決戦

第20話 再会

 時刻は21時42分。先織杏はコルヴォ劇場のロビーに入り、周りを見渡した。この劇場には、『器』の違法取引を行う組織、ストラスを逮捕するために、6日前に一度訪れている。少なくとも、先織杏の経歴としては、そう記録されているはずだ。しかし、いまの彼女には、その時の記憶はない。その経歴を体験した先織杏は、彼女の前の先織杏だからだ。そして、前の私は、既に亡くなっている。ストラスによって殺された。ただしその死は、自らがストラスに提案した、作戦であった。

(我ながら馬鹿なことをしたものだな)

 随所に傷跡と血痕が残る、劇場ロビーの床を見つめながら、先織は思った。

 先織杏に好意を示してくれた瀬戸清人。

 先織杏の模範となってくれた大内虎之助。

 先織杏を愛してくれた春日幹也。

 先織杏の憧れであり続けてくれた峯岸舞。

 その仲間たちを、自分は裏切った。

 先織は、二係の情報をストラスにリークした。もちろんそれは、二係の仲間に危険はないと、そう確信した上での行動だ。実際、ストラスの『器』は、二係にとって邪魔でこそあれ、脅威ではなかったはずだ。

 しかし、そんなことは言い訳にはならないだろう。彼らの先織に対する想い。それを踏みにじったことに、変わりはないのだから。

 ズキンッ!

「ぐっ!」

 不意に襲ってきた激しい頭の痛みに、不覚にも声が漏れた。一度回復の兆しを見せていた頭の痛み。それが再び悪化し、彼女の脳髄をギリギリと締め付けるようになっていた。歯を食いしばりながら、頭を両手で抱えて、彼女は痛みが過ぎ去るのをじっと耐える。そんな彼女の背中に、「先織!」と声が掛けられた。彼女の肩に手をおいて、心配そうに顔を覗き込んできたのは、彼女と一緒に劇場に来ていた、春日だった。

「例の頭痛か。そんなに酷いのか……」

「大したこと……ない。ちょっと急だったんで、びっくりしただけだ」

 先織は一度頭を振ると、スッと面を上げ、――先織の前に回りこんだ――春日の姿を視界に収める。春日の格好は、昼と変わらない――これは自分にも言えることだ――が、その右手には、黒塗りの鞘に収まった日本刀が握られていた。ストラスから調達した、春日の新しい武器だ。

 実は、春日が最も得意とする戦闘術は、日本刀を用いた剣術である。一度だけ、彼の剣術の稽古を見させてもらったことがあるのだが、その流れるような身のこなしや、素早い刀の切り返しに、目を見張ったものだ。強行課の任務で彼が刀を使用しないのは、ただ単に持ち運びが不便だという理由だけで、ひとたび刀を握れば、悪鬼の如き戦いを見せてくれると、彼女は期待していた。

 だが先織が期待する悪鬼は、いまは眉間にしわを寄せ、頼りなさげに彼女を見ていた。もっともそれは、彼女を心配する、彼の優しさなのだが。

「大したことないって……また嘘いって……顔が真っ青じゃないか」

(お前もな)

 蒼白で狼狽する春日が面白く、先織はくすりと笑った。

「お前は本当に心配症だな。よくそれで強行課が務まったものだよ。もし峯岸さんがいまの私を見たら、この軟弱者がって言って、喜々として、いじってくるだろうに」

「いくら係長でも、そんな死人に鞭打つような真似は……」

 春日が尻窄みに黙りこむ。あの人ならやりかねないと、思ったのだろう。

「あーあ。なんか話をしていたら、峯岸さんの声、無性に聞きたくなってきたな。峯岸さんと大内、ついでに瀬戸も。彼女たちが再生されたときには、やはり会いたいと思ってしまうよな。例えそれが、前の彼女たちじゃなくても。それでもやっぱり、会いたいよ」

「……そうだね。再生になんでも頼ることは良くないことなんだろうけど、再生された人達に罪があるわけでもないし、その人達に会いたいって思うのは、決して悪いことじゃない気がする。それに、署には、係長やみんなの死亡は報告したんだろ。だったら、もう警察の方で再生の手続きが行われているんじゃないかな。あんな優秀な人材を、死亡したままになんかしないと思うよ」

「そうだ。峯岸さんが再生されたら、彼女の快気祝いでもしないか。峯岸さんの家に酒を持って、ふたりで乗り込むんだ」

「ええ?係長嫌がらないかな?」

「嫌がるだろうな。半分それが目的だし。いままで、散々いじられ続けてきたんだ。たまにはこちらから攻め込んで、峯岸さんの家で好き放題暴れてやろうじゃないか」

「暴れちゃ駄目でしょ。快気祝いにさ」

 意地の悪い笑みを浮かべた先織と、対照的に困ったように笑う春日。二人は暫く見つめ合い、内に宿す決意を共有した。

「絶対生きて帰るぞ。でないと、峯岸さんの嫌がる顔が見れないからな」

「後半はともかく、前半は賛成。生きよう。そして、みんなと会うんだ。いまの俺たちで」

 とその時――

「随分と楽観的じゃないか」

 頭上より突然、声が聞こえた。先織と春日が上を見上げると、吹き抜けの二階、その転落防止用の柵に肘をつき、こちらを見下ろしている人影が見えた。

 独立行政法人・国立研究開発法人情報通信研究機構ニューラルネットワーク研究所。そこで60年間眠り続けていた男。リボットシステムの開発者。そして――人間。

 男は不愉快そうに目を細め、ふたりを見下ろして低い声音で言う。

「なにか策でもあるのかな。それともナメてるだけか?この僕を。人間であるこの僕をだ」

 男は「ふああ…」と、ひとつアクビをすると、目尻に滲んだ涙を指で拭き取った。当たり前だが、男は研究所で見た時――というより、春日から聞いていた話――とは異なり、もう裸ではなかった。上下白の簡素な服装。靴までもが白い。頭をガリガリと掻きながら、男は視線を先織に向けた。

「そっちの娘とは、初めましてかな。どうも平卓です。君たちリボットの、ご主人様ってところかな」

 その言葉に、先織は腕を組み、半眼で男――平を見据えながら言う。

「裸の王様の間違いじゃないか」

「……言うじゃないか。まあ、嫌いじゃないよ。そういう馬鹿は」

「馬鹿はどっちだ。そんなところに隠れて、タイミングを見て登場する当たり、間抜けもいいところじゃないか。なんだそれ。自分の登場を演出しているつもりか。念の為に言うが、格好わるいぞ。果てしなく」

「……お前、口が悪過ぎるな」

 そう言って、平は再びアクビをした。眠そうに頭を振って、背後に親指を立てた。

「……この後ろの部屋で、仮眠を取ってたんだよ。昨日は徹夜しちゃってね。少し休憩をとっていたところに、お前たちが現れたんだ。どうして、ここの場所がわかったのかは知らないけど、まったく、いい迷惑さ」

「それは僥倖だ。あの人間様に不愉快な想いをさせることができたなんて、この悦び、なんとお伝えすれば良いものか。あ、そうだ。こう伝えよう。やーい。ざまあみろ」

 舌を出して、あっかんべーをしてやる。子供くさいおちょくり方だが、自尊心の強いやつほど、こういったやり口に、腹が立つものだ。先織の予想通り、平は頬を引きつらせ、怒りをこらえていた。激高しないのは、リボットごときの言うことに腹をたてるのは、彼のプライドが許さないからなのかもしれない。

「……どうやら、金平は君たちを見つけることができなかったみたいだな。ほんと、役に立たないやつだよ」

 恐らくその言葉は、先織と春日に聞かせるためのものではなかったのだろう。なんの気なしに言った、独り言のようなもの。しかし春日はその言葉に対して、一歩前に進み出た。

「そのことで知りたいことがある。どうしてあいつは、お前に協力したんだ。お前がリボットを支配しようとしているなら、同じリボットの金平だって、他人事じゃないはずだろ」

「答える義務はない……けど、まあいいか。お前たちがどこまで知っているのかは知らないけど、あいつは人間に戻るつもりだったんだよ。あいつの躰は冷凍保存されているからね。それに記憶を移して、人間としていつか復活させてやる約束をしてたんだ」

「そんなことが可能なのか?」

 驚きの声を上げる春日。そんな春日にニヤリと笑い、平が話を続ける。

「いまは不可能だ。いや、ずっと先の未来も、不可能かもしれない。僕たちの凍眠と違って、金平の躰にしたのは、ガチの冷凍保存でね。そっちのほうが、設備が簡単で金もかからない。だけど、人間の躰は60パーセントが水分でできている。冷凍なんかしたら、水分が膨張し、細胞を破壊するのさ。そのまま解凍したって、グズグズの肉の塊にしかならない。それを防いだ上で、記憶を転写する方法なんて、僕には想像もできないな」

「つまり、金平は騙されていたのか」

「騙されたってのは主観的な物言いだな。僕が想像できないだけで、実現する方法はあるかもしれない。限りなくゼロに近い可能性だけどね。僕はその可能性を餌にして、金平を釣り上げただけだよ」

 すると平は、少しだけ二階の柵から身を乗り出して、春日を凝視した。聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、呟く。

「むしろ、僕としては君がここにいるのが以外だよ。リボットのために動く君がね。それとも、やっぱり僕の勘違いだったのかな」

 その言葉の意味が、先織には分からなかった。春日がリボットのために動くことに、どこにそんな疑問に思うことがあるのか。先織は視線を春日に向け、無言で問いかける。すると、彼は頭を振って、小さな声で応えた。

「俺にもわからない。あいつが言うように、たぶん何かと勘違いしてるんだと思うけど」

 春日が嘘を言っているようには見えなかった。しかし、だからといって彼が真実を話している確証もない。彼の横顔をじっと見つめるも、彼はそれっきり黙して、彼女に視線を合わせようとしなかった。それは、人間から注意を外さないよう、警戒しているようにも見えるし、ただバツが悪くて、彼女から目を背けているようにも見える。

 気にはなるが、いまはゆっくりと春日に問いただしている時ではないだろう。先織は疑念を振り払い、平らに視線を戻す。

 平は柵から少し身を引くと、溜息混じりに言ってきた。

「さてと、おしゃべりもこれくらいにしようか。僕にはまだやることがあってね。君たちに構ってる暇はないんだよ。でも君たちを見過ごすこともできない。リボットは殺す。その作業が僕には必要なんだ。だから君たちも、一度死んでもらうよ」

 その言葉に、先織と春日が戦闘態勢を取った。半歩身を引き、僅かに腰を落とす。あらゆる状況に、素早く対処できる構えだ。

 そんな先織と春日を見据えて、平は呆れたように嘆息した。

「まだ分かってないみたいだね。無駄だよ。リボットは人間を攻撃することはできない。君たちは所詮、人間が利用する道具として、造られているんだからね。だから、いい加減無駄な足掻きはやめろよな。めんどくさい」

「面倒でも足掻かせてもらう。人間に支配されるなんて、まっぴらだ」

「あれ?なんで君がそのことを知っているんだ?話した覚えはないけどな」

 平が眉をひそめる。先織はその疑問には応えず、平を睨みつけながら言う。

「すべてのリボットを支配できるなんて本気で考えているのか?確かに人口は60年前に比べれば、大きく減衰している。しかしそれでも、この県だけで10万を超えるリボットがいるんだぞ。お前がひとり、すべてのリボットを殺してまわるなんて、不可能だ」

「本当にそう思うかい?」

 平が不気味な笑みを浮かべる。

「そんなの簡単だよ。リボットを殺すのは、なにも僕じゃなくていいんだ。言っただろ。リボットはただの人間の道具だと。リボットを殺すのはお前たちリボットなんだ」

 バンッ!

 劇場ホールに続く、ロビー奥の両開きの扉。その扉が、突然何の前触れもなく開いた。先織と春日が同時に視線を向ける。その開いた扉から、小さな人影が現れた。

「……子供?」

 春日が怪訝に呟いた。

 子供だ。まだ10代の前半と思しき、幼い男の子。蝶ネクタイに紺のスーツ、グレーの半ズボンと、まるで小学校の卒業式のような格好をしている。少し眼つきが鋭いことを除けば、その少年はごく普通の子供に見えた。

 当惑している春日と先織に、少年は苛立ったちもあらわに、二人に向かって話しかけた。

「……なんで来ちまうのかねえ。おかげで、ムカつくことしなきゃいけねえじゃねえか」

 その少年はスッと腰を落とすと、床を蹴った。バンっと音が聞こえたと同時。少年は春日を、後方に蹴り飛ばしていた。

 

 春日は背中から地面に倒れ込むと、躰を丸めて後転し、膝立ちの姿勢で静止する。少年の蹴りを受け止めた左腕。その腕にはしる強い痺れに、春日は表情を歪ませた。

「――ッ!これは……」

 人間――ましてや子供――の膂力ではない。そして、この力強さには、身に覚えがある。

 強行課に与えられた特別仕様の躰。それを上回る身体能力。これは研究所、そして前橋診療所で出会った『器』のものだ。

 しかし、何かが違う。どこかが決定的に違う。彼は左腕を一振りして、残っていた腕の痺れを振り払った。スッと立ち上がり、少年を鋭く睨みつける。そして唐突に気がついた。

(そう……表情だ)

 卓越した身体能力から、少年が研究所や診療所にいた『器』と、同じ存在ものであることは、疑いようがない。しかし、苛立ちもあらわに春日を睨みつける少年からは、研究所にいた、人間に従うだけの『器』にはない、確立した強い意志が感じられた。

(まさか……人間の記憶を)

 人間の記憶を持つ人工知能AI。それを組み込まれた『器』。つまりこの少年は、先織たちリボットと――同じ存在。

 リボットを殺すのはリボット。

 平はこのことを言っていたのだ。

「わりいケド、手加減はできねえよ。そうされちまってるんだ。だからまあ、お前も覚悟を決めろよな」

 少年はそう言うと、再びこちらに向かって駆けてきた。少年の繰り出す拳を、後退しながらギリギリで躱す。しかし、すぐに少年は体を捻り、脇腹めがけて回し蹴りを放ってきた。腕を畳んでそれを防ぐも、息吐く間もなく、少年が左右の拳を連打してくる。例え一撃でも、少年の攻撃をまともに喰らえば、致命傷になりかねない。必死に躰をさばいて、少年の怒涛の攻撃から身を躱す。しかし、後ずさりに少年の攻撃を避けているため、先織から距離がどんどん離れていく。「チッ」と舌を鳴らすと、少年の顔に向けて反撃の拳を打ち込む。すると、少年はその腕の内側に入り込み、自分の肩をこちらの胸に押し当ててきた。そしてバンッと地面を蹴って、強烈なタックルをしてくる。その衝撃に耐え切れず、後ろに大きく吹き飛ばされた。背中から劇場入口のガラス扉にぶつかり、ガシャンと音を立てて、扉をぶち破る。

 頭に浮かぶ疑問。少年の動きは素人のものではなかった。訓練された、戦闘者のものだ。

 この記憶は、誰のものなのだろう。

 春日は劇場から外にはじき出された。

 

 少年の姿をした『器』が春日に襲いかかるのを、ただ黙って見ている先織ではなかった。素早く拳銃を取り出すと、少年めがけて引金を引こうとした。

 とその瞬間に脳裏によぎった警告。それはまったく根拠のないものだったが、自身の直感を信じて、彼女は後ろに跳んだ。

 カカッ!

 先織が先程まで立っていた場所に、ナイフが二本、音を立てて突き刺さった。彼女は、ナイフが飛んできた方向を大雑把に予測し、視線を投げる。吹き抜け二階。その転落防止用の柵に、10歳前後と思われる、ひとりの少女が腰掛けていた。

 金髪をツインテールにした、碧眼の女の子。まるで舞台衣装のような、黒を基調とした派手なドレスに身を包んでいる。幼くも整ったその顔に、愛らしいほほ笑みを浮かべて、左右の足をプランプランと交互に揺らしている。

 これだけならば、ただ可愛いだけの、無害な少女だと思えただろう。しかし、先織は油断なく構えをとった。地面に突き立てられたナイフ。それと同じものを、少女が右手でくるくると回して、弄んでいたからだ。

 その少女は小さな口を開き、少しだけ舌足らずな声で、先織に話しかけてきた。

「まあ及第点かしら。できれば、ナイフを投げる前に私を撃ち殺せれば最良よね。勘が鋭いのも結構だけど、そんなもの、なんの予告もなく、裏切るものなんだから」

 そう言われて、先織は動揺した。少女の言葉にというより、その雰囲気と話し方が、彼女のよく知っている人物を、彷彿とさせたからだ。6年間彼女をからかい、鍛え上げ、そしていつも気にかけてくれた、憧れの先輩に。

 ズキン!

 頭に強い痛みが走る。視線の先にいる少女の正体。そのひとつの可能性。それを考えようとすると、頭痛が激しさを増していく。あたかも――警鐘のように。

 ズキン!ズキン!

 直感が告げる。この思考の行き着く先には、苦痛しか待っていないことを。すべてを理解したところで、悲しみしか待っていないことを。胸を引き裂くような、つらい現実しか待っていないことを。

 ズキン!ズキン!

 いますぐに考えるのを止めるべきだ。

 知るべきでないことを知る必要などない。

 短慮な結論に満足し事実から目を背ける。

 そして居心地の良いゆめを見続ければいい。

 凛音の時のように――

 ズキン!ズキン!

 だが――

 ズキン!ズキン!

 歯を食いしばり、考える。

 ズキン!ズキン!

 気力で痛みを振り払い、考え続ける。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 人工知能AIを組み込まれた少女の『器』。それは、劇場で見た『器』とはまるで違う、明らかな個性を感じた。

 この少女は人間の記憶を持っている。

 ズキン!ズキン!

 転落防止用の柵に腰掛けた少女。その隣で、笑みを浮かべている男。平は60年眠っていた。この時代に知り合いなど皆無のはずだ。そんな平が選んだ、この少女の記憶。いったい彼は、どんな基準で記憶を選ぶ。

 ズキン!ズキン!ズキン!

 平は言った。リボットを殺すためにリボットを使うと。あのナイフの投てきから考えて、この少女の記憶の持ち主は、間違いなく戦闘訓練を受けている。リボットを殺す目的に造り出されたリボットであれば、高い戦闘力を求められるのは当然だろう。であれば、その目的に適した記憶とはなんだろうか。平にとって、最も都合が良い記憶となんだろうか。

 ズキン!

 平が少女に話しかけている。

「さて、初仕事だ。どれだけ君が使えるものか、見せてもらおうかな」

「はいはい。やりゃあいいんでしょ。やりゃあ。偉そうにしちゃって、まあ」

 ムッとした平を尻目に、少女は柵から腰を下ろし、スッと二階から一階に跳び降りた。高さを感じさせない優雅さで、少女はスタッと降り立つ。右手に持っていた小さいナイフを背後に放り捨てると、少女はおもむろにスカートをめくり、脚のベルトから新しいナイフを二本取り出す。刃渡りの長い細身のナイフ。それを、両手に持ち、逆手に構えた。

「じゃあ、いくわよ。なんだか調子悪そうだけど、私の意志はいま、人間に支配されている。手加減はできないわ。いままであなたに教えたことを思い出して、私を退けてみなさい。いいわね」

 先織は震える手を頭から離し、少女に向かって泣きそうな声で言った。

「分かりました……峯岸さん」

 その言葉に、少女――峯岸舞は微笑んだ。

 

 劇場の外に弾き飛ばされた春日は、もんどり打って倒れた。衝撃で息がつまり、視界が揺れる。痛みをこらえて躰を起こすと、彼の前に表情を歪めた少年が立っていた。

「どうして、来ちまったんだよ。お前。先織と一緒に、逃げちまえばよかったのによ」

 春日は気がついた。少年は春日に怒っているわけではない。どうにもできない自分自身に、少年は憤怒しているのだ。そしてようやく、この少年が何者なのか、春日は分かった。

 春日は肩で息をしながら、ゆっくりと立ち上がった。そして少年に、謝罪する。

「……すまない。瀬戸。俺には彼女を止められなかった。だからせめて、彼女を護るために、俺はここに来たんだ」

 春日は抜刀した。鞘を地面に落として、両手で刀を構える。その姿を見て、少年――瀬戸清人は挑戦的に笑った。

「そうかい。なら俺を殺してみろよ!」

 バンッと地面を蹴って、瀬戸がこちらに突進してくる。すかさず上段の構えから、瀬戸の正中線をなぞるように、高速に刀を振り下ろす。直線的に勢いのついた瀬戸には、容易に躱せない太刀筋。のはずだが、瀬戸は軽々と躰を回転させ、それを回避した。

 これほど急激な方向転換は、筋肉に過大な負荷がかかり、通常は靭帯を痛める。しかし、強化された『器』はそれに耐え、あまつさえ、即座に攻撃に転じることを可能とした。

 瀬戸が腰だめに構えた拳を打ち込んでくる。反射的に躱そうとする躰を押しとどめ、瀬戸の左脇腹から右肩口にかけて、刀を疾走らせた。相打ち覚悟のカウンター。だが瀬戸は拳を急停止して、こちらの刃を屈んで躱した。正拳突きはフェイク。隙だらけのこちらの鳩尾めがけて、瀬戸が本命の拳を突き出す。

 咄嗟に脚を振り上げ、瀬戸の拳を蹴り上げた。狙いの逸れた拳が、脇腹をかすめて通り過ぎる。その瞬間、激痛が走った。直撃でなくとも、脇腹の肉をえぐられたような衝撃。その痛みに歯を食いしばって耐えると、素早く躰を回転させる。そして、瀬戸の首筋めがけ、左から右に水平に刀を振りぬく。

 だが瀬戸はそれより早く、こちらの背後に移動していた。そして刀を振り切った瞬間、瀬戸の強烈な肘鉄が、背中に叩き込まれる。

 直撃ならば背骨が砕けていただろう。しかし、咄嗟に前方に身を投げだすことで、背中への衝撃を多少なりとも和らげた。

 瀬戸はもともと超接近戦を得意とする体術家だ。そのうえ、小柄な少年の躰は小回りがきき、容易に懐に潜り込まれる。接近戦は分が悪い。刀のリーチを活かした距離で、戦いをするべきだ。

 躰を丸めて地面を転がり、瀬戸との距離を取る。二、三転したあと素早く背後を振り返り、距離を確認する。この距離は自分の距離だ。瀬戸が再びこちらに近づく前に、刀を構え攻撃に転じようとする。

 と突然閃く。瀬戸の戦い方は、強行課の任務で散々眼にしてきた。彼は接近戦を好む。では中距離、あるいは長距離からの攻撃に、彼はどう対処していたのか。

 咄嗟に身をかがめる。ビシっと地面に小さな穴が穿かれ、半秒遅れてパンっと空気の弾ける音が聞こえてきた。長距離射撃。

 そうだ。瀬戸にはいつも、彼をサポートする仲間がいた。瀬戸の野性的な動きを予測して、間隙をぬって銃弾を打ち込める、凄腕のスナイパー。二係を統率する人格者であり、経験豊富な老兵――

 大内虎之助。

 

(躱したか。さすがだな春日)

 しかし、何度もこう上手くはいくまい。彼は優秀な戦士ではあるが、瀬戸と自分を同時に相手取り、いつまでも攻撃を捌くことは不可能に近い。早急に春日が、この状況を打破する手立てを考えつかなければ、本当に自分は彼を殺してしまうだろう。

 固定した狙撃銃から空薬莢を排出し、新しい銃弾を装填する。昨日調達したこの狙撃銃の癖は、いまの一撃で大方つかむことができた。スコープを覗きながら、弾道のズレを微調整し、標的に狙いを定める。息を止め、集中力を高める。はずだったのだが――

(それにしても、納得できん)

 いまの自分には研究所での記憶はない。そのため、研究所での出来事は、あくまで平から聞いた限りでしか、把握していない。

 何にしろ、自分たちの躰は研究所での『器』を再利用しているらしい。峯岸によって屠られた『器』の中で、比較的軽傷の、かつ持ち運びやすい子供を、自分たちの『器』として、平が選んだようだ。そして服は、劇場の倉庫にあった舞台衣装を拝借している。それも平が選んだものだ。そのため、以前の自分とは異なる姿形になることは、ある程度は仕方がないことなのだろう。しかし――

(納得できん)

 峯岸は可愛らしい女の子にドレス。彼女らしくはないが、これは分かる。瀬戸は眼つきの悪い少年に七五三のような格好。本人は不服だろうが、これも許容範囲だ。それなのに――

(なぜだ……)

 大内は自身の躰を意識した。

 栗色の短髪。栗色の大きな瞳。少し尖った唇。子供特有の丸い輪郭。線の細い引き締まった腕や脚。そして、大きく膨らんだ丸みのある胸。大内は苦々しげに思う。

(なぜ……女の躰なんだ)

 しかも白のブラウスに胸元に大きな赤いリボン。ミニスカートにニーソックスと、およそ自分らしからぬ――むしろ嫌悪の対象となる――格好をさせられている。

 平がこの服を選んだ時、彼はこう言った。

「君にはペナルティを与える。僕を最初に撃ち殺そうとしたわけだからね」

 不公平だ。記憶はないが、峯岸だって平を殺そうとしたはず。それなのに、峯岸は自分の衣装を、自分で選んでいた。しかも喜々として。まあ、どんな状況でも、楽しめる所は楽しむのが彼女の流儀なので、そこに文句を言うつもりは毛頭ない。ないのだが――

(クソ……集中できん)

 無駄にでかい胸が邪魔だ。動く度にひらひらと揺れるスカートが気色悪い。リボンが狙撃銃の部品に引っかかる。ええい。いっそ裸でやるべきか。

 鉄面皮の大内虎之助。そんな彼が苛立ちも露わに顔を歪める。しかしそこには、不機嫌に頬をふくらませる、愛らしい少女の姿しかなかった。

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