第14話 逃亡

「くそ……ゴホゴホ……煙たいな」

 平は土煙を手で払いながら、死体を爆発させた、スーツ姿の女を思い返していた。

(やってくれる。幾ら怪我することはないって頭では分かっていても、肝を冷やしたよ)

 目覚めたばかりで、躰中が緑の養水でベトベトになっている。そこに土煙が覆いかぶさったことで細かい砂やらが躰に付着し、全身がザラザラとなんとも気持ちが悪い。この自分に、こんな不愉快な思いをさせただけでも上等だ。彼は不意に笑いがこみ上げてきた。

(面白い女だな。気に入ったよ)

 煙が晴れてくる。ふと横を見ると、衆議院議員の金平が、目を回して気絶していた。

 当初の予定では、この研究室に来るのは金平ひとりだけのはずだ。それがどういう経緯で、あんな野蛮な連中を連れてくることになったのか、一度話を聞いておく必要があるだろう。もっとも、自分にとって脅威ということはなかったし、いつかは殺しておかなければならない連中だ。特に計画に支障があるわけではなかった。考えようによっては、利用する駒を、探す手間が省けたとも言える。

 晴れた煙の奥に、例の女の影が見えない。どうやら、この機に乗じて逃げ出したらしい。

(もっとも、黙って逃がす気はないが)

 と気付く。全員が逃げ出したと思っていたのだが、煙のむこうに大柄の人影が見えた。拳銃を構えたその人物は、確か――

「大内……だったっけ。どうして君は逃げ出さなかったのかな?」

「二係のしんがりは俺の役目だ」

 男はそれきり口を開こうとしない。平は「つまり……」と前置きをして言う。

「仲間が逃げるまでの時間稼ぎってことか。泣かせてくれる。自身を犠牲にして他人を助ける。とても人間らしい、素晴らしい行動だよ。ただ――」

 平は裂けるような笑みを浮かべた。

「君たちが人間の真似事なんて生意気だな」

 

「ちょ……係長!大内さんがいません!」

 地上に戻るための階段を駆け上がりながら、春日は係長に言った。一緒に部屋を出たはずの大内の姿が、いつの間にか消えている。彼に限って、逃げ遅れているなどとは考え難い。そうなると、答えは限られてくる。

 春日は咄嗟に踵を返す。そこに、係長の厳しい声がかけられた。

「春日どこに行くつもりなの!撤退するって言ったでしょ!命令を聞きなさい!」

「でも係長!大内さんが……」

「黙りなさい!」

 係長がピシャリと言う。

「大内の勝手な行動は、私だって気に入らないわよ!だからって、ここで部屋に戻ってどうするつもりよ!水臭えぞって爽やかに決めて、みんな仲良く全滅するつもり?」

 係長はそう言うと、春日に背を向けて地上に続く階段を一段上がった。

「……私たちはリボットシステムで死ぬことはない。でもここで私たちが全滅すれば、ここでの出来事を記憶として引き継ぐ人間が、誰もいなくなってしまう。大内の行動の意味、理解しなさい」

 そして係長は階段を再び上り始めた。春日は腕に抱えた先織の顔を見つめる。顔色が悪く汗がひどい。いま自分が地下室に戻れば、彼女も危険に晒す事になる。彼は歯噛みしながら、係長に続いて階段を再び駆け上がった。

 階段を登り切りロビーに出る。春日はそのまま出口まで走りぬけようと、足を一歩前に出しかけた。すると「待って」と、係長が肩を掴んで、春日を制止した。

 係長が春日を止めた理由。それはすぐに判明した。研究所に侵入してすぐに、春日と先織が落下した穴。その穴を通って、人影が地下からロビーに跳びだしてきたのだ。

「な……」

 春日が驚きの声を上げる。穴から姿を現したのは30代後半と思しき男性だった。薄手の白い布切れを身にまとい、お面のような無感情な表情で、こちらを見てくる。

 それだけではなかった。その男を皮切りに、穴からロビーへと、次々と人影が跳びだしてきた。人影の中には、女性や子供までいる。あっという間に、地下から現れた数十人の人間で、ロビーが埋め尽くされる。

「なによこいつら。こんな廃墟となった研究室に、なんでこんだけの人間がいるのよ」

 係長が歯噛みしながら口にした疑問に、春日は静かに答えた。

「人間じゃありません。人工知能AIを埋め込んだ『器』。アダムプロジェクトの試験体です」

「アダム……確か人工汎用知能AGIの?」

 係長は眉をひそめ、春日の言葉を確認する。春日はコクリを頷いて、話を続ける。

「ええ。実は地下室で偶然見つけてたんです。数は――正確には分かりませんが――百体近くはあったと思います。その時は停止していたんですが、地下にいた裸の男の意志に連動して、動き出したのかもしれません」

 係長は舌打ちをして、忌々しげに呟く。

「劇場であんた達が血祭りにした、『器』と原理は同じってことね。意志のない人形。まったく、急いでるってのに面倒な……」

 そして係長はスーツの懐からナイフと拳銃を取り出すと、腰を低くして前傾姿勢になった。彼女の戦闘態勢だ。

「全裸野郎の意志ってことは、こいつらは私達を逃がさないように、ここに跳びだしてきたってことよね。上等じゃない。春日!正面突破するわよ!あんたは私の後を遅れずついてきなさい!先織落とすんじゃないわよ」

 係長は『器』の集団に向かって、躊躇なく駆け出した。春日も言われた通り、彼女の後ろをピッタリとくっつくように走りだす。そしてそれと同時に、『器』たちがこちらに向かって、四方八方から襲いかかってきた。

 この状況は、コルヴォ劇場での任務と酷似している。しかし恐らく事態はその時より、遥かに深刻だ。この『器』たちは、地下からロビーまで、5メートル以上はある高さを、いとも簡単に跳躍してきたのだ。そのような芸当、いくら強行課の躰が常人より強化されているとはいえ、容易にできるものではない。恐らく、この『器』たちの身体能力は先織たちと同等か、或いは匹敵するだろう。劇場の時よりも『器』の数が少ないとはいえ、先織を抱え、手が塞がれた春日を守りながら、この『器』たちの包囲網を、ひとりで戦って突破するなど、普通できることではない。

 ただ彼女は普通ではなかった。

 春日が思考を巡らしている間に、係長は既に六体の『器』をバラバラにしていた。空中に飛び散る『器』たちの血しぶき。それを真正面から浴びながら、彼女は次々と襲いかかる『器』たちの攻撃を、態勢が崩れないギリギリの範囲内で躱す。そしてそのまま、敵の懐に入り込み、『器』を複数体まとめて切り刻む。分解された『器』の部品。それが地面に落ちきる前に、係長は次の標的に接近。さらにもう一体の『器』の首をねる。

 まるで魔法のようだ。

 春日は思う。係長が接近しただけで、標的の腕や足、胴や首がひとりでに千切れ飛んでいるように見えたからだ。もちろん、これは彼が知覚するより速く、彼女がナイフで斬っているに過ぎない。だが、春日とて強行課の一員なのだ。その戦闘経験豊富な、彼の動体視力を持ってしても、彼女が繰り出す攻撃の残像すら捉えられない。自身を遥かに凌駕する彼女の戦闘技術。そしてさらに――

 パンッ!――と春日の耳の横で空気が弾けた。気付いた時には、硝煙を上げた係長の拳銃が、顔のすぐ横にあった。どうやら、春日に近づいた『器』を、拳銃で仕留めてくれたらしい。彼は冷や汗を流しながら、視線を係長に戻す。すると、彼女はもう次の標的を切り裂いていた。これだけの敵に囲まれ、息つく暇もなく戦闘を繰り広げながら、さらに部下への護衛も同時にやってのける。

 峯岸舞。嘘偽りのない『最強』。

 係長の超人的な活躍により、春日たちは研究所の出口まで、比較的あっさりと辿り着くことができた。ウィーンと音を立て、出口の自動扉がゆっくりと左右に開く……のを待たずに、係長が蹴り一発で、扉を粉砕した。

「春日!出なさい」

 出口の前で立ち止まっている係長の横を通り過ぎ、春日は建物から外に脱出した。アスファルトが割れ、土がむき出しの地面に足をつけた時、彼の脳裏に想いが駆け巡った。

 この研究所に入ってから、まだほんの数十分程度しか経っていない。しかし、建物に入る前と後では、あまりにも状況が変わってしまった。先織は昏睡状態となり、瀬戸は殺され、そして、大内は命を賭して、危険な男と戦っている。例え死んでしまっても、彼らリボットは再生できる。そう頭では分かっていたが、やるせない気持ちで一杯だった。

 だが悠長に落ち込んでいる場合でもない。まだ危険は去っていないのだ。春日は背後を振り返り、『器』と戦っている係長を呼びかけようと口を開いた。その時――

 ポン。と腕に抱えた先織のお腹に、鍵が落とされた。ウィンクした猫のキーホルダーが付いた鍵。その鍵には見覚えがあった。

 係長の車の鍵だ。

 春日が驚いて顔をあげると、係長は『器』を踏みつけながら、背を向けて言った。

「私の車、あなたに貸してあげる。先織をつれて、さっさと逃げなさい」

「そんな……どうしてですか!係長も一緒に早く逃げましょう!」

 春日の声に、係長は顔だけ振り返り、にやりと笑った。彼女が部下に悪戯をした時にいつも決まってする、皮肉をまとった笑顔。

「車のところまで、こいつらを引き連れてったら、車に乗り込んでいる間に、愛車がこいつらにボコボコにされちゃうじゃない。ローンも残ってるのに、冗談じゃないっての」

「こんな時に何をふざけているんですか!」

「うわ。つまんない返し。春日あんた、先織の真面目菌に感染したんじゃない?」

「係長!」

 春日は怒鳴るように係長を呼んだ。彼の真剣な面持ちに、彼女の笑顔が消えた。絶え間なく襲い掛かってくる『器』を対処しながら、彼女は静かに、春日に話しかけてきた。

「……身体能力だけなら、この『器』どもは私たち以上よ。振り払うのは容易じゃないわ。車にだって追いつくかもしれない。いまこの場で、誰かが食い止める必要があるのよ。幸い戦闘に関する技術はないみたいだから、テクで抑えこむことはできる」

「なら俺が……」

「あんたじゃ無理」

 ハッキリと告げられた。だが係長の言うとおりだだろう。コルヴォ劇場での『器』とは性能が違う。その『器』を何十体も相手にして、ひとりで食い止めることができるのは、ずば抜けた戦闘技術を持つ彼女だけだ。

「でも、こんなこと俺は納得できない!大内さんも係長も、どうして簡単に死ぬことを受け入れるんですか!リボットだからですか?再生できるから……だから死ぬことなんて、なんでもないって。それでもやっぱり、俺は仲間が死んでいくのは我慢できないんです!」

 春日は内心理解していた。

 係長の言うことが正しい。

 いま再優先すべきは、今回の出来事を署の人間に伝えることだ。リボットシステムでは、躰の再生はできても、記憶はバックアップを取った時点までしか残らない。もし二係が全滅すれば、この研究所で起こった記憶は、失われてしまう。だから係長は春日を――春日の記憶を守るために、犠牲になるのだ。それを、自分が納得できないという理由だけで、子供のように駄々をこねている。強行課として恥ずべき愚かしい行為だ。

(分かってるさ。でも……それでも……)

 とその時――

「そうね……きっと、あなたが正しいんだわ」

 係長がポツリと呟く。その予想外の言葉に、春日は困惑した。鮮血に赤く染まった彼女の顔。そこには、彼女が初めて部下に見せる、悲しげな表情が浮かんでいた。

「私たちは……死に対して無頓着なんでしょうね。自分自身、気をつけているつもりなんだけど、どこかで死を軽んじている。自己犠牲なんて美談に聞こえるけど、なんてことはない。私たちは、死ぬという本当の意味を、忘れてしまっただけなのよ」

 そこで係長は微笑んだ。

「任務で仲間が犠牲なった時、その度に、あなたが強い憤りを感じていたのは知っていたわ。劇場での先織の死もそう。あなたは前の彼女を想い胸を痛めていた。恐らく今も」

 前の彼女。係長はそう言った。車でも同じことを言っていた。彼女は彼女。先織は先織だ。前も後もない。そのはずなのに、係長のその言葉を聞くと、胸の奥がキリキリと痛み始める。なんだろうか。何か重要なことを忘れているような気がする。いや違う。重要なことを忘れたがっている。

 自分は何に気付かないフリをしているのだろうか。

「きっと、あなたには私たちが忘れている死の本当の意味を、理解しているんでしょうね。だからこそ、あなたに先織を預けたのよ。忘れたの?車で約束したでしょ。どんなことがあっても、彼女を守りぬくって」

「係長……」

 春日は声を絞り出した。もう彼にも分かっていた。係長の決意は変わらない。そして、彼女の言う通り。自分はこの腕の中で眠り続ける、先織杏を守らなければならない。

「わかってると思うけど、携帯電話は旧時代と違って、主要都市以外は、同じ基地局の範囲でしか通話できない。基地局間の有線が切断されているからね。まず横岳に戻って、署に通話可能になったら、今回のことを報告しなさい。返事は?」

「……はい」

「大変宜しい。じゃあいきなさい。心配しなくても、私だって死に急ぎたいわけじゃないのよ。再生なんか面倒だし、必ず生きて戻るつもり。もちろん大内も連れてね」

「わかりました。信じてます係長。どうか無事でいてください」

「はいはーい」

 係長は『器』に蹴りを入れながら、背中を向けてこちらに手を振った。そんな彼女を置いて、春日は一目散に走りだした。

 研究所に着いた時に、瀬戸と二人で開けた古びた鉄柵。それを通りぬけ、係長の真っ赤なスポーツカーに辿り着く。先織を助手席に丁寧に座らせ、春日は素早く運転席に座る。鍵穴にキーを差し込んで、エンジンを掛けた。そして思う。やはりこの猫のキーホルダーはデカすぎる。ブラブラと大きく揺れて運転の邪魔だ。係長は気にならないのだろうか。彼はバックミラーに手をかけた。係長と自分とでは身長が違うため、自分にあった角度に鏡を調整する。その時、偶然鏡に自身の顔が映り、彼は気がついた。

 彼は泣いていた。眼を真っ赤にして、ボロボロと涙を流していた。

 彼は、鏡を自分の顔が映らない角度に調節して、アクセルを踏み込んだ。


(まったく……青臭いことね)

 春日も……そして自分も。

 峯岸はそう思うと、フッと笑った。

 だがそれでいい。旧時代には誰もが持っていた死に対する畏怖。もちろん今もないわけではない。だが昔に感じていたそれと同じかと問われれば、答えに窮する。死という意味を、いまはただの損得勘定でしか計れなくなっているのかもしれない。再生が面倒だとか、記憶の継承だとか、そんな理屈詰めの言葉でしか、死を避ける理由を見いだせなくなっている。誰もが当たり前に死を拒絶していた60年前。あの時の気持ちは、もう失われてしまったのだろう。しかしそれでも、やはり仲間の死を辛いと思う、そんな気持ちまで失いたくはない。それは優しさというよりは、人間としての意地みたいなものだ。

(人間……か)

 どこかで聞いたことがある。人間は死者を弔うことのできる、唯一の動物であると。ではリボットにより死を克服し、死を悼むことを忘れてしまった私たちは、何なのだろうか。果たしていまも、人間と呼べるのだろうか。

 峯岸の足元には血溜まりが広がっていた。各所に『器』の部位が、バラバラになって転がっている。部屋に現れた百体近くの『器』も、残りは三体のみとなっていた。全て彼女が殺した。一般的な基準から言えば、この『器』は人間ではない。形こそ同じだが、人工知能AIを組み込まれたこれは、どんなに精巧であっても、所詮は機械の延長でしかない。

 では我々はどうだろうか。この躰は本物ではなく、人工的な『器』にすぎない。足元に転がっている、これらと同じだ。ならば記憶は本物だろうか。この記憶には旧時代の、鮮明な思い出がある。新時代に築いた経験がある。それは、彼女が自身を人間だと認識する、確かな根拠だった。しかしその記憶自体が、リボットシステムにより人工的に複製された、模造品でしかない。データセンターに蓄えられたデジタル信号。記憶ではなくただの記録。

 私たちリボットとこの『器』の違いはなんだろうか。

 私たちリボットと人間に違いはあるのだろうか。

 峯岸は顔を上げた。視界に広がる『器』たちの血溜まり。その向こう側に、ひとりの男が立っていた。

 平卓。自身を人間と称した男。

 彼の左手には拳銃。だが、それを構えてはいない。彼はただ、血まみれの峯岸を見て、声もなく嘲笑していた。

 峯岸はゆっくりと腰を落として、ナイフを構えた。そして、神経を集中し尖らせていく。

「ナイフか。拳銃のほうがいいんじゃない?」

 平の言葉に、峯岸は平静に答える。

「あんたには、どういうわけか銃弾は当たらない。それならこいつで、眼球と脳みそを、掻き出してやろうかと思ってね」

「なるほど名案だ。試させてあげるよ。僕はここを一歩も動かないか――」

 平が言い終わる前に、峯岸は行動を開始していた。男との距離は約10メートル。それを一呼吸の間にゼロにする。相手の意識の隙間を縫って動く、彼女独特の走法。平には彼女があたかも瞬間移動したかのように見えたはずだ。これは技術ではなく、彼女が生まれつき持っていた感性がなせる術。防御する暇を与えないどころか、防御しようと思いつく暇すら与えない。彼女の狙いは首筋。宣言していた眼球とは違う部位。タイミングは完璧。更に相手の意識の裏をかく。彼女は自身と標的との最短距離にナイフを疾走らせる。ナイフの切っ先が標的にすいこまれ――

 なかった。

 平の首筋まであと数センチといったところで、ナイフがピタリと停止してしまった。ナイフと標的との間には、何もない。それなのに、峯岸がどんなに力を込めても、ナイフが男の首筋に触れることはできなかった。

 そんな彼女を見て、平は笑みを深くする。

「残念」

 平が拳銃で、峯岸の脚を撃ちぬいた。堪らず、彼女はその場に膝をつく。撃たれた右腿から、大量の出血。銃弾は、脚にある太い血管を貫いていた。すぐにでも、止血をしなければ、命に関わる。

 しかし、いまの峯岸にとって、そのようなことはどうでもよかった。最も優先すべき事項。検討すべき課題。彼女にとってのそれは、さきほど自身の躰に起こった異変だ。

 男を傷つけまいとした、自身の躰。

 男を護らんとした、自身の知能。

 すでに平の正体を薄々分かりかけてきた峯岸にとって、自身に起こったその異変は、驚くべきことではないように思えた。私たちは男に逆らうことができない。なぜなら、私たちリボットにとって、この男は神にも等しい存在なのだから。

「……人間……か」

 峯岸が呟く。

「そう。人間だよ」

 平はそう答え、ひざまずく峯岸の眉間に、銃口を当てた。

「60年間、凍眠していたけどね。つま先から頭のてっぺんまで、徹頭徹尾、内面も外面も人工的なものは一切ない、正真正銘、生まれたままの人間さ」

 平が持つ拳銃。近づいて見て、峯岸は気がついた。この拳銃は大内のものだ。そしてそれの意味することを、彼女は静かに理解した。

 この男にんげん私たちリボットを皆殺しにできる。

「君たちリボットは所詮、人間の記憶を持った人工知能AIってだけで、ここに転がっている『器』どもの、延長線上の技術でしかない。人間のふりをした、ただの紛い物さ」

 峯岸によって、ばらばらにされた『器』たち。その『器』たちとリボットの違いは、人間としての、記憶の有無だけで、本質的には同質のもの。ここの『器』たちを人間でないとするならば、リボットが人間であるという道理など、どこにもない。

「紛い物が本物に敵うはずがないだろう。地球を支配するのは、今も昔も、人間なんだよ。だから君たちに暫くの間だけ預けていた地球を、僕たち人間に返してもらうよ」

 峯岸の頭部を銃弾が貫いた。


「くそ!」

 春日は怒りに任せてハンドルを殴りつけた。車を走らせ始めて、まだ10分程度しか経っていない。目的地の横岳までは、まだ距離がある。しかし彼は道路に車を止めて、動き出そうとはしなかった。というより、動けない。

 ガソリンメータがEMPTYを示すEを指している。走りだした時には、まだ余裕があったガソリンが、見る見るうちに減っていき、遂に切れてしまった。その理由は、車が通過した道に転々と続く、黒いシミにある。シミの正体はガソリンだ。車の燃料タンクに穴が開けられ、ガソリンが漏れていたのだ。

 恐らく、金平の仕業だろう。リボットの欠陥などというデタラメを吹き込み、警察が管理する研究所に侵入する。そして目的を果たしたら、用済みの自分たちを、皆殺しにするつもりだったに違いない。

 金平の目的は、初めから人間の復活だったのだろう。だが、肝心の人間の目的が分からない。何故、リボットを皆殺しにしようとしているのか。恐らくそれが、金平が人間を復活させた理由にも、繋がると思うのだが。

 考えても仕方がない。今は重要なのは、この事実を署に伝えること。そして先織を少しでも早く安静にできる場所に連れて行く事だ。

 春日は車を降りると、素早く助手席側に回って、ドアを開いた。先織を抱え上げようと、彼女の腰に手を回そうとした。その時、彼女がうすく目を開けているのに気がついた。

「杏!」と、春日は驚きの声を上げた。先織は意識があるのかないのか、何もない空間を虚ろな瞳で見つめている。

「杏!先織杏!躰は平気なのか?いや平気じゃないのは分かってるけど。取り敢えず、意識はしっかりしているのか。何でもいい。答えられるなら答えてくれ」

 春日は、先織の声が無性に聞きたかった。彼女の無事を、確信したかった。先程から続く不幸の連鎖。それを先織杏の回復という吉報で、断ち切りたかった。

「頼む。一言でいいんだ。答えてくれ杏。それとも、俺のことが分からないのか?」

 先織の怪我は頭だ。もしかしたら、一時的な記憶障害に陥っているのかも知れない。そう彼は心配した。だがその時――

「……わかる」

 先織が掠れた声で言った。春日は安堵から、思わず顔をほころばせた。だが彼女は、虚ろな瞳をそのままに、こう続けた。

「いや……わかった」

 そして突然、先織はビクンと躰を震わして頭を抱えた。

「杏!どうした?」

「あ……頭が……」

 先織は躰を丸めて頭を掻きむしり始めた。その尋常でない苦しみように、春日は、兎に角、彼女に声をかけ続けた。

「杏!杏!頭が痛むのか?大丈夫か!杏!」

「はあ……はあ……」

 少しずつ、落ち着きを取り戻す先織。彼女は頭を抱えたまま、「わかったんだ」と繰り返し言った。

「ずっと前から……本当はわかっていたのに……いまようやく……夢を見て……彼女の……それで……わかったんだ」

 そして先織は、自身にとって絶望的な事実を口にした。

「麻木凛音……彼女は……現実には存在していない……全て私が作った……ゆめだったんだ」

 そう言って顔を上げた先織の瞳からは、全ての光を飲み込むような深い闇が、静かに覗いていた。

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