復帰

第16話 幻

 麻木凛音は初めから何処にもいなかった。

 麻木凛音はこの世界に存在しなかった。

 麻木凛音は私のゆめだった。

 私は彼女に会うために生きてきたのに。

 私は彼女のためだけに生きてきたのに。

 彼女がゆめというのなら。

 私の存在とは何なのだろう。

 私の意味とは何なのだろう。

 彼女のいないこの世界で。

 私は何のために生きるのだろう。

 

 前橋外科医院。それが、前橋まえはし瑠美衣るびいが代表を務める診療所の名前だ。その男は、瑠美衣などという可愛らしいイメージとは真逆の、顎に濃いヒゲを生やした、いかつい中年の男だった。旧時代にラグビーで鍛えたという、隆起した肩を怒らせて、自身の名前について憎々しげに、春日にこう言ってきた。

「俺の親が昔見ていた、漫画のキャラクターの名前だとよ。俺にとっちゃ、知りもしねえ奴のアホみてえな名前つけられてよ、いい迷惑だぜ。まあ、一発で名前を覚えてもらえるってのだけは、客商売には都合は良いけどな」

 前橋はそう言うと、ぐいっとブランデーを瓶のまま煽る。時刻は午前9時。そんな朝から、しかも勤務中に酒を呑む医者の行動に、春日が眼をまるくする。医者は、春日のその表情に気付くと、ニヤリと笑った。

「心配すんな。寝起きの頭には丁度いい気つけなんだよ。仕事はちゃんとする。あんたら以外に他に客もいねえしな。マンツーマンで面倒見てやるさ」

 そう言って、前橋は再びブランデーを喉に流し込んだ。

 

 春日は車を降りた後、頭痛の治まらない先織を腕に抱えて、歩き始めた。先織の介抱と署への連絡。それを果たすためには、小川原市に点在する集落を、探さなければならない。

 春日は、大きな街道を選択しながら、進んでいった。現在の小川原市は、広さの割に人口密度が低い。旧時代の建物はそこら中に存在するのだが、その9割以上が空家である。乱立する廃屋の中から、人が暮らしている家を探しだす。森で一枚の木の葉を探すようなものだ。それでも彼は諦めることなく、建物の中に人影が見えないか目を凝らし、時には大声で呼びかけながら、先織を抱えて歩き続けた。

 8時間が経ち、辺りが薄暗くなる。疲労で足元がふらついた。体力は消耗しきっている。だがそれだけではない。この8時間、先織は何度も苦しそうに、頭を抱えて春日の腕の中で、暴れだした。その都度、彼は立ち止まり、彼女の痛みが治まるまで声をかけ続けた。心労が春日の精神までも疲弊させていく。もう限界に近かった。その時、差し掛かった十字路の、左手奥の建物から、人工的な光が灯るのが見えた。春日は残った力を振り絞って、その建物に急いで向かった。塗装が剥がれ無数の大きな亀裂が入ったその建物は、とても人が住んでいるようには見えなかった。昼間であれば通り過ぎていたかもしれない。何にせよ、彼は――インターフォンがなかったため――ドアを激しくノックして、家主を呼んだ。建物から出てきたのは強面の男だったが、事情を説明――車の事故にあったことにした―ーすると親切にも、家に招き入れ、電話で医者を呼んでくれた。

 そして何故か軽トラックに乗って現れた医者が、前橋まえはし瑠美衣るびいだった。

 

 前橋は、旧時代の民家を、自宅兼診療所として使用していた。旧時代の建物の所有権は曖昧になっていることが多い。そのため、そういった建物に勝手に住み着いては、自身の権利を主張する者が少なからずいる。どうやら、前橋の自宅や春日たちを乗せた軽トラックも、その類のものらしい。もちろん、この行為は違法なのだが、立証することは難しく、野放しになっているのが現状だ。何より、その御蔭で春日と先織は助かったのだから、文句など言えるはずもない。

 先織は昨夜のうちに二階の病室――の代わりに使用している畳部屋――に運んで、今はベッドで眠っている。先織を運んだ後、春日も疲労からばったりと倒れてしまった。

 そして翌日の午前9時。春日は目を覚ますと、まず先織の様子を確認した。昨夜よりは顔色が良い。どうやら医者が投与した鎮痛剤が効いているようだ。取り敢えず安心すると、医者にお礼を言おうと階段を降りた。直接ドアに『診察室』と描かれた部屋の奥で、医者はおにぎりを頬張りながら、書類にペンを走らせていた。春日は開けっ放しの診察室のドアに、コンコンとノックをした。医者がちらりと視線をこちらに向ける。しかしすぐに書類に視線を戻してペンを再び動かし始めた。

 春日は困ったように頭を掻いて、ドアの前に立ち尽くした。すると医者が書類から目を離さずに、彼に声をかけた。

「入れよ」

「いいんですか?」

「いいも悪いも、開いてんだから入れよ」

 春日は「失礼します」とひと声かけて、診察室に入る。診察室は10畳ほどのリビングを改装したものだった。床はツヤのある綺麗なフローリング。部屋の中央には白いテーブルと、それを挟んで、ひとり掛け用のソファーがふたつ、向かい合う形で置いてあった。部屋の隅に並べられた棚には、ラベルで名前をつけられた瓶が陳列されている。棚のガラス戸に鍵が付いていることから、治療に使う薬品の類だろう。病院らしいところはその棚ぐらいで、あとは診察室というよりは企業の応接室という言葉が似合う、そんな部屋だった。

 医者はソファーがあるにも関わらず、床に直接座ってテーブル上の書類に、文字を書き込んでいる。そんな医者に対して、春日は遠慮がちに声をかけた。

「すみません。忙しかったですか?」

「見りゃ分かるだろ」

「そうですね。すみません」

「くそ暇してた」

 医者はそう言うと、ペンを背後に放り投げ、春日の方に躰を向けて、座り直した。春日は医者の行動に、暫し呆気にとられた。

「えっと……暇だったんですが?」

「他にどう見えたよ?」

 春日はテーブル上の何やら記号やら図形やらを書き込んだ書類を指差して言った。

「あの紙は?」

「ありゃ単なる落書きだよ」

 しかし、春日にはその紙に書かれたものが、単なる落書きには見えなかった。医学知識などない彼だが、数枚にも渡って緻密に書き込まれたその文章からは、デタラメな文章にはない、高い知識が伺えた。

 春日の戸惑いに気づいた医者は、肩をすくめてこう続けた。

「ナノコンピュータを用いた癌細胞監視兼死滅システム。つまり新しい治療法の草案だよ。定期的な健康診断で、体内に癌細胞を監視するナノコンピュータを注入して、重症化する前に癌細胞を死滅させる。簡単にいえば、癌細胞に特化した免疫を人間に付与するってことだな。上手くいけば癌そのものに人間はかからなくなる。はずなんだが――」

 医者は残りのおにぎりを一口で頬張り、皮肉げに笑った。

「いまじゃ、なんの価値もない考えさ。命にかかわるような病気は、大金を払って治療なんかせず、リボットシステムで躰ごとすげ替えちまうのが、今の人間のやり方だからな。リボットの再生費用は税金で賄われているから、そっちのほうが遥かに安上がりだ。だから言っただろう。こんなもの、単なる落書き程度の価値しかねえってな」

 その言葉に、春日はガンッと頭を殴られたような衝撃を受けた。

 どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのか。不思議でならない。だが一度思いついてしまうと、もうこれ以上に、確実な方法などないように思えた。つまり――

 先織杏を救う最善の方法。

「それで何の用だ?」

「え?」

 思わず素っ頓狂な声をだす春日。そんな彼に、医者は怪訝に訊いてくる。

「お前、俺に用があって来たんじゃねえのか?」

「……あ……すみません。えっと……そうだ。俺……お礼を言いに……」

 春日は医者に簡単なお礼を言い、その後に医者の名前を尋ねた。彼は嫌そうに前橋瑠美衣と名乗り、両親の漫画の影響だと憎々しげに語る。そして前橋はテーブルにあるブランデーを煽り、気付けだと笑った。

 その後も春日と前橋は話を続けた。しかし春日はその間もずっと、先ほど思いついた考えに、意識を奪われていた。

 先織杏を救う最善の方法。

 それは先織杏。彼女を――

 再生することだ。

 

 日付は遡って前日。

 平卓は、研究所から持ってきた荷物を、金平が隠していた車のトランクに詰め込むと、バタンと蓋を閉じた。額に滲んだ汗を、ワイシャツの袖で拭きとる。金平が持ってきた新品のワイシャツとスラックスは、柔らかい生地で、着心地は悪くない。上下ともに白であるため、汚さないように気をつける必要はありそうだが。

 平は運転席に回って、ドアを開けようとした。そこに彼を呼ぶしわがれた声が聞こえた。

「ちょっとお待ち下さい。平さん」

 平が背後を振り返ると、研究所から不格好にこちらに走ってくる人影が見えた。たるみきった丸い体に潰れたカエルのような顔。元衆議院議員金平源治だ。

 平の表情が一瞬不快に歪む。が、すぐに笑みをたたえて、金平に話しかけてやる。

「何でしょうか。金平さんには、ホコリまみれの研究所の掃除をお願いしたと思いますが」

 この研究所は放棄する予定のため、掃除など必要なかった。ただ、近くにいると何かと不愉快なこの男を、暫く遠ざけたくて、適当についた詭弁が、研究室の掃除だったのだ。

 金平は平の前まで来ると、膝に手をつき、ぜえはあと肩で息をする。中年の汗の臭いがかんにさわるが、そんな内心はおくびにも出さずに、金平の息が整うのを待ってやった。

「いや……申し訳ありません。ええ。もちろん言われた掃除はきちんとやります。しかしですね、念のため確認をさせて頂きたくて」

「確認?何の確認ですか」

 金平はギラついた瞳で訊いてきた。

「警察が支配する、この歪んだ構造を破壊し、私たち政治家の復権に、ご協力頂けると」

「そのことですか。もちろん協力しますよ。ただ、こちらが提示した、今後の研究費を工面していただけるという約束もお忘れなく」

 それにしても、警察が国を動かすほどに力をつけていようとは、彼にとって想定外だった。金平の話を聞く限りでは、これは政治家たちの自業自得――金平は認めないだろうが――に過ぎない。そんな政治家の復権に手を貸すのは、奴らの尻拭いをしているようで良い気はしないが、まあ仕方がない。

 金平は平の言葉に、心底ほっとしたような顔になった。平は今度こそ車に乗り込もうと、運転席のドアに手をかけた。

「あ……申し訳ありません。もうひとつだけ」

 金平が慌てたように、平の背中に声をかける。少しだけイラッとしながらも、彼はすぐ笑顔を作って背後を振り返った。

「まだ何か?」

「これが最後です。私は……私はまた人間に戻れるんですよね?」

 その言葉に、平の作り笑いに、ほんの僅か亀裂が入った。心配そうな金平から視線をそらして、平は声に出さずに愚痴を言った。

(まったく、厄介なことを簡単に言ってくれるよ。これだから素人は……)

 しかし、平は再び笑顔を金平に向けて、当然のように回答した。

「もちろんです。まだ技術は確立されていませんが安心してください。すぐにでもその実現に向けて、研究を始めるつもりです」

「信用していいんですね?」

「そのために、あなたの『人間の躰』を、冷凍保存していることをお忘れなく。ただし、それも全てはこの計画が滞りなく完了した後の話です。いまはお互い、計画の成就だけを考えて、行動しましょう」

「そう……ですね。分かりました」

 金平がようやく引き下がる。平はため息をつくと、運転席に乗り込んだ。金平と話しをするのは苦痛だった。この男とは価値観が違いすぎるのだ。金平は、地位や名声といった世間の評価こそ、自身の価値と考えている。

 だが自分は違う。自身の価値は、世間などではなく、もっと大局的に計るものだ。そして自分にとってのそれは――人間にある。

(人間という種の繁栄。それを促進させることこそが、僕の――価値だ)

 どんなものにも、世界に存在する以上、何かしらの価値がある。金平も。自分も。

 そしてリボットもだ。リボットは、社会や科学技術といった、人間が生きるのに必要不可欠な仕組みや知識を、保守するために存在していた。いわゆる、研究所の屋上に設置されていた、ソーラーパネルを自動メンテナンスする機械と、似たような役目だ。人間が不在の60年間、人間の財産を自動メンテナンスする。それがリボットの価値だった。

 だが平が目覚めたその時点で、リボットのその価値は失効された。だから始末する。新しい価値を持つ存在に、造り替えるためにも。

 まず手始めに、彼女たちを――

 と、ここで平はふと閃いた。先程から引っかかっていた、ひとりの男の存在。その正体に――あるいは可能性に――気がつく。

 平は車の窓を開け、研究所に戻ろうとしている金平に声をかけた。

「すみません。金平さん」

「はい。なんでしょうか。掃除でしたらこれからやるつもりですが……」

「いえ掃除はもう結構です。ちょっとお願いを聞いてもらえませんか?」

「え……ええ。私のできることであれば」

「簡単なことです。ここから逃げ出した……強行課でしたっけ?……そのメガネをかけた男の行方を探して欲しいんです。できれば、生け捕りにしてほしい。いいですか?生け捕りです。決して殺してはいけません」

 金平は怪訝に訊いてくる。

「あの男ですか?何故あの男を?」

「知っている男なんです。いや知っている男かもしれない。兎に角、宜しくお願いします」

「しかし……一体どうやって探せば……」

 平は、自分で考えようとしない金平の態度に苛つきを覚える。それでも金平の機嫌を損ねないよう、彼は優しく助言をしてやる。

「金平さんのおかげで、あの男は車で遠くまで行けません。であれば、彼は車を乗り捨てて、歩いて移動したと思われます。まず彼は、人が集まっている場所を探すでしょう。目的は車の調達と、仲間への連絡手段の確保です。しかし金平さんの話しによれば、この辺りは、人口密度が低く、集落が点在している。であれば、乗り捨てた車から一番近い、恐らく街道沿いの集落に、彼らはいます」

「な……なるほど」

「仮に読み通りでも、彼がまだそこにいるかは賭けになりますが。車も貴重品なんでしょ?簡単には確保できないかもしれません。兎に角、やるだけやってみてください。研究所に残った三体のアダムの試験体も、連れて行って構いませんので、よろしくお願いします」

「……分かりました。やってみましょう」

 集落を見つけた後、どうやって彼らを見つければいいんですか?

 そう言った質問が来るかと覚悟していたが、意外にも金平はそうは言ってこなかった。何か探しだす手立てがあるのか、或いは本気で探すつもりなどないのか。どっちにしろ、平には早急にやるべきことがある。この件は、手の空いている金平に任せるしかないだろう。

「あの……女はどうしましょうか?」

「女?」

 金平の質問に、平は眉根を寄せた。

「そのメガネの男が抱えていた女ですよ。覚えていませんか?」

「あ……ああ。そう言えば、そんな奴もいましたっけ?忘れていましたよ」

「それで、どうしましょう?」

「別に。金平さんの好きにしてください。逃がしても、どうせいつか殺しますから」

「そうですか……」

 金平はそう呟いて黙った。

(こいつ……ほんとうに大丈夫かな)

 心配ではあるが、これ以上、時間を潰すわけにも行かない。平はエンジンをかけると、ゆっくりと車を走らせ始めた。

 

 平の乗った車が走り去っていくのを、金平はじっと眺めていた。

 まったく、何が好きにしてくださいだ。いけ好かない奴だ。自分の半分にも満たない小僧のくせに、偉そうに。

 平が頼んだ男の捜索など、金平にとって興味のないことだ。しかし、平の心証を悪くするのは避けたい。再び人間に戻るために、不本意ながら手を貸してやる必要があるだろう。

 だが悪いことばかりでもなさそうだ。

 女は自分の好きにしろと、平は言った。

 金平は車の中で見た女――先織杏――の躰を思い浮かべて、舌舐めずりをした。

 

 先織はベッドに横たわり会話をしていた。

「皮肉なもんだな」

 彼女はそう言うと、力なく笑った。

「君がゆめだった。そう気づくことで、君にまた会えるなんてな」

 彼女は俯いた顔を上げ、虚空を見つめた。光の宿らない彼女の瞳に、この部屋には存在しない、ひとりの少女が映しだされた。

「凛音」

 彼女がそう言うと、凛音はニッコリと笑った。60年前と同じ、屈託のない笑顔。絶望の淵にいた彼女を、救ってくれた笑顔。この世に再生されてから12年間。ずっと抱き続けてきた想いを、止めどなく吐き出す。

「会いたかった。ずっと……ずっと会いたかった。探してたんだ。君を。探して……警察になったのだって……そのためで……全部……全部君に会うために……会うためだけに……いままで生きてきたんだ。君にまた会えると……そう信じてきたから……いままで生きてこれたんだ。だってそうだろ。私と君は、いつだって一緒にいたんだ。一緒じゃないと駄目なんだ。そうだ。君の部屋だって用意したんだ。そんな広いところじゃないが、夜景はなかなかのもんなんだ。多分気に入ってくれる。君なら、気に入ってくれていた。そう。そのはずだったんだ……」

 声が尻窄みに小さくなっていく。彼女の力のない笑顔は、もはや泣き顔にしか見えない。だが、どんなに胸が苦しくても、彼女にはもう、涙をながすこともできなかった。

「……もうだめだ」

 涙を流すことは、助けを求める心の叫びだ。自身の苦しみを、誰かに気付いてもらうために、人は涙を流す。しかし、彼女は助けなど求めていない。助かりたいなど考えていない。少女のいないこの世界で、生き続けようなどと思わない。だから彼女は、決して泣かない。

「知ってしまっては……だめなんだ。君がいないことに……気付いてしまっては……だめなんだ。そうなれば……すべてこわれてしまうんだ。こわれて……おわってしまうんだ」

 彼女はゆっくりと左手を上げる。

「なあ。凛音」

 

 パリン!

 二階から聞こえた奇妙な物音。春日は前橋と顔を見合わせる。前橋はちらりと天井を見上げて、こう呟いた。

「あれは……お前のツレがいる部屋からだな」

 その言葉に、春日の表情が厳しいものに変わる。診察室を飛び出し、先織のいる病室へと向かって階段を駆け上がった。

 病室に着いた春日が見たもの。それは粉々に割られた窓ガラスと、その破片を血まみれの手で握りしめている、先織の姿だった。

 先織は虚ろな眼をしたまま、その赤い手をゆっくりと自分の首筋に持っていく。鋭利なガラスの破片が、彼女の細い首筋に触れて、赤い血が滲みだす。

「やめろ!」

 春日は床を蹴って先織に近づくと、ガラスの破片を握る彼女の手を、力任せに払いのけた。彼女の手から離れたガラスの破片が壁にあたって、パキンと割れる。

 春日は怒りのこもった眼差しで、先織を睨みつけた。どうしてこんな真似をしようとしたのか。彼はそう彼女に問い詰めようとした。しかし、彼女の表情を見て、彼は言葉を飲み込んだ。ベッドに横たわる彼女の表情には、劇場や研究所で出会った『器』たちのように、僅かな感情すら浮かんではいなかった。

「……どうして……止めるんだ」

 先織は小さくそう呟くと、彼女は急に表情を歪ませる。そして血のにじむ赤い手で、髪を掻きむしり始める。

「杏!」

「ぐ……あ……ああ」

 例の頭痛だ。苦しそうに唸り声を上げて、ベッドの上を、先織が頭を抱えて転がる。躰を曲げて痛みに必死に堪えながらも、彼女はおなじ質問を繰り返した。

「どうして……止めるんだ」

「杏……」

「どうして止めるんだ!彼女は、凛音はもういないんだぞ!何処にもいないんだ!なのに……なのにどうして止めるんだ!」

 先織は突然壊れたように叫びだした。

 涙を流さずに泣き叫んだ。

「凛音がいないとだめなんだよ!私は私でいられなくなる!凛音だけが私のことを分かってくれる!凛音だけが私を理解してくれる!凛音がいると信じていたから、私は生きてこれたんだ!凛音がいないなんて……そんなこと、私は気付きたくなかったんだ!」

 春日は何も言わなかった。何も言うことができなかった。先織の友人に対する想い。彼は今まで、彼女から散々聞かされていた。彼女が友人をどれだけ大切にしているか、彼女が友人にどれだけ依存しているか、彼はよく知っていた。だから、どんな慰めの言葉も彼女には届かない。それが、彼には分かっていた。それが、分かってしまった。だから、声が出なかった。

 先織は呟くように言った。

「死なせてくれ……」

「――ッ」

「再生すれば、今の記憶を忘れることができる。記憶を失うことができる。凛音がいないなんて、そんな真実も……全部……全部なかったことにできる」

 先織の言葉に、春日は凍りついたように、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

「苦しいんだ……辛いんだ……頼むから」

 先織はそう言って沈黙した。

 すると、春日の背後から声が聞こえた。

「うるせえな。下まで聞こえてんぞ」

 前橋だ。彼は部屋に入ると、大股でベッドに近づく。そして手に持った紙袋から、何か取り出すと、それをカチャカチャと、ベッドに取り付け始める。春日が怪訝に見ていると「おい」と、前橋が春日に声をかけた。

「なに黙ってみてんだ。暇なら手伝いやがれ」

「手伝うって……何をですか?」

 前橋は紙袋から出した物を掲げて見せる。

「……ベルト。彼女を拘束するんですか?」

「仕方ねえだろ。突然こんな風に暴れられちゃあ、おちおち昼寝もできねえ。俺が縛り付けるから、この女を押さえつけてろ。おっと、あとついでに手の怪我も見てやるかな」

 

 先織をベッドに縛り付けると、前橋は病室を出て階段を降りていった。春日は暫く病室にいたが、彼女との沈黙に耐えかねて、逃げるように病室から出てしまった。

 階段を一段一段、ゆっくりと下りながら、春日は先織とのやり取りを思い出していた。

 先織杏を再生する。

 先織が言った、自身を救う方法。それは、先ほど春日が思いついた方法と同じものだった。再生されれば、彼女はバックアップを取っていない記憶の全てを失うことができる。彼女の最後の記憶バックアップは、恐らくコルヴォ劇場でストラスと会う直前のものだろう。つまり、彼女が友人の存在を信じて疑わなかった時にまで、彼女の記憶は戻る。それだけではない。再生は彼女の記憶を宿したその躰を――『器』を取り替える作業だ。彼女の頭痛が『器』による不調であれば、その『器』を取り替えることによって、改善するかもしれない。彼女の肉体面と精神面を同時に解決する。やはりどう考えても、この方法が最善策に思える。

 しかし、だがそれでも、彼にはどうしても、それを実行する気にはなれなかった。理屈では分かっている。それが最善だということは。彼女を救うためなら何でもする覚悟だってある。だが言葉に表せない感情が、それを強固に否定する。それが彼女を本質的に救うことだとは、どうしても思えないのだ。

 くだらないこだわりだ。そんな曖昧な理由で、彼女の救う手立てを放棄するなど、馬鹿げている。彼女のことを本当に想うのであれば、自分がいくら納得できなかろうと、彼女にとって最良となる選択をすべきだろう。

 係長のことを思い出す。あの時もそうだ。いつ裸の男が現れるかも分からない状況で、自分は係長の指示に反抗して、立ち止まって声を荒げてしまった。もしも、あの時に裸の男が現れていれば、自分はおろか、先織も殺され、二係は全滅していただろう。

 係長は春日に言った。

「きっと、あなたには私たちが忘れている死の本当の意味を、理解しているんでしょうね。だからこそ、あなたに先織を預けたのよ」

(係長……俺は何も理解できていませんよ。係長たちが犠牲になるのも、先織の再生も、ただなんとなく、嫌だってだけなんです。頭では非効率だと分かっているのに、変に意地を張っているだけで。係長が言うような、大層な意味なんて俺にはないんです)

 春日は陰鬱に表情を曇らせ、呟いた。

「俺はやっぱり……みんなとは違うんだ」

 

 春日が一階に降りると、前橋が電話をしているところであった。先程、前橋に確認したのだが、この電話はこの周辺までしか回線が通っておらず、横岳へは連絡がつかないそうだ。すぐにでも、署に研究所の事を知らせる必要があるのだが、まだ手段は見つかっていない。前橋の車を借りれば、横岳まで行くことは可能だろう。しかし、先織を横岳に連れていくにしろ、ここに置いていくにしろ、先程の彼女の態度を考えると、どちらも難しい。

 彼がそんなことを思案していると、電話を終えた前橋がこちらにやって来た。

「よお。客に言うこっちゃねえんだが、留守番頼まれてくれねえか?」

「どこか出かけられるんですか?」

「急患だとよ。いま電話で受けたのさ。ここいらじゃ救急車も走ってないんでね、その真似事をうちでやってるってわけだ。お前らもそうだったろ?」

 そう言えばそうだった。よく考えれば、個人経営の診療所が、患者を迎えにわざわざ出向くのは、都心では珍しい。

「忙しいんですね。いつもこうですか?」

「いや、いつもは外来で日銭を稼いでる口だ。こう立て続けに客が来るのは珍しいが、そういうこともあるだろう。なんにしろ頼むぜ。別に難しいことじゃない。客が来たら、先生様はもうすぐお帰りになりますって言ってくれりゃ良いのよ。来やしねえと思うけどな」

「分かりました。お気をつけて」

「おう。じゃあ宜しくな」

 前橋はそう言って、バタバタと玄関から外に出て行った。

 

 先織は手足を拘束されて、身動きを取ることができなかった。だが、特に不自由は感じない。自身を殺すのには失敗したが、機会はまた訪れるだろう。焦る必要はない。

 先織は眼をつむり、少女に話しかけた。しかし今度はいくら呼びかけても、凛音の顔はおろか、声すらも聞くことができなかった。

ゆめにすら見捨てられたか)

 彼女は笑った。

 仕方がないことかもしれない。自暴自棄に陥った友人の姿など、凛音も見たくはないだろう。一抹の寂しさは感じてしまうが――

(まあいいさ。どうせ再生されれば全て忘れることだ)

 彼女は投げやりに、そう思った。

 どうでもいいことだ。

 苦しみも。寂しさも。悲しみも。虚しさも。辛さも。悔しさも。憤りも。苛立ちも。

 全てどうでもいいことだ。

 どうなったって構わない。

 気にする必要などない。

 抗う必要などない。

 拒絶する必要などない。

 再生されれば、それら全てが、消えてしまうのだから。

 再生されれば、また凛音のために生きることができる。ゆめとは言え、彼女に会えなくなるのは寂しいが、生きる目的がなくなってしまうよりは、ずっと楽だ。

 ふと、彼女は思う。再生されれば凛音に会えなくなる。それはどうしてだろうか?子供の時には、あれほど頻繁にあっていた少女に、どうしてこれまで、会うことができなかったのだろうか?どうして今になって、彼女は再び姿を現したのだろうか?

 彼女は頭を振った。考える必要などない。どうせ再生されれば、忘れてしまうのだから。

 

 前橋は診療所の前に車を止めた。運転席でタバコを吹かし、苛立ちげに舌打ちをする。

(くそ。無駄足踏ませやがって)

 通報した場所には、誰もいなかったのだ。こういうことは始めてではない。適当な壁に、診療所のポスターを――無断で――貼っているので、誰でもこの診療所の電話番号は調べることができる。もちろん、そうでなければ緊急時に困るわけだが、何が楽しいのか、電話してバックレる輩が、少なからずいる。

 彼は苛つきを沈めるために、タバコを深く吸い込んで、一気に吐き出した。

(診療所にいる客どもに、おっかねえ面見せるわけにも行かねえしな)

 前橋は再び大きく息を吸い込んだ。

 と――

「案内ご苦労だったな」

 突然の轟音。そして天地が逆転する。訳が分からないまま、前橋の意識は闇に落ちた。

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