第18話 麻木凛音 その5
先織は走っていた。息が切れる。心臓が早鐘を打つ。それでも彼女は脚を前に投げ出し、全力で街中を駆けまわった。
横岳市立図書館。下田町公園。パイレーツモール。彼女は思いつく限りの、あらゆる場所に行き、その都度、目を皿のようにして、その人影を探した。しかし、彼女が探している人物は、どこにも見当たらない。彼女は再び駆け出す。最後に向かったのは、その人物と最初に出会った場所だ。
電車が轟音を立て、跨線橋の下を通過している。その橋の上で彼女は立ち止まった。肩で息をして、少女の姿を探す。
麻木凛音がそこにいた。
「凛音」
先織は少女の名前を呼び、そばに駆けていった。
「杏ちゃん。どうしたの?そんなハアハアしちゃって」
先織に気付いた凛音が、笑顔でそう言った。凛音の近くまで来ると、先織は立ち止まり、荒い息を整える。
先織は黙って、凛音の顔を見つめた。先織が慣れ親しんだ、少女のいつもの笑顔。だが、この笑顔と最後に会ったのは、いまからもう二ヶ月も前の事になる。
「いままで……何処に行ってたんだ?」
「……」
先織の問いに、凛音は答えようとはしなかった。だがいつもの笑顔が、ほんの少しだけ、寂しそうなものに変わった。そんな彼女の顔を見続けるのが辛くて、先織は視線をそらして、話題を変えた。
「……昨日、私は記憶のバックアップ作業をしてきた。その意味、分かるよな」
「……うん」
凛音はうつむきがちに、頷いた。
人間の躰に組み込まれた、ウィルスの悪性遺伝子。その脅威から逃れるために、ウィルスの遺伝子を含まない『器』に、記憶を転写する。それが、リボットシステムの概要だ。
しかし、ひとつ問題があった。確かに、リボットに転化することで、ウィルスの遺伝子は躰から除去され、感染症を発病することはなくなる。ただし、リボット転化後、感染者が近くにいれば、リボットの『器』に、ウィルスが感染してしまう恐れがあるのだ。
それを防ぐために、記憶のバックアップが完了した人間は、ウィルスがこれ以上拡散しないよう、バックアップから数日中に、適切に処理されることになっている。
つまり、安楽死させられるのだ。
だから、先織は凛音を探していた。不安だったから。ただし、死ぬのがではない。
「凛音。もし私がリボットになって、そして再生されたら、また私と会ってくれるよな。例えリボットに生まれ変わっても、ずっと、私のそばにいてくれるよな」
死んで、再生された後、凛音のいない世界で生きることが、不安だった。だから、この約束を凛音としておきたかった。再生しても、また自分のそばにいてほしかった。いつまでも、自分と一緒に生きて欲しかった。
しかし――
「あたしは、多分もう、杏ちゃんとは会えなくなると思う」
凛音はそう言った。寂しそうに。だがどこか、清々しく。少女は言った。
「どう……して……」
先織は震える声でそう訊いた。心が警告する。訊くべきではないと。麻木凛音の内情に、踏み込むべきではないと。それでも、訊いてしまった。先織杏と麻木凛音。二人の関係に、二人の意味に、答えを求めてしまった。
感情豊かな凛音。その少女が感情を押し殺して、淡々と語り始める。
「さっき、どこにいってたのかって訊いたよね。あたしはね、ずっと杏ちゃんのそばにいたよ。ずっと、杏ちゃんのこと見てたんだよ。あたしの姿や声を、ただ杏ちゃんが見えてなかっただけで。杏ちゃんが見る必要がなかっただけで」
決定的な何かが、壊れたのを感じた。
決定的な何かが、修復させられるのを感じた。
麻木凛音がそこにいる。
麻木凛音の存在をそこに感じる。
それなのに、麻木凛音が霞んでいる。
現実が
先織杏の眼から、涙があふれだす。これは、麻木凛音からのお別れの言葉だ。それを、理解したから、堪らず泣いた。
「もう杏ちゃんは、ひとりじゃないんだよ。施設に入ったばかりの頃とは違う。杏ちゃんのことを好きな人は、あたし以外にも、いっぱいできたんだよ。だから、杏ちゃんはあたしのことを、もう見る必要がなくなったんだ。あたしは、ひとりの杏ちゃんが、ふたりになるために、存在していたんだから」
そう言うと、麻木凛音は笑った。だがその笑顔は、いつもと何かが違っていた。どこか不自然な少女の笑顔。まるで無理をして笑っているような。そして、先織は気がついた。
私だけではない。麻木凛音も、自分との別れを、悲しんでくれている。だが、気丈な彼女は、私のように女々しく泣くことがない。いつも子供のような言動を繰り返す彼女だが、中身は私などより、よほど大人びている。先織杏と麻木凛音。ふたりは正反対の性格をしていた。だからこそ親友になれた。私たちは、ふたりで、ひとりの人間だった。
「リボットに再生されたら、この話は全部忘れちゃうのかな。バックアップを取ってないから。でも、たぶん大丈夫。きっと杏ちゃんなら、リボットになっても、新しい世界になっても、きっと沢山のお友達ができるよ。素敵な恋人も――それはまだ早いかな?」
こくんと首を傾げる凛音。その姿が、たまらなく愛おしい。そんな少女に会うことができなくなるのは、胸が張り裂けるような思いだった。しかし、同じ気持であろう眼の前の少女は、その寂しさに耐えている。
先織杏は後悔した。
もっと早く、凛音とこの話をしておくべきだった。
もっと早く、凛音と向き合っておくべきだった。
もっと早く、凛音の意味に気付いてやるべきだった。
リボットになれば、この記憶は失われる。
凛音とした、最後の会話が消えてしまう。
凛音とした、最後の別れが消えてしまう。
凛音とした、最後の決意が消えてしまう。
それが悔しかった。
「本当に……もう会えないのか」
「たぶん……でも、そのほうがいいんだよ。もし次にあたしが現れるとしたら、杏ちゃんが、すっごく辛い気持ちになっちゃった時だと思うから。杏ちゃんがひとりになっちゃった時だと思うから」
そして凛音は、とびきりの笑顔を見せた。
「ありがとう杏ちゃん。あたしに気付いてくれて。あたしを見つけてくれて。杏ちゃんとお話ができて、あたしとっても楽しかったよ。だから――」
笑顔の少女の眼から、いままで耐えていた涙が、ボロボロとこぼれ始めた。止めどなく溢れ出る涙。だが少女は、笑顔を崩さない。泣きながら笑っている。
「だから――ありがとう」
先織杏は、ひとりで橋の上に立っていた。涙を流し、ひとりきりで立っていた。少女はもういない。いや、初めからこの橋の上には、自分一人だけしかいなかったのだろう。
しかしそれでも、先織杏は見えない親友に向かって、精一杯の笑顔で話しかけた。
「ありがとう。凛音」
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