人間

第13話 平卓

 パンッ!

 水風船が弾けるような音がした。

 峯岸は反射的に、音のした方向に目を向ける。するとそこには、糸が切れた人形のように、崩れ落ちる人影が見えた。

 瀬戸清人。

 彼は受け身を取ることもなく、頭から地面に激突した。その頭部から、おびただしいほどの血が流れ出る。彼の後頭部に空いた、直径1センチほどの丸い穴。弾痕。

 瀬戸が射殺された。

 突然のことに反応が遅れる。自分に向けられた殺意にコンマ何秒か対応が遅れる。彼の声が聞こえていなければ。

「峯岸!」

 大内の声。彼の警告。峯岸は躰をひねって、自分に向けられた殺意から、身を躱す。

 パンッ!

 冗談のような軽い音。だが殺意のこもった音が、峯岸の耳を掠めて通過した。音を認識できたのであれば、自分はまだ絶命していない。峯岸は殺意の出処に、鋭い視線を向けた。

 そこに小型拳銃を構えた金平が立っていた。

 金平は憎々しげに舌を鳴らすと、拳銃でこちらを威嚇したまま、部屋の中心まで歩く。そして醜い顔を歪めて、大声で笑い出した。

「ハハハハハハ!バカどもが!まんまと思惑通り動いてくれたものよ!」

 金平は笑った。

 楽しそうに。愉しそうに。笑った。

「これだから警官というものは、頭のなかが空っぽのグズなんだ。そんなグズが人の上に立とうなんて、私の上に立とうなんて、おこがましいにも程があるわ。だがこの屈辱の日々も今日で終わりだ。人の世があるべき姿に戻るのだ!ハハハハハハハハ!」

 峯岸と大内は素早く拳銃を引き抜く。峯岸は金平に向けて、大内は柱から現れた謎の男に向けて、拳銃を構える。部屋に響いていた金平の哄笑がピタリと止まった。

 峯岸は、ドスの利いた怒りの声を絞りだす。

「クソガエルが。こんなことだろうとは思っていたけど、部下を殺されたのは痛恨だったわ。いますぐに撃ち殺してやりたいけど、釈明する時間ぐらいくれてやるわ。まずはその素人まるわかりの拳銃を捨てなさい」

 峯岸の要求に、存外素直に金平は従った。拳銃をゆっくりと床に置き、足で蹴ってこちらに拳銃を滑らせる。その拳銃を慎重に拾い上げながら、峯岸は油断なく金平を見据える。拳銃を放棄しておきながらも、彼の態度は控えめに見ても、こちらに屈服している様子は見られない。自分に向けられた殺意のこもった銃口を、ニヤニヤと眺めているだけだ。

 峯岸は慎重に問い質した。

「答えなさい。こんなことした理由はなに?」

 金平はあっさりと答えた。

「憂さ晴らしです」

「なに?」

「警察が政治を不当に掌握してからというもの、この国の連中は国会議員であるこの私を、ぞんざいに扱ってきました。無能なクズどもに無能扱いされる。これはストレスですよ。だから、あの男を使って憂さ晴らしをさせてもらいました。あの男は、いちいち私の言うことに突っかかってきましたからね」

 金平の答えに、峯岸は静かに殺意をとがらせた。拳銃を握る手に力を込めて、いつでも金平に風穴を開ける準備を整える。

「随分とユニークな答えね。でも気持ちもわかるわ。ストレスってのは躰に溜め込んでおくのは毒だものね。捌け口を見つけるのは大事よ。ところで、私もいま非常に高ストレスに晒されているわけだけど、効果的な憂さ晴らしの方法って、知りたいと思わない?」

 グッと引金を握る指に力を込める。

(本当に殺しちゃおうかしら)

 金平には訊くべきことがあるが構うものか。再生した後にゆっくり訊き出せばいい。

 峯岸がそう考えた、その時――

「あのさ、僕のこと無視しないでもらえる?」

 緊張感の欠如した声が聞こえた。声の主は、柱の中から現れた男だ。男は不愉快そうに顔を歪め、こちらのやり取りを眺めていた。

 まだ若い。恐らく20代の後半ぐらいだろう。長めの黒髪。前髪の奥から覗く鋭い眼。緑色の液体で濡れた躰。そして全裸。

 男の、枯れ木のような痩せ細った躰からは、大した危険は感じられない。だがこの男の出現から、金平の態度が急変したのだ。得体のしれない雰囲気を身にまとったこの男が、金平の狂行を説明する重要なファクターであることは間違いないだろう。

 大内が静かな声で、端的に男に問うた。

「何者だ?」

たいらたく。名前を聞いているならね。そうじゃないなら、もう答えは言っただろ?」

 男――平卓――は、目を細め笑った。

「人間だよ」

 大内が沈黙する。平の返答の意図を考えているのだろう。だが納得のいく答えが見つからなかったのか、彼の鉄面皮が僅かに歪んだ。

「言葉遊びのつもりか?そんなことは見ればわかる。我々と同じ人間。つまらない冗談で、俺の気分を損ねないほうが身のためだぞ」

「君たちと同じ?」

 平が困ったように頭を振る。

「一緒にしないでもらいたいな」

 峯岸は頭のなかで、平の言葉を反芻した。平は自身を人間と言った。それ自体は、驚くべきことではない。見た通りだ。ただの人間。自分たちと同じ。しかし、男はそれを否定した。一緒にするなと。どういう意味だろうか。

「それに、身のためという言葉はいただけないな。まるで君たちが僕をどうにかできてしまうみたいじゃないか」

 平がからかうような口調で言う。

 大内に銃口を向けられたこの状況で、男の発言は明らかに危険な挑発だった。そして大内は、そういった挑発を好むタイプではない。

 パンッ!

 大内は警告なく発砲した。恐らく、致命傷を避けた一発だったのだろう。男の記憶のバックアップの有無が不明なこの状況で、男を殺してしまうような愚行を、彼が犯すはずはない。もっとも、これは全て峯岸の予想でしかない。そして彼女が、予想でしか大内の行動を語れない理由は簡単だ。

 弾丸が男に当たらなかったからだ。かすりもしない。全く見当違いの方向に、大内の弾丸は外れていった。

 大内が驚愕する。峯岸も同じだ。大内の射撃の腕は、強行課のなかでも突出している。10メートル前後の距離、さらに使い慣れた自身の拳銃で、動かない標的を外すことなど、彼に限って絶対にありえないことだった。

「どうしたのかな。かすりもしないじゃないか。それとも、あたりもしない銃弾に、僕は怯えて震えなきゃいけなかったかな?」

 平が大内を再び挑発してみせた。そして男は両手を広げ、自分という的を大きくする。

「さあ、どうぞ。今度は外さないように、しっかりと狙って――」

 パンッ!パンッ!

 大内が二発の弾丸を平に向け放つ。しかし先程同様に全て見当違いの方向に逸れてしまう。大内が威嚇のために敢えて外しているわけでないことは、彼の歯噛みした表情から容易に推測できた。もはや疑いようはない。男はなんらかの方法で、大内の弾丸を躱している。だが、その方法が検討もつかない。

「おいおい。人の話は最後まで聞きなよ」

 自身の絶対の優位性を確信しているかのように、平は大内を嘲笑した。

「滑稽なことだね。無駄なんだよ。君たちは僕を傷つけることはできない。決してね」

 平が意味深なことを言ってくる。この男はさっきから敢えて確信を話さず、思わせぶりなことだけを言って、こちらの反応を愉しんでいる。そんな男の悪趣味な思惑に、峯岸は舌打ちをする。峯岸は構えた拳銃で金平を牽制しながら、厳しい口調で男に詰問した。

「回りくどい言い回しは、止めてもらえないかしら。ガキじゃあるまいし。頭悪いって思われるわよ。単刀直入。簡明直截に答えてくれない。あんた何者?」

 平はその表情に薄い笑みを貼り付けたまま、肩をすくめて言う。

「やれやれ、しつこいな。だから人間だってば。これ以上明瞭な答えがあるか?」

「じゃあ、それはもういいわ。それで、その人間さんが、こんなところで何してたわけ?」

「眠ってた」

 その答えに、峯岸は鋭く平を睨みつける。

「まともに答える気はないみたいね」

「心外だな。そっちが簡潔にって言ったから、そう答えてやってるのに」

「黙りなさい!いい加減こっちも我慢の限界があるわよ!あんたは何なの!金平とはグルなんでしょ!リボットシステムの欠陥だなんてデタラメこいて、いったい何を企んでるの!」

「君たちを皆殺しにする」

 平のあっさりとした物言いに、峯岸は、一瞬、その言葉の意味が分からなかった。呆けた表情で眼を丸くする彼女を見て、平は笑みを濃くしていった。

「取り敢えずは――ね。何その顔。君が言ったんだぜ。単刀直入。簡明直截だったろ。君たちを皆殺しにする。正確には君たちも――だ。僕はね、この日本に巣食っている連中を、全員ぶち殺してやろうと思ってるのさ」

 いったい、この男は何を言っているのか。冗談にしても、スケールが大きすぎて現実味がなさすぎる。そしてそれを、まったく冗談に思えない口調で語ってくる。

「……何の為に?」

 峯岸の消え入りそうな声で、放った問いかけ。平はまたしても、簡潔にそれに答えた。

「人類の為だ」

 その答えに、峯岸は息を呑んだ。

 冷静に判断するならば、男は狂っているのだろう。人類のために人間を皆殺しにすると言っているのだから。もはや支離滅裂だ。狂人とまともな会話など、望めるべくもない。さっさと話を打ち切り、金平もろとも、この男を拘束してしまうのが、ベストな選択だ。

 しかし、峯岸は単純にそう割り切れなかった。平の言動は、まさに狂人のそれだ。しかし、こちらを睥睨する男の眼には、深い知識からのみ得られる、確かな自信が満ちていた。狂った人間には、そんな眼などできない。

 この平という男は、狂ってなどいない。

 その確信が、峯岸の背筋を粟立たせる。この男は正常だ。まともな思考で、人間を皆殺しにすることが、できると考えている。皆殺しにすることが、人類のためだと思っている。それが、何よりも峯岸を戦慄させた。

 平がおもむろに一歩、こちらに向かって踏み出す。それに峯岸は過敏に反応した。

「動くな!」

 峯岸は構えた拳銃を、金平から平のほうに素早く向け直した。平との距離は10メートル強。決して撃ち損じない距離だ。昂ぶりを抑え、呼吸を止める。筋肉の微細な震えをも制御し、銃口を空間に縫い止める。標的に向かって、意識が集約されていく。引金を引く直前に覚える超感覚。これから放つであろう弾道が、空間に軌跡として知覚される。そしてその軌跡は間違いなく、平の心臓を正面から射抜いていた。そのはずなのに――

 峯岸は分かってしまった。

 この銃弾は当たらない。

 漠然とした予感。だが確信めいた実感。それを彼女は感じた。長年の戦闘訓練によって培われた技術、経験、直感、それらが、眼の前の標的を射抜くうえで最適と判断した構えを、位置を、角度を、彼女自身が信用できずにいる。自身の躰と意識に乖離がある。

 自分の中で、何かが狂っている。

 平は拳銃を向けられても、大内の時と同様に、慌てる様子など微塵も見せなかった。それどころか、こちらの動揺を見て取ったのか、ますます笑みを深くする。そして余裕のある物腰でまた一歩、こちらに近づいてきた。その時――

 ガンッ!

 部屋の奥にある扉が、急に音を立ててはじけ飛んだ。そして奥の部屋から飛び出した人物が、峯岸に向かって声を上げた。

「係長!」


 春日は扉を蹴破ると、先織を腕に抱えて係長と大内に駆けて行った。

「春日!」

 係長が驚いた顔で春日を見る。

「すみません!部屋を出るなって命令されていたんですが、係長の声が聞こえたので」

「先織は?」

「まだ眼を……てあれ?そう言えば瀬戸は?」

 いつもこんな時に騒がしい瀬戸の声が聞こえないことに、春日は疑問を感じた。そしてふと足元に視線をやる。そこには、頭を撃ち抜かれ絶命している瀬戸がいた。

「瀬戸……係長!一体何があったんですか?」

「悪いけど説明できそうにないわ。兎に角、前の二人を警戒しなさい」

 春日は言われた通りに、係長と大内の視線の先を追う。そこにいたのは、元国会議員の金平。この建物に入ったばかりの時と態度が違う。腰の低い胡散臭い小悪党から、横柄な小悪党に。そしてその隣には、見たこともない裸の男が眼を丸くしてこちらを見ていた。

「……なんで格納室から動く『器』が出てきてんだ?いや、あの顔……」

 そう呟く裸の男を見て、春日は怪訝に眉をひそめる。男がなぜ裸なのかは疑問だが、特に危険な人物には見えなかった。むしろ、その筋肉の少ない細身の躰など弱々しさすら感じる。裸の躰に武器を隠し持てるわけもなく、どうして係長がこの男を警戒しているのか、春日には理解することができなかった。

 しかし係長は、いままで春日が見たこともないほど緊張した面持ちで、男のことを凝視している。彼女は――ほんの僅かでも男から視線を外すのは危険だとばかりに――春日を一瞥もせず問うてきた。

「春日。あなたは躰に怪我とかしてないの?」

「え?ええ。大丈夫です」

「呆れた。あんた天井が抜けて真っ逆さまに落ちたのよ?頑丈なことね」

 係長が笑顔を見せるも、口の端が僅かに引きつっているのを、春日は見逃さなかった。

「なんにしろ、無事なら結構。あの全裸の男から決して眼を離さないで。まあ眼を離したくなるもん、股にぶら下げちゃってるけどさ」

「……何者なんですかあの男。瀬戸を殺したのはあいつなんですか?」

「瀬戸を殺ったのは、あのクソガエルよ」

「じゃあ……」

「人間様だそうよ。あいつが言うには」

 係長は真面目に答えたつもりはないのだろう。だがその言葉に、春日は凍りついた。

「え?」

「フザけた奴よ。でも油断しないで。何故か銃弾は当たらないし、なんて言うか、妙な雰囲気を持っている。そしてそんな奴がいま、私達を殺すと宣言している」

 その言葉を、裸の男は首を振って訂正する。

「正確に言えば――君たちも殺す――だ。世界中にいる君たちの仲間を、一度皆殺しにする必要があるんだ。それにしても、君も運が悪いね。あのまま隠れてれば、もしかしたら気付かれなかったかもしれないのにさ」

 男は静かに歩を進め始める。男の動きには警戒や躊躇といった要素は一切見当たらなかった。絶対的な勝利の確信。男の態度からは確かにそれが感じられた。武器を持った三人を相手に、丸腰の男が――だ。しかし、それが男の奢りではないことは、係長や大内の緊迫した表情から容易に知れた。

 係長が後退する。強行課でも随一の戦闘者である彼女が、武器も持たない男に気圧されたのだ。苦悩に満ちたその表情は、彼女の隠しようのない畏れを雄弁に物語っている。少なくとも、春日にはそう見えていた。

 だがそれは、春日の早とちりだった。

「悪い瀬戸。次再生するときは身長を高くしてもらえるよう頼んどくから許してね」

 そう呟くと、係長は眼にも止まらぬ早さで背後の瀬戸を抱え上げ、一息に前方に向かってそれを投げつけた。いくら瀬戸の躰が小柄とはいえ、特別製の『器』を持つ強行課ならではの豪快な暴挙に、春日は眼が点になる。ぐにゃりと力なく空中を舞う瀬戸の躰が、裸の男の真上に達すると、係長が吠えた。

「大内!」

 大内は瀬戸に向け拳銃を構えている。何をするつもりなのか。そして気がつく。投げつけられた瀬戸のベルトに挟まったもの。それは、火を点けられた係長のライター。春日は咄嗟に、先織の上に覆いかぶさり、その場に伏せる。と同時に、銃声が聞こえ――

 ドガァアアアアアアアアアン!

 大内の撃った弾丸がライターを直撃し、ライターの可燃性ガスが発火。その炎が瀬戸の所持していた爆薬に引火し、凄まじい大爆発が起こる。瞬間的な空気の膨張により生じた衝撃波に、春日は一瞬にして聴覚を失い、絞られた肺から空気が抜け、一時的な酸欠に陥った。荒れ狂う熱風が肌をジリジリと焼き、噴き出す汗が瞬時に蒸発する。部屋全体がズシンと振動した直後、爆発を起点に天井に無数の亀裂が入り、轟音を立て天井が崩落。

 その崩落した天井が、裸の男に向かって落下していく。

「なに!」

 裸の男が驚愕に目を見開く。男は逃る間もなく、崩落した天井に押しつぶされた。大量の土煙が周囲に舞い上がる。

 ようやく爆発による衝撃が収まり始めると、春日はむせ返りながらも必死に肺を動かし、呼吸を再開する。彼は薄く眼を開けて周囲を確認しようとした時、声が聞こえてきた。

「やったの?」

「さあな。だが無傷では済まい」

 係長と大内だ。二人は裸の男を探して、もうもうと立ち込める土煙の奥を見据えていた。春日は、腕の中で眠る先織の無事を確認すると、涙の滲んだ眼で二人の仲間を睨みつけ、全力で抗議の声を上げた。

「やるならやるって言ってくださいよ!」

「言ったら不意をつけないじゃない。ねえ」

「うむ。正論だ」

 絶対正論じゃない。だが、不意をつくという意味ならば――認めたくはないが――確かにこれは効果的だった。いくら死体とは言え、部下を爆弾代わりに放り投げる上司がいるなど、敵は想像すらしていまい。というより、自分も想像すらしていなかった。まあ、瀬戸が生きていれば、どんな窮地に陥っても、係長もあんな無茶はしなかっただろうが……

(ここが杏と係長の違いなんだろうな)

 先織の無茶は、直感に頼ったものが多い。それが思いがけずに、良い結果を招くときもあるが、もちろんその逆もある。対して係長の無茶は冷静に計算されたものだ。望む結果を得るために行う、常識を排した的確な無茶。

 それは、いままで幾度となく、二係の危機を救ってきた。しかし、今回ばかりは事情が違う。春日は係長に小声で言った。

「係長、すぐに逃げましょう。今なら逃げきれるかもしれない」

 その言葉に、係長が怪訝に訊いてくる。

「どうしたのよ。仕留められないにしても、多少の手傷は追わせたはず。寧ろいまこそ攻め入る隙があるってもんでしょ?」

「いえ……」春日は苦々しく言う。「恐らく、奴は無傷です」

「あの状況で無傷などありえない」

 大内の断定に、春日はしどろもどろになりながらも、必死に反論した。

「無傷なんです。多分……俺達には、男の至近距離で爆発させたつもりで……実は結構な距離があったんだと思います。天井の崩落も、男が潰されるぐらい近く見えてましたが、怪我しない程度に離れていたんだと……」

「ちょっと春日、さっきからなにを言ってるの?もっと分かるように言いなさい」

「兎に角、俺たちはあの男に危害を加えることはできないんです。どんな手段を使おうと、男に傷ひとつ負わすこともできない。どんな上手くやっても、結局騙されてしまう」

「騙すって誰に誰が騙されるってのよ」

「自分が自分にです」

 春日の言葉は、係長からすれば意味不明だろう。全く論理立った説明になっていない。それを理解しつつも、彼は可能な限り切迫した口調で、二人の説得を続ける。

「時間がありません。煙がはれて男に見つかれば、もう逃げられない。説明は後でします。今は俺の言うことを聞いてください」

 係長の怪訝な表情を見る限り、彼女は春日の言葉に納得できていないのだろう。大内も同じだ。だがいまは、こうとしか言えない。あとは彼女が、どう判断するかに任せた。

 暫くして、係長は静かに呟いた。

「危害は加えられない……あの平って男もそんなようなこと言っていたわね」

 そして係長は、部下たちに命令を下す。

「撤退するわよ。春日。あなたには後でこの事を説明してもらうからね」

「はい」

 決断後の行動は迅速だった。係長と大内、そして先織を抱えた春日の三人は、半壊した地下室を足早に後にした。

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