第17話 襲撃

 ドガン!

 玄関の方角から聞こえた音に、春日は素早く反応した。靴を履かないまま、玄関から飛び出す。そして彼が見たものは、ひっくり返った軽トラックと、その前に無造作に立っている、二人の男と一人の女だった。

「こいつらは……」

 この三人の顔に見覚えはなかった。しかし、その感情を映さない、お面のような表情から、彼らが何者であるかは推測できた。劇場や研究所で出会った『器』。感情と記憶のない人形。春日は懐からナイフを取り出すと、右足を前に出し構えをとった。

「なんでこいつらがこんな所に……」

 もちろん『器』たちが応えてくれるわけがない。ジリジリとこちらに近寄ってくる『器』たち。奇妙な行動だ。こちらを殺すことが目的なら、一斉に襲いかかりそうなものだが。

(誰かの指示を受けている……のか?)

 ならば、その人物がこの近くにいるはずだ。『器』からの警戒を緩めずに周囲を探る。だが、それらしい人物は見当たらなかった。この三人の『器』以外で目につくのは、逆さまになった軽トラックと、その窓から覗く、男性の腕だけだ。と、ここで彼は軽トラックの中にいるのが誰なのか、唐突に気がついた。

「前橋さん!」

 春日は声を上げて、前橋に呼びかけた。軽トラックから覗く腕は、こちらの声にピクリとも反応を示さない。しかし、間違いない。あの太い腕は、前橋瑠美衣のものだ。

 気絶しているだけか。あるいは殺されたのか。どちらにしろ、早急な救助が必要だ。

 彼は覚悟を決めると、三人の『器』に向かって駆け出した。

 

(なんてついているんだ)

 金平は足音を立てずに前橋外科医院の二階につづく階段を上がる。焦る気持ちを抑えて、一歩一歩ゆっくりと足を動かしていく。

 車さえあれば、この集落を見つけるのは、さほど難しくはなかった。問題はその後。メガネの小僧と女を、どうやって探しだすか。だが金平には、ひとつの考えがあった。

 女は怪我をしていた。しかもメガネの小僧の反応から、軽傷ではないと判断できた。気を失った女を抱えた小僧が、集落でまず何を探すか。金平には容易に想像できた。

(だがまさか、手始めに選んだ病院でいきなり見つかるなんてな)

 リビングの窓から進入する前に、玄関からメガネの小僧が飛び出したのは確認済みだ。正直、平の言うようにあの小僧がまだこの集落にいるかは曖昧だったが、そもそも金平にとって小僧のことなどどうでも良かった。あくまで金平の狙いは、あの生意気な女にある。

 リボットになって以降、彼の性処理は、不正に入手した、物言わぬ『器』を相手にしたものだった。最初の頃はそれでも、それなりの満足感はあった。しかし、徐々に不満は溜まっていった。彼に与えられた力を持ってすれば、好きな女を手籠めにすることはできたが、その力は60年後の、つまり今この時まで、隠しておく必要があった。だから、彼は我慢し続けた。

 だがもう、我慢をする必要などないのだ。彼に与えられた力を思う存分利用して、好きな女をものにできる。まずはあの、先織杏とかいう、反抗的な女を頂くことにしよう。

 二階についた。そろりそろりと開けっ放しの部屋に向かっていく。舌舐めずりをしながら、部屋を覗き見る。

 先織杏は予想通り、ベッドに横たわっていた。しかしどういうわけか、ベッドに手足を縛り付けられていた。金平は疑問符を浮かべながら、ベッドに近づいていった。ベッドの脇にたっても、先織杏は彼に反応らしい反応を見せなかった。彼はますます分からなくなる。車の時見た、こちらを見下すような勝ち気な態度が、全くなくなっている。手足を縛られて、抵抗を諦めたのか。

「ふん。いいだろう。ベルトを外してやろう。これじゃあつまらんからな」

 必死に抵抗する女を、強引に抑えこんで犯すから、そそるんじゃないか。

 

 春日は勢い良く壁に叩きつけられ、息を詰まらせた。膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に耐える。衝撃で揺れる視界。それを三体の『器』に向け、彼は歯ぎしりをした。

「やっぱ……きついかな……」

 ナイフを構え『器』の一体に身を低くして駆けていった。『器』が反応してこちらに拳を突き出す。躰をねじってそれを躱し、『器』のみぞおちに、ナイフをねじ込もうとする。しかし、『器』は驚異的な速さで身を躱す。そして、バランスの崩れたこちらに、再度拳を叩きつけてきた。咄嗟に腕をクロスして防御する。ドガン!とまるで車に跳ねられたような衝撃を受けて、背後に吹き飛ばされる。転がって衝撃を逃がし、再度態勢を立て直す。

 やはり劇場の『器』とは質が違う。身体能力が桁違いだ。こちらがいくら技術で撹乱しても、ずば抜けた反射神経で、動きを捉えられてしまう。更に『器』から繰り出される一撃は、全てが必殺の破壊力を持っている。例え防御しても、体力が確実に削られていく。

 春日は肩で息をしながら、三人の『器』を見据えた。いまだ一体すら始末していない。ダメージを覚悟に戦えば、一体程度なら始末もできただろう。しかし三体同時となると、そのような自爆覚悟の特攻など、軽々しくできない。だからこそ、慎重に相手の隙を付いて、始末しようとしているのだが、体力ばかりが削られ、一向に突破口が見えない。

 係長の姿を思い浮かべる。彼女はこの『器』たちをいとも容易く屠ってみせた。あれは、彼女の瞬発力と天性の戦闘センスがなせる技だ。自分には到底、真似することはできない。

 このままではジリ貧だが、逃げ出す訳にはいかない。まだ先織が診療所のなかにいる。見捨てることなどできるはずもない。

 春日はそう思い、先織が寝ているであろう診察室の窓に、視線を移した。窓の角度からは、彼女の眠るベッドを見ることはできない。だが、彼女がその部屋にいると思うだけで、彼には大きな支えとなった。

 とその時、先織の部屋の窓に、動く人影が見えた。目を凝らすと、それは元衆議院議員の金平だった。春日は驚きに目を見開いた。

「なんで……あの男がここに」

 普通に考えれば、『器』をここに連れてきたのは、金平なのだろう。しかし何が目的で。そしてどうして先織の部屋に。

 金平は何やら部屋をせわしなく動いている。何をしているかよく見えないが、ろくでもないことを企んでいるのは、容易に想像がつく。

(杏!)

 もはやこれ以上、この『器』たちに構っていられない。春日は三人の『器』に鋭い視線を向けると、覚悟を決めた。

 『器』の身体能力は、春日幹也を上回る。だが、この躰の全能力を持ってすれば、たかがアダムの試験体に過ぎないこの『器』など物の数ではないはずだ。

 春日は目を瞑り、心の中心にある闇を深く広くしていく。意識を切り離し、自身に組み込まれたの機能のみ、鋭利に尖らせていく。

 自分を殺す。

 春日の自我は闇に呑まれ消滅した。

 

 金平はようやく、先織杏を縛っていたベルトを全て外し終えた。金平は、いまだにベッドから動こうとしない彼女に覆いかぶさって、欲望に歪んだ顔で声を上げる。

「さあ。これで貴様は自由だ!ほら抵抗してみろ!全て無駄なことだがな!」

 金平の言葉に先織杏は一切の反応を示さなかった。虚ろに顔をそむけ黙っている。

「どうした!車で私をなじったように、いまもやってみればいいだろ!貴様とてガキじゃないんだ!これから自分がどういう目にあうか、わからんわけでもあるまい!」

「……好きにすればいい」

 そう呟いた先織杏の言葉に、金平は虚をつかれる。先織杏は静かに続けた。

「好きにすればいい。もう……どうだっていい。どうせこの躰は破棄するんだ。いまの記憶はなくなる。抵抗するのも面倒だ。お前がしたいようにすればいいだろ」

 先織杏はそう言うと、また黙りこんだ。この彼女の態度に、金平は舌を鳴らした。

 なにがあったのか、この女はすっかり毒気が抜け、大人しくなってしまった。強気な女を無理やり犯すのが楽しみだったのに、これでは気分が乗らないではないか。

 だが金平はすぐに気持ちを切り替える。

 抵抗するしないは、この際諦めるとしよう。どっちにしろ、これほどの上玉は『器』とて随分と相手にしていない。折角の機会。これはこれで楽しませてもらおう。

 金平はそう考え、先織杏の服のなかに手を滑りこませようと――

 ガシャン!

 真横からガラスの砕ける音がした。

 金平は反射的に音のしたほうを見る。

 窓枠に脚を掛け、凶悪に歪めた顔でこちらを睨みつけている男。

 春日幹也がそこにいた。

 

(殺す!)

 春日幹也は四の五の考えずに、そう決めた。

(殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺してやる!)

 あまりの怒りに、感情の制御が効かない。ぎりぎりと歯が音を立てる。殺意を湛えた眼光が鋭さを増してゆく。ガラスをぶち破った際に、破片で瞼を切った。そこから流れ落ちた血が、眼球に入り、視界が紅く染まる。躰中の神経が、眼の前の男を殺すことだけに、集中されていく。

 金平は億劫そうにこちらを見ていた。そして、ゆっくりと先織が眠るベッドから下りると、春日に話しかけてくる。

「『器』を殺ったか。大した小僧じゃな――」

 春日は窓枠を蹴って、金平に襲いかかった。金平との間合いを瞬時に詰め、ナイフを突き出す。金平では、反応すらできなかったはずの必中の攻撃。ナイフが金平の眼球を突き破ろうとした。そして――

 ナイフは動きを止めた。

 春日は金平を通り過ぎ、突進の勢いそのままに、背後の壁に激突した。受け身が取れず、壁に肩をしたたかに打ちつけた。春日は痛めた肩を押さえつつ、怒りの眼差しを、金平に向けた。金平に対する殺意はまったく怯んでいない。だが頭はひどく混乱していた。

「無駄だ小僧。私を攻撃することはできんよ。いや貴様だけではない。全世界のリボットが、この私に傷ひとつ付けることはできん」

 金平が笑いながら言ったその言葉に、春日は思い当たることがあった。あらゆる攻撃をも無効にする。いや、あらゆる攻撃を、自ら無効にしてしまう。その機能に。

 春日は壁を支えにして立ち上がった。自身に整理をつけるように、静かに語りだす。

「反乱抑止プログラム。リボットの人工知能AIに組み込まれた、対人間用のセキュリティシステム。リボットは、人間への攻撃行動を、無意識の内に回避・停止してしまう」

 金平は少し意外そうに眼を丸めた。

「ほう。知っていたのか。我々リボットに組み込まれた制約を。ならば、話は早い。そうだ。我々リボットは、人間へ攻撃することはできない。人間への攻撃は、リボットの人工知能AIのなかで許可されていないのだよ。人間が神に逆らえんように、リボットもまた人間には逆らえん。初めからそう造られてある」

 金平のしたり顔の解説に、春日は血の混じった唾を吐いた。

「貴様は人間じゃない。リボットだ」

 春日の反論に、金平は自身を手で指し示す。

「例外がある。それが私だよ。60年前に立てた計画で重要な役割を果たすリボットには、計画を滞りなく遂行するために、人間同様にそう言った権限が与えられている」

「計画……人間の復活がそれか」

 凶暴な眼つき問い返す春日に、金平は怯む様子はない。あの研究所で裸の男と同様に、金平の態度からは、絶対的な自分の有利を確信しているのが伺えた。

「その通りだ。人間という種を絶やさぬために、60年前に、リボットシステムの技術者と一部の政治家との間で計画された。しかし、私と平の計画にはさらに続きがあってな」

 金平は一段笑みを深くし言った。

「人間がリボットを道具として、完全に支配する。それが私たちの目的だ」


 60年前、人類は滅亡の危機に直面していた。

 致死率100%のウィルス性感染症。高い感染率と長い潜伏期間で、親から子、子から孫へ遺伝されたウィルスプログラム。人知れず全人類に組み込まれた災厄の種。TimeBombVirus(TBV)。それが2年前から突如牙を向いた。

 この感染症の症状を簡単に述べると、全身の癌化だ。皮膚や筋肉、臓器や血中細胞に至るまで、全身のあらゆる箇所で癌化が進行し、苦痛にのたうち回って死んでいく。発病した人間の中には、躰中に腫瘍ができ、まるで小学生の粘土細工のような、不格好な肉の塊となって死亡した例もある。それだけでも恐ろしい病ではあるが、この感染症の致死率が100%である理由は他にある。この感染症の最も恐ろしい症状。それは、非分裂細胞でさえも癌化させる点にある。

 人間を形成する細胞は、大きく二種類に分けられる。細胞分裂をする分裂細胞と、細胞分裂をしない非分裂細胞だ。筋肉や臓器など人体の大部分を形成しているのが、分裂細胞であり、一般的に癌化するのはこちらの細胞である。対して、神経細胞や心筋細胞など、記憶の蓄積や、細胞自体が複雑な構造を持つなどの理由から、分裂することが難しい細胞が、非分裂細胞として存在している。細胞の癌化とは細胞分裂が過剰に行われることである。そのため、そもそも分裂しない非分裂細胞は癌化しないというのが、一般の解釈だ。

 だがこの感染症は、分裂を制御する遺伝子を書き換え、非分裂細胞を分裂細胞へと変化させてしまう。先も述べたように、非分裂細胞は、様々な理由から分裂することが難しい細胞である。それを強引に細胞分裂を起こさせるとどうなるか。生命活動は困難となり急速に死に至る。これが、この感染症が致死率100%の大きな要因である。

 感染症のもうひとつの特徴として、発病が比較的同時期、同地域で一斉に起こることが上げられる。アジアにある小さな国では、わずか200日の間で全国民が発病・死亡し、ひとつの国が滅んだことさえもあった。

 当然、感染症の対策は各国にとって最重要な懸案として上げられ、当時の各国首脳たちの間で、幾度となく話し合いの場が持たれた。しかし、この感染症の対策は困難を極めた。

 近年急速に発展してきた遺伝子治療だが、すでに何世代も前からヒトゲノムの一部として紛れ込んでしまったウィルス遺伝子のみを、都合よく細胞から取り除くことは難しく、またその作業を37兆個といわれている細胞すべてに対し、感染症が発病するまでの僅かな時間のうちに行わなければならない。

 それらの課題をクリアすることは、あるいは不可能ではなかったのかもしれない。しかし当時の人類には、それを成し遂げるまでの時間が余りにも、限られていた。

 誰もが半ば諦め、絶望に打ちひしがれていた。

 そこに救世主が現れた。

 全身の細胞に組み込まれたウィルス遺伝子の除去が難しいのであれば、躰そのものを乗り換えてしまえばいいという、大胆な発想が生まれたのだ。その夢物語のような話は、国家プロジェクトとして正式に採用されることとなり、西暦2160年に感染症対策として本格的な運用を開始した。

 それが『リボットプロジェクト』。

 人類は、神によって創られた躰を、捨てる決心をしたのだ。


 彼は東京のとある会議室にいた。室内の一番奥の角席に座り、室内を見回している。室内にある300席すべてが、人で埋まっていた。席に座るのは政治家や、その政治家を支援する大物スポンサーの代表。彼の正面には、全長10メートルほどのスクリーン。そこには、『質疑応答』という文字が映し出されていた。スクリーンの前に立つスーツ姿の男が、会場によく通る声で、出席者のひとりから出された質問に答えている。

「リボットの問題点について、ご理解しにくい点があったようなので、繰り返しになってしまいますが、再度説明させて頂きます」

 スーツの男は手元の端末を操作して、スクリーンの映像を切り替える。この会議室に備え付けられたプロジェクタは、昨今では珍しい事に、空間に直接映像を投影するタイプではなく、白い布に映像を映す旧式のものであった。そのため、スクリーンの映像は全体がぼやけ、何が映しだされているのか、彼の席からは判然としなかった。彼はスクリーンを見るのは諦めて、手元に配られた資料に視線を落とした。

 スーツの男は上機嫌に話を続ける。

「リボットにより、人類の歴史や知識は失われることなく、未来に継承されます。それはとても重要な事ですが、ひとつだけ受け継がれないものが有ります。それは人間という種そのものです。リボットはどんなに精巧に造ったところで、人間には成り得ません。それは子が産めないなどといった、瑣末な差異を取り上げているわけではありません。概念の問題です。人類が誕生したのがいつか、それは諸説ありますが、少なくとも5,600万年以上は前のことでしょう。そのようなはるか昔から現代の人間まで、途切れることなく繋がった種の継承。そこにこそ意味があるのです。もし、猿を遺伝子操作して、人間と違わぬ容姿と知識を与えたところで、それを我々は人間とよびません。人間に限りなく似た、別種として扱います。昔から続く進化の連続性にこそ、人間というカテゴライズが成り立つものなのです。そこで私は、リボットとは別に、人間という種そのものを残す手段を、ご提示させて頂いた次第でございます」

 スーツの男はそう言うと、再びスクリーンの映像を切り替える。

「こちらも繰り返しになりますが、我々の躰には、何世代か前に感染したウィルス――TBV――の遺伝子が組み込まれています。我々の現代の医学では、これを治療することは通常は困難です。なので通常でない手段を取ります。キーワードはコールドスリープです」

 その言葉を聞いて、何人かの出席者の顔が一段暗くなる。その理由はなんとなく理解できた。スーツの男も、それは想定内だったようで、少し笑って言葉を重ねた。

「つまり人間の冬眠ですね。生物界の冬眠と分けるために、凍って眠ると書いて凍眠と便宜上呼ばせてもらいます。SFでおなじみのやつです。みなさんが不審に思うのも無理もありませんが、現在ではれっきとした技術として確立されていますからご安心ください。ただ対象者の方には、凍眠中も生存できるよう、心臓など幾つかの臓器を、人工臓器に取り替える手術を受けて貰う必要がありますが」

 スーツの男は端末を操作して、スクリーンの映像をさらに切り替える。

「そして凍眠している間に、遺伝子治療を行います。治療には非分裂細胞にも適用されるウィルスベクター(ウイルスが持つ病原性遺伝子を除去し、治療用遺伝子を組み込んだ物)を用いますが……そこは割愛します。TBVの主な症状は細胞の癌化です。しかし凍眠中は生命活動が著しく低下し、細胞分裂の回数も減ります。凍眠中であれば、仮にTBVが発症しても、症状が深刻化する前に進行を食い止めることもできるでしょう。そうしてTBVの症状を抑えつつ、全身に組み込まれたTBVの遺伝子を、時間を掛けて一つ残らず除去していきます」

 出席者のひとりが、どの程度の時間かと質問した。スーツの男は淀みなく答えた。

「私の試算では少なくても50年。安全面を考慮すると60年は必要だと考えています。長過ぎると感じる方もいるでしょうが、生命を維持したまま、全身の遺伝子を書き換えるのですから、それぐらいは必要でしょう。リボットとは違いますが、生まれ変わるようなものです。ことを急げば、どんな弊害が出るか予測は難しい。慎重に時間を掛けて、躰の状態を常にチェックしながら、徐々に治療をすすめるのが得策と思います。凍眠中の60年を躰の年齢で言うと、おおよそ3年程度の経過と考えてください。またその間の栄養補給や、死滅した細胞、つまり垢の除去は、凍眠時に全身を満たす養液が担います。電気刺激により粘度を自在に変化させられるもので、凍眠中は、僅かな対流だけ残し固体に近づけることで、無防備な躰を守ってくれます」

 とここで男は、声のトーンを落として、少し躊躇いがちにこう続ける。

「ただし、この設備を造るには莫大な資金と時間が必要となります。現在の見積もりでは、百台用意するのがやっとでしょう」

 会場がざわつき始めた。この会場にいるだけで、300人の人間がいるのだ。既に数が圧倒的に足らない。スーツの男は会場をなだめるため、口早に言う。

「代替案はあります。これは未来の技術発展を期待した案では有りますが、実現は十分に可能だと思われています。別途資料を配布しますので、詳細はそちらをご覧ください」

 そこで彼は手を上げた。スーツの男が眼を丸くしてこちらを見た。当然だろう。彼とスーツの男は、同業者。つまり同じリボットプロジェクトの技術者として、この会場に出席しているのだから。彼は男に指名される前に、自ら立ち上がり、質問した。

「リボットはどうするんですか?」

 男の顔が鋭くなる。

「どうするとはなんでしょうか?」

「リボットが人間の私たちを――人間の躰を持つ私たちを、受け入れるでしょうか。彼らは自身こそ人間だと思っている。それは勘違いも甚だしいですが、もし対立なんてできたら、たった百人の人間が、何万あるいは何千万というリボットに、どう対抗すればよいのでしょうか?人間という種の保存を考えるなら、その問題は無視できないと思いますが」

 彼は敢えて、男にその質問をぶつけた。この男の口から、ある言葉をハッキリと聞くために。男はこちらの意図に気がついているのか、少し苦い顔をしてから答えた。

「……リボットの人工知能AIは、アダムプロジェクトの人工汎用知能AGIをベースにしています。そこには人間に対する攻撃を抑制する、機能が備わっています。彼らが人間に危害を加えることは不可能です」

 巧妙に言葉を濁す男に、彼は苛立った。そして男が避けている話題について、自分から踏み込んでいく。

「つまり、リボットは人間を生かすためだけに存在する、体のいい道具ということですね」

「誰もそんなこと言ってませんが」

「あなたはさっきこう言ったじゃないですか。リボットは人間の歴史と知識を守るって。だが決して人間ではないと。逆に言えば、彼らの存在意義はそこにしかないんですよ。彼らはいつか目覚める人間のために、現代の技術レベルを守るためだけに存在する。人間に逆らうこともできない奴らを、どうして道具じゃないと言えるんですか?」

 彼の言葉に、男は穏やかに返した。

「彼らは人間ではない。しかし人間の記憶を持っている。道具などと考えてはいけない」

「詭弁です。記憶など単なる複製品。彼らは人間の記憶を持つただのロボットです。死ぬこともなく、何度だって再生できる。ゲームのキャラクタと一緒。あなたはアダムプロジェクトにも深く関わっている。人工知能AIに対して、幻想めいた期待を抱いてるんですよ」

 彼はこれから言う自分の発言に、どれほどの人間が同調するか、注意してこの場を観察した。こちら側に引き込める人間が果たして何人いるか。彼は口を開く。

「先程の話しですが、攻撃を抑止だけでは不十分です。有事の際には、人間の意思で、リボットの意志や行動を自由に操作できる。そんな機能を付ける必要があると思います」

 彼の言葉に、男は厳しい口調で反論した。

「リボットの自由意志を奪うつもりか!それこそ、彼らを道具扱いする愚行だ!」

「僕は初めからそう言っている。彼らは道具だ。半端なことをすれば、人間にとって、都合の悪いことが必ず起こる。やるなら徹底的に、人間の種の保存のみを考えて、行動すべきだ。リボットから意志を奪う。そうすれば、人間は必ず守られる」

 彼はそう言うと、挑戦的な眼で男を睨みつけた。

 

 平はそこで目を覚ました。60年前の記憶。しかし彼にとっては、ほんの1年前の記憶だ。彼は頭を振って、躰を起こした。そこは車の中だった。金平が用意した車。それで目的の場所に向かう途中、猛烈な眠気に襲われ、少し仮眠をとっていた。

(60年眠ってたくせに、どうしてまだ眠くなるのかな)

 もっとも、凍眠が覚めてから、彼は一度も休んでいない。かれこれ20時間は動き続けている。ただでさえ長い凍眠で筋肉は衰え――むろん、それを極力防ぐための機能は凍眠装置にあったが――疲れやすくなっている。眠くなるのも致し方ないのかもしれない。

 だがこれ以上、休んでいる暇はない。結局60年前に彼が提案した、リボットの意志剥奪は実現されなかった。だがそれは平にとって予想通りだった。あの場での発言の真意は、彼の目的に協力してくれる人間を見つけること。そしてそれは成功した。金平を含め、何人かの協力者を得ることができた。そいつらに金銭的な支援をしてもらい、リボットから意志を奪う――正確には人間の意志のほうを優先する――パッチプログラムを、彼は単独で造り上げたのだ。

 あとはこれを記憶のデータセンターに行って、一つ一つの人工知能AIに適用する。そして全てのリボットを造り直す。つまり殺して再生すれば、忠実な人間の道具ができ上がるわけだ。丁度試験体も手に入ったことだし、実験も含めて、早く試してみたい。

 そこで平は、自分の意見に厳しく反論した、スーツの男を思い浮かべた。あの時は言い争いをしたが、あの男とは仲が悪いわけではない。むしろ、自分が唯一尊敬できる男が、彼だった。だからこそ、許せなかった。彼のした決断。自分はどうしても、それを否定してやりたかった。結局それは、叶わぬ願いだったわけだが、今でも彼のことを尊敬する気持ちに変わりはない。

「あなたは……愚かだ……」

 平はその男――亜門あもんかいを思い、愚痴をこぼした。


 春日が戦っている。先織はそれを、うっすらと理解した。状況は、彼が劣勢のようだ。時間の経過とともに、時折聞こえる彼の声が、弱々しくなっていくのが分かった。

 何故、彼は戦っているのだろう。私のためなのだろうか。であれば、無駄なことだ。私は再生される。そうすれば、私の記憶とともに、すべてが、元に戻る。すべてが、なかったことになる。すべてが、無意味になる。

 頭痛がする。ものを考えると頭が痛む。だからもう、余計なことは考えたくないのに。考える必要だってないのに。彼の行動の意味を、彼の想いを、どうしても考えてしまう。

 リボットは死を克服した。 

 リボットは死を超越した。

 リボットは死を無価値にした。

 だからもう苦しむ必要なんか無いのに。

 再生されれば、それだけで解決するのに。

 そう何度も言っているのに。

 どうしてお前は、そうまでして戦うんだ。

 

 春日は膝をついていた。躰中を負傷している。その殆どが掠り傷だが、なかには深い傷もある。血が足りず、全身に酸素が行き届かない。自然と息が荒くなる。それでも彼は眼光を鈍らせることなく、眼の前にいる敵を、殺意を込めて威嚇する。

 そんな彼の眼を、金平は涼しく受け止めている。金平は、自身が持ってきた拳銃を春日に向けて構えながら、フンと鼻を鳴らした。

「わからんな。小僧。お前のことがよくわからんよ。何をそんなムキになって私に逆らうのかね。全て説明してやったではないか。リボットは人間のためだけに存在している。そして平が記憶のデータセンターで、リボットシステムにパッチを適用すれば、君たちは意志すらも剥奪される。そんな――」

「がああああああああああ!」

 春日は吠え猛り、金平に襲いかかった。既に左腕は動かない。右腕を振るって、金平にナイフで斬りかかる。しかし――

 ピタリと、金平の前でナイフが静止した。春日は必死に腕に力を込める。しかし、腕はブルブルと震えるだけで、金平に触れることすらできなかった。

 金平はそんな春日を呆れたように見つめる。

「さっきから何度も何度も。人が親切に説明してやってる時もだ。一体どれだけ頭が悪いのかね。無駄だと言っているだろう」

 金平が引金に、力を込めた。春日は身を躱そうとするも、出血と疲労から、躰がうまく動かない。パンッという音と共に、右肩に衝撃が走る。彼は右手のナイフを落とし、後ろの壁に背中から激突した。

 右肩が熱い。弾丸は肩を貫通したようだが、重傷だ。膝が折れ、尻餅をつく。脚に力が入らない。もう立ち上がる体力すら、残ってない。だがこの男にだけは、決して屈しない。殺意だけでも向けようと、春日は眼を尖らせて、金平を睨みつける。そんな春日の態度に、金平の表情が不愉快そうに歪んだ。その時、か細い声が聞こえた。

「……逃げろ」

 先織だ。いままで春日と金平のやり取りに、いっこうに反応を示さなかった彼女が、始めて春日に声を掛けた。

 先織は小さい、だが春日にはハッキリと聞こえるそんな不思議な声で、こう言った。

「逃げろ。もう……いいんだ。私のことは放っておいてくれ……私たちリボットはほんとうの意味で死ぬことはない……何度だって再生できる……だから……私なんてどうなったって構わないんだ……どうせ忘れるんだから……躰が穢れたって……それも新品に変わるんだから……だから……もういいんだ」

「……れ」

 春日の声が掠れた。自身に渦巻く、激しい感情の奔流に、うまく言葉を紡ぐことができない。彼女には彼の声が聞こえなかったのか、さらに続けてこう言ってきた。

「お前が……私を救うために戦っているなら……もう止めてくれ。再生こそ私の救いなんだよ……それだけが、私を苦しみから解放してくれるんだよ。だからもう……」

「黙れと言っているんだ!」

 春日は先織に向かって怒鳴った。それは彼が彼女と出会ってから、始めての経験だった。彼女が遠目からでも、息を呑んだのが分かった。彼は怒りまかせに、彼女に想いの丈をぶつけていった。

「もう沢山だ!いいか!俺はもう沢山なんだよ!死んでもいいとか!再生があるとか!そんなのもう沢山だ!ああ白状してやるよ!利口なフリして分かった気になっていたけどな!俺は最初っから全然分かんなかった!何が再生だ!何が死を克服しただ!ふざけるな!テメェらはただ諦めているだけだ!めんどくせえから諦めてるだけだろうが!それを何を格好つけて言ってやがんだ!根暗の群衆共が!いい加減にしやがれ!この馬鹿どもが!」

 春日は声を荒げて、口汚く罵った。先織に。そして死んでいった仲間たちに。リボットが生み出した、歪んだ価値観そのものに。彼は喉が裂けるほどに、それを否定した。

「……何が分かる……」

 先織が呟いた。研究所を逃げ出してから、感情らしい感情を見せなかった彼女が、明らかに怒気のこもった声で、春日の言葉に反応した。彼女は弾けたようにがなりたてた。

「お前に何が分かる!お前にこの苦しみが分かるのか!お前にこの辛さが分かるのか!親友を失った私の気持ちが、お前なんかに分かってたまるか!」

「うるせえ!他人の気持ちなんぞ分かるわけねえだろうが!おこがましいこと言ってんじゃねえぞ!俺は誰の気持ちも分かんねえ!だから俺が思ったようにこれからは行動する!もう頭いいふりして、あんた達の真似すんのはヤメだ!俺は俺が気に食わないもんは、何が何でも否定してやる!テメェが逃げろと言ったって、誰が了承してやるか!」

「勝手なことを抜かすな!私はもうほっといてくれって言ってるんだ!ただそれだけのことなんだ!どうして分からないんだ!この分からず屋!」

「勝手なこと抜かしているのはテメエだ!何がほっといてくれだ!悲劇のヒロインぶって、気色わりいこと吠えてんじゃあねえ!そういうところが、気に入れねえって言ってんだ!」

「私は貴様を心配して言ってやってるんだぞ!それをなんて言い草だ!」

「誰が誰の心配してんだ!一日中抜け殻みてえになってたくせに、偉そうに命令すんな!このヘタレ!ドアホ!」

「アホは貴様だ!カス!ゴミ!メガネ!」

 春日と先織は――戸惑う金平を挟んで――不毛な言い合いを続けた。さっきまでベッドから動こうとしなかった先織が、今は上半身を起こし、ベッドから身を乗り出して春日に敵意のこもった目を向けている。春日も同様だ。もう身動き一つ取れないほど傷めつけられた躰を、全力で前に傾け、唾を飛ばしながら彼女を罵倒している。

「貴様いいかげんにしろよ!いいから逃げろって言ってるんだ!てか、失せろ!私の前から消えろ!頼むから!」

「断るって言ってんだろ!何度言わせんだ!」

「それで私は救われるって言ってるだろ!どうして分からない!貴様ただ私を困らせたいだけで、ここにいるわけじゃないだろうな!」

「だからそれが分かんねえってんだよ!それの何が救いだってんだ!」

「再生されれば記憶が消える!この苦しみからだって――」

「それじゃあ先織杏は救えても、いまここにいるテメエは救えねえじゃねえか!」

 春日のその言葉に、先織が黙りこんだ。春日が何を言ったのか。彼女には理解できなかったようだ。彼は物分りの悪い彼女に舌打ちをして、さらに言葉を続けた。

「いいか!確かに再生されたあとの先織杏は、この事をすっかり忘れてるんだろうぜ!苦しみなんて無縁の顔して、ふんぞり返ってるんだろうさ!でもそれは、テメエじゃねえだろ!苦しんで、自殺しようとまで追い込まれて、全てを投げ出しちまっても言いと思ってる、そんなテメエとは違うだろ!これのどこがテメエにとっての救いなんだよ!再生が先織杏にとっての救いでも、ここにいるテメエの救いじゃねえだろ!これがテメエにとっての救いなんて、認められるわけねえだろ!」


 リボットは不死を叶えた。記憶の継承により、人は死ぬことはなくなった。先織はそう聞いている。事実、彼女もそうだと思っていた。実際再生された時には、まるで眠っていたかのように、目を覚ますだけだ。その時、目覚める以前の記憶の持ち主が、自分とは別人などとは、考えるわけがない。考える発想すらなかった。だが春日は、いま自分に罵詈雑言を浴びせている彼は、それを否定している。彼が救いたいのは、先織杏の記憶ではなく、いまこの場にいる私だと。泣くこともできない、惨めて情けないこの私だと。彼はそう言っている。言ってくれている。

「俺はテメエを救うって決めたんだ!再生後の先織杏じゃねえ!テメエだ!泣きそうな面でいま俺を見てる、テメエを救ってやるってんだ!ゴタゴタ言うんじゃねえ!俺を信じて、黙って任せときゃいんだよ!」

 ズキン!と頭痛がした。頭を抱えて、ベッドに顔を埋める。

 ズキン!と追い打ちを駆けるように痛みが再び押し寄せる。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 頭の痛みが、彼女の思考を散らす。何か考えようとすると、頭痛がひどくなる。だから考えたくなかった。考えるのを放棄した。短慮な解決策にすがり、それで安心したかった。凛音のいない苦しみを、誤魔化したかった。だけど、それで本当に私は救われるのだろうか。先織杏ではなく。彼がこんなにも想いを寄せてくれている、この私は幸せになるのだろうか。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 私は先織杏。それは間違いようのない事実だ。劇場で死亡した私も先織杏だ。彼女と私は同じだろうか。彼女の気持ちを、私は知っているのだろうか。彼女が死ぬ間際、何を考え、何を思ったのか、私は知っているのだろうか。そして次に生まれてくる先織杏は、私が苦しみ抜いて死んでいくことを、知ってくれているのだろうか。少しでも、気にかけてくれるのだろうか。

 ズキン!ズキン!ズキン! 

 記憶は個人を形成する重要な要素ファクターだ。しかしそれだけが、個人を作り上げるものではないはずだ。個人を作り上げるためには、別の要素ファクターが必ずあるはずだ。それは形がなく、曖昧模糊としていても、間違いなく存在するはずだ。私が私であるように。前の私が私ではないように。次の私が私ではないように。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 だとしたら私はどうすれば救われるんだ。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 彼の気持ちに応えられるのは誰なんだ。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 次の先織杏じゃない。

 ズキン!ズキ……

 いまの私だ。

 ……ン……

 伏せた顔を上げると、春日の落としたナイフが眼の前に落ちていた。

 

 先織がベッドに顔をうずめ、大人しくなってしまった。春日の興奮は徐々に引いていき、いまさら後悔の波が押し寄せてきた。あろうことか、傷心している彼女に酷い言葉を浴びせてしまった。彼自身、自分にこんな一面があるとは、思いもしなかった。もう少し、冷静で大人の対応ができる、そんな男だと――自分で勝手に――評価していた。

 消沈していると、春日を呼ぶふてぶてしい声が聞こえた。

「……私を無視せんでもらおうか」

 金平だ。春日は自身が置かれた状況を思い出し――情けないことに忘れていた――、金平を強く睨みつけた。

「くだらん言い合いをしおって。興ざめだ。もういい。平が生け捕りにしろと言っていたが、貴様にはいますぐに死んでもらう」

 そう言うと、金平は銃口をこちらに向ける。春日はぎりぎりと歯ぎしりをしながらも、もう自分には立ち上がって逃げまわる余力がないことを、認めざる負えなかった。

(せめて……杏だけでも助けないと)

 とここで、金平が眼を少し開き、そして次にニヤリと、寒気がするような下品な笑いを春日に向けた。

「そうだ。面白い趣向を考えたぞ。小僧。お前を殺すのは後回しにしよう。まずは後ろにいる女を、貴様の眼の前で犯してやる」

 金平の醜悪な発想に、春日は気が遠くなりかけた。今にも噛みつかんばかりに身を乗り出して、金平に怒声を上げる。

「貴様!どこまで腐ってんだ!」

「ははは!何とでも言え!どうせ貴様らは再生後は、ここでの記憶が無いのだからな!なんとも面白いじゃないか。貴様は眼の前で自分の女を犯した男を、次見た時は覚えていない。女もだ。次あった時は、昨日の車の中であったように、私をことを、さげずんだ目で見てくるのだろうな。そのさげずんだ目を向ける男に、自分は犯されたというのにだ!ははは!なんとも滑稽なことだ!」

「殺す!殺してやる!再生なんか関係ない!貴様は必ず殺してやる!」

「聞き飽きたわ小僧!何度も言うように私を傷つけることはできん!私には貴様らリボットを自由にする、権利が与えられているのだ!何をしようと、非難される覚えは――」

 とここで金平の言葉が急に止まった。彼は「あ……が……」と掠れた声を出しながら、躰を小刻みに震わしている。

 春日が不思議に見ていると、突然金平は口から大量の血を吐き出し、そのままバタンと崩れ落ちた。

 自身の吐き出した血溜まりに、顔から突っ込んだ金平は、それからピクリとも動くことはなかった。金平の首筋にパックリと開いた深い刺し傷。その傷口から、どくどくと血が流れ出ている。誰が見ても明らかだ。金平は絶命していた。

 春日は驚きに眼を見開いたまま、ゆっくりと金平が立っていた背後に、視線を向けた。そこには、彼が落としたナイフを片手に持った、先織が立っていた。単純に考えれば、彼女が金平を刺殺したのだろう。だが、リボットである彼女に、金平を攻撃できるわけがない。わけがないのだが、それ以外に、この状況を説明することはできなかった。

 先織は一度ふらりと横に揺れると、ペタンとその場で尻もちをついた。ナイフを落とし、頭を痛そうに抱える。

 春日は全身に力を込めて、躰を引きずりながら先織のそばに寄っていった。彼女との距離はわずか2メートルほど。それを10秒もかけて、近づいていく。彼女のそばまで来ると、彼は彼女の顔をのぞき見た。頭痛がひどいのか、彼女は痛みに顔を歪めている。しかしその表情は、今朝のような感情の欠落したものではなかった。ひどい痛みに苦しみながらも、それを乗り越えようとする、彼女の強い意志が、そこには表れていた。

 先織は頭を抱えながらも、ギッと彼を鋭く睨みつけた。思わず、春日は腰が引けて、彼女から半身ほど遠ざかる。

「体調が悪いってのに……怒鳴り散らしやがって。頭痛が酷くなるだろ」

「あ……そうだね……ゴメン」

「ゴメンだけか?」

 先織が半眼で訊いてくる。春日は冷や汗を流しながら、上目遣いに答える。

「えっと……そう……言いましても。お金もあんまり持ちあわせていませんし……」

「お前は、私がカツアゲしてると思っているのか?」

 スケバンに睨まれた中学生よろしく、春日は人差し指をあわせてイジイジしながら、ビビリ全開で先織の問いに答えた。しかし、どうやら彼の答えは彼女に気に入ってもらえなかったようだ。あとはなんだろうか?指を詰めろということだろうか?彼は真剣に小指との別れを決断し始める。

「では……どうしろと言うのでしょうか?」

 怯える春日に、先織がちょいちょいと手招きをする。彼が震えながら近づいてくると、彼女に首根っこをグッと掴まれた。

「こうしろ」

 頭突きチョッパーか!春日が頭に走る衝撃に覚悟を決めた時、ふわりと先織の顔が、自分の顔に近づいてきた。

 先織のくちびると春日のくちびるが重なる。

 彼女の突然の行動に、彼はピキンと全身を硬直させた。

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