが、正しいことだと?人間は一度死ねばそれきりですが、貴方がたリボットは何度でも再生される。そんな貴方が、大した理由もなく人間を殺す。これが、本当に正しいことだと思いますか?」

「大した理由もなく……か。悪いが、私はそうは思わない」

 先織はまっすぐストラスを見据えている。ストラスの言う現実に、決して目を背けることなく、自分の決意を告げた。

「人間もリボットも関係ない。本物も偽物も関係ない。そんな分類に、何の意味がある。そんな難しいことじゃないんだ。私が護りたいのはリボットじゃない。人間の記憶でもない。私が護りたいのは、個人なんだ。そこに確かに存在する、自己の意識だ。分かりにくいなら、魂と言い換えても良い」

 先織が護りたいもの。それはリボットでも記憶でもなく、個人だと。そこにある魂だと。彼女はそう言った。その言葉が、春日の心に深く突き刺さる。胸が熱くなった。

「だから、例え再生できようと、リボットだって死んでしまえば、それまでなんだ。個人は消滅し、同じ記憶を持った、新しい個人が生まれるにすぎない。私が死ねば、きっと新しい先織杏が再生される。だが、それは決して、いまここにいる、私じゃない。別の先織杏だ。私の感じた苦痛も、決意も、覚悟も、記憶として受け継がれたところで、それはデータに過ぎない。それを経験した先織杏は、私だけなんだ。まあ、これはとある人物からの、受け売りだけどな」

 先織が、ちらりと春日を見る。確かに似たようなことを言った記憶はあるが、彼女ほど深い意味と決意があっての発言だったのか、自分のことながら甚だ疑問だった。

「偉そうなことを言っているが、結局私は自分が死にたくないだけなんだ。例え再生されようと、例え記憶が残ろうと、いまこの場にいる、私という個人を失うのは、我慢ならない。だからストラス。これは私の我儘だ。これが、お前の質問の答えになっているのか、それは分からない。だがもしも、お前が記憶のデータセンターの場所を知っているなら、どうか教えてくれないか」

 ストラスは、先織の言葉を吟味するように、眼をつぶった。そして暫くして、ストラスはスッと眼を開けると、ボソッと呟いた。

「クオリア……ですね」

「クオ……?」

QUALIAクオリアです。主観的な意識や感覚。自己認識。つまり、いま先織さんが仰られたことと、同じようなものです」

 ストラスは肩をすくめる。

「私の人工知能AIの研究。そのひとつの目標が、クオリアを生み出すことです。ただ、コルヴォ劇場を警察に知られたのは痛手でした。これで、研究の進捗は、大きく遅滞することでしょう。あそこは、私の研究において、重要な役割を持っていたのですが。どうなのでしょうか。劇場から警察のマークが外れるのは、まだ先になりそうですかね」

 ストラスはそう言って、また目をつぶり黙りこんでしまった。先織は頭を掻きながら、呆れた口調で、ストラスに話しかける。

「いや……ストラス。そんな話どうでもいいんだ。記憶のデータセンターを知っているのか知らないのか。早く教えてもらえないか?」

「ええ。ですから劇場です」

「いやだからな……」

「コルヴォ劇場です。記憶のデータセンターは、あの劇場の地下にあります」

 先織と春日は、同時に眼を丸くした。

 

 ストラスからデータセンターの場所を訊き出した後、先織は署に連絡を入れるために、席を外した。ストラスと春日。ふたりきりになり、春日は微妙に気まずい思いをする。ただ、ストラスは何も感じていないようで、テーブルに乗っかっている猫と、猫じゃらしを使って遊んでいる。

 春日は間を埋めるためだけに、ストラスに質問する。

「なんで劇場の地下に、記憶のデータセンターがあるんだよ」

「正確には、劇場にあるデータセンターは、神奈川県民の記憶を主に格納した、スレーブサーバです。まあ、それはどうでも良いですが。話を戻しますと、もともとコルヴォ劇場の場所には、国営施設があったのですが、20年前に警察に政権を奪われ、当時の国有地の多くが民間に売りに出されたのです。そこを私が購入し、もとの施設を取り壊し、その上に劇場を建設しました」

「人類の記憶を保持しているデータセンターを、警察が売りに出したのか?」

「データセンターの所在は現在もそうですが極秘事項でしたからね。警察幹部にも教えてはいませんでした。その上、データセンターの施設そのものは地下深くに有ります。気づかなかったのも無理はありません」

「劇場がお前の所有物なら、警察がとっくに調べてそうだけどな」

「まあ、そこはうまいことやっています。例えば、代理人を立てて私は表に出ないとか。あとは企業秘密です」

「しかしどうして、劇場なんか建てたんだ?」

「別に。劇の鑑賞が趣味だからです」

「意外だな。犯罪者なんかに、芸術を鑑賞する心なんてものがあるとは」

「なにか、棘のある言い方ですね」

 不服そうな言葉とは裏腹に、ストラスは愉しそうにこちらを見ている。その態度に、少し苛つく。この男は、先織との計画だったとはいえ、彼女を一度殺しているのだ。仲良く談笑しろというのが、土台無理な話だ。

「意外と言えば、春日さん。貴方は先織さんの恋人ですよね。よく、彼女が人間と戦うことを許可なさいましたね。てっきり反対なさっているものと思っていましたが」

「まさか彼女がこんな早く人間の居場所を割り出すなんて思っても見なかったから、言い出すタイミングを逃しただけだ」

「では、やはり反対なさっているのですね?」

「当たり前だ。リボットは、かすり傷ひとつ、人間にはつけることができない。これじゃあ、勝てるわけないだろ。それに彼女はいま、体調が万全じゃないんだ。そんな彼女に、勝つ見込みのない戦いをさせるわけにはいかない」

 先織は隠しているが、彼女の頭痛は朝に比べひどくなっている。それは、車で移動中の彼女の顔色を見れば、すぐに分かった。血の気の失せたその表情は、彼女が痛みに必死に耐えていることを、物語っていた。

「ああ。彼女の頭痛のことですか。電話で話は聞いていますよ。恐らく、再生の繰り返しによる、記憶情報の欠落が原因でしょう」

 ストラスがさらりと言った。春日はテーブルに身を乗り出すと、猫と猫じゃらしの綱引きをするストラスに、勢い込んで質問した。

「知っているのか!彼女の頭痛の原因!何が原因なんだ?治療法は?」

「わあ、びっくりしました。少し落ち着いてください。春日さん。きちんと、お話ししますから。えっと、まず原因ですね……」

 ストラスはコホンと咳払いをすると、指を立てて解説を始めた。

「先織さんの頭痛の原因は、標本化・量子化に伴う脳神経回路情報の欠落です。記憶のバックアップは完璧には行われません。どんなに脳を精密に計測しても、アナログからデジタルへのコンバートは、必ず些少な情報を削り取ってしまうものです。カセットプレーヤから出た音を、マイクを使ってカセットレコーダーで録音する光景を思い浮かべてください。これを繰り返せば、カセットに録音される音の品質は劣化していきますよね。大雑把な説明ではありますが、記憶のバックアップと再生も同じことだと言っていいでしょう。つまりバックアップと再生を繰り返し行いますと、記憶情報が劣化し、遂には再生不可となることは十分考えられます」

「そんな!どうしてそんな大事なこと、60年前に皆に知らせていなかったんだ!」

 スラスラと述べるストラスに、春日は非難の声を上げた。しかしストラスは「仕方がなかったのです」と言っただけで、悪びれる様子もなく飄々と続ける。

「あの感染症から人間を守るためには、リボット以外の手段はなかったのですから。仮にシステムの欠陥を公表したところで、世間の不安を無駄に煽るだけだったでしょう。それに当時は、それほど多くの回数を再生する人間が現れるなんて考えていませんでした。リボットシステムによって死の概念が変わり、容易に死を選択する人間が増えてしまうなど、誰に想像できますか」

 ストラスの言い分も一理ある。春日はしぶしぶ認めた。本来人間にとって、死とは一度きりでやり直しがきかない。それを何度も体験して生き続けているというのが、そもそも歪んでいるのだ。リボットシステムの欠陥は、その歪みが顕在化したものとも言える。

「……じゃあ、それは分かった。それで、その治療法は何なんだ?何をすればいい?」

 ストラスは頭を掻きながら、言い難そうに口を開く。

「少なくとも、いまはありません」

「そんな!」

「データセンターの記憶自体が、劣化しているのです。失われた情報は、どんな技術を用いようと、完璧に復元することはできません」

 春日は消沈した。元リボット開発者。世界で最もリボットを知り尽くした技術者にまで、打つ手がないと言われれば、先織を救うことなど、絶望的と言わざるを得ない。

(杏……ごめん。俺は、君を助けることができない……)

 すると、うなだれる春日に対し、ストラスが声をかける。

「春日さん。人の話はきちんと聞いてください。私は、いまはない、と申したのです」

「え?」

 春日が顔を上げた。ストラスは腕を組み、言葉を選ぶように、慎重に話し始めた。

「いままで、そのような検証したことはありませんからね。治療方法も、これから調査する必要があるのです。その結果、やはり治療は不可能なのか、それとも可能なのか、全てこれから分かることです。ただ先程も申しました通り、理屈上は極めて難しいでしょう。しかし、完全ではないにしろ、症状を軽減するぐらいは、できるかもしれません」

「本当か!本当に彼女を治せるのか!」

「ですから、それをこれから調べるのです。ただ、可能性がゼロではないということは、お伝えしておきましょう」

 先織を救う可能性がある。それは限りなく小さな希望かも知れないが、先程まで僅かな光すら差し込まない、絶望的な状況だったのだ。突如現れた小さな光明に、春日は興奮を抑えられなかった。

「ただし、問題があります」

 突然、ストラスはそう言った。希望を抱き始めた春日は、その言葉に、とたんに不安にかられた。

「何だ……問題って?」

「治療法を調査するためには、実際に症状に掛かっている彼女……先織杏の記憶データを解析する必要があります。そのためには、記憶のデータセンターで作業をする必要があります。あそこには、『器』へ人工知能AIを組み込む設備も整っていますから、原因が分かり次第、彼女の治療を行うこともできるでしょう。ただ御存知の通り、いまそこには人間がいます。彼を排除しないことには、彼女を治療することはできません」

「そんな……」

 人間を倒さないかぎり、先織を救うことができない。しかし、相手はリボットのあらゆる攻撃を無効化する人間だ。そんな相手と、どう戦えというのか。

「くそ!こうなりゃ、やってやるよ!先織を救う手がそれしかないなら、相打ちでも何でもいいから、必ず人間を……」

「無理でしょうね」

 春日の決意に、ストラスが冷水をかける。

「貴方だけではありません。リボットである以上、誰も人間には勝てません。ただひとり、先織杏を除いては」

「は?」

 どうしてここで、先織の名前が出てくるか。春日が眼でストラスに問いかけると、彼は顎に指を当ててから、口を開いた。

「これも電話で、先織さんから聞いたのですが、元衆議院議員の金平を、彼女が殺したそうですね。しかし、リボットには金平を攻撃することができないはずです。ではなぜ、彼女は金平を殺すことができたのでしょう」

「それは……」

 それは、春日も疑問に思っていたことだ。彼が何度も金平を殺そうと襲いかかっても、金平には傷ひとつ負わすことができなかった。それなのに、先織はいともあっさりと、金平の首を切り裂き、絶命させた。いまだに、春日にはその理由が分かっていなかった。

「私は答えをこう予測します。失礼な言い方になるかも知れませんが、どうかお許し下さい。彼女――先織杏は壊れています」

「お前……!」

「落ち着いてください。私が言いたいのは、彼女はリボットとして正常に動作していないということです。彼女の記憶は数度に及ぶ再生により、傷つき、損傷しています。あの頭痛のように、活動に支障が出ているほどに。故障した端末からだ。つまりこれが彼女の反乱抑止プログラムが働かない理由だと思われます」

 ストラスの説明に、暫し困惑する春日。

 先織杏を救うためには、記憶のデータセンターを人間から奪取する必要がある。そして、人間を殺すことができるのは、唯一、先織杏ただひとりだという。つまり――

「春日さん。貴方の気持ちも理解できます。ただ、人間を殺せるのは先織杏さんだけです。そして、彼女が人間を殺すことが、結果的に彼女を救う唯一の方法なのです。お辛いでしょうが、彼女が人間と戦うのを、見守って差し上げてはどうでしょうか?」

 やはり、ストラスとは仲良くなれそうにない。

 そんな言い方をされて、自分が断れるはずがないのだから。

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