第12話 麻木凛音 その3
下田町公園。
先織は夜の公園で、ブランコに揺られていた。時刻は夜の10時。もちろん、児童養護施設が定めた門限はとうに過ぎている。都心部の夜空には、まばらにしか星が見えない。静寂に包まれた夜の公園に、彼女が揺らすブランコの軋む音だけが、響いている。
施設で生活を始めてから4年の月日が経過していた。彼女は中学生になり、今年の春から新しい校舎に通っている。この4年間で彼女を取り巻く環境は大きく変わった。そしてそれに伴い、彼女と周りとの関係も少しずつ変化していった。学校では、他愛もないおしゃべりをして時間を過ごし、放課後は、何人かのグループで集まって、行動をともにする。そんな人間が、少しずつ増えてきたのだ。
それは恐らく、好ましい変化なのだろう。しかし先織の顔色は優れなかった。今の彼女の心は、このブランコのように、ゆらゆらと揺れ動いていた。
「どうしたの?杏ちゃん」
声が聞こえた。先織にとって最も馴染みのある、だが最近聞くことのなかった声だ。
麻木凛音。少女は先織の隣のブランコにチョコンとおしりを乗せていた。いつも明るく元気だけが取り柄の彼女だが、いまは幼さの残る顔に、不安げな表情を浮かべていた。恐らく元気がない先織のことを、心配しているのだろう。
先織は少女の顔を直視することができなかった。少女に対し、後ろめたい気持ちがあったからだ。
「次の……土曜日なんだが」
「うん?」
「最近できた……西区のショッピングモールがあるだろ。あそこにな……行くことになった。その……学校の連中に誘われたんだ」
そう言うと、凛音はパッと顔を輝かせた。まるで自分のことのように声を弾ませて、先織にこう言ってきた。
「わあ。ついに杏ちゃんも彼氏持ちなんだね」
「いや……誘ったのは女だよ。その……友達のような……そんなやつだ」
「あ、なんだ。でもよかったじゃん。杏ちゃん、今まで私以外の友達を作らないで、ビバ・ロンリーウルフって感じだったのに、ようやく牙が抜けたんだね」
「いや、わけわからんが……」
凛音がトンチンカンなことを言って、先織が冷たくツッコミを入れる。前まで当たり前だと思っていたこのやり取りが、今はひどく懐かしく感じた。
先織は横目でちらりと凛音の様子を見た。屈託のない笑顔をする少女。友人の成し遂げた偉業(?)を、凛音は本当に喜んでいるのだろう。だからこそ、先織の胸は締め付けられるように痛んだ。
「よかった……か。何がいいものか」
「杏ちゃん?」
「私は自分のことばかりだ。お前をほったらかしにしている。こうして会うのだって、もう一ヶ月ぶりぐらいだ。前は毎日のようにあっていたのに。そんな私の……お前にとって何が良かったっていうんだ」
先織はうつむき沈黙した。
中学に進学してからというもの、凛音と会う機会は極端に減っていた。小学生の時と違い、勉強に費やす時間がどうしても増えてしまったことも理由のひとつではある。しかし一番の理由は、凛音以外の者と過ごす時間が多くなってきたことにあった。
自分だけが新しい環境で新しい人間関係を築き、昔からの友人に寂しい思いをさせている。先織が感じる、凛音に対する後ろめたい気持ちの正体はそれなのだ。
だが凛音はなおも笑っていた。
「何がって……やっぱり嬉しいよ。友達が幸せになるならさ、あたしだって幸せだもん」
他の人間が言ったのであれば、単なる綺麗事のようにしか思えないその言葉も、凛音の口から出れば、それが本心からの言葉であることは容易に知れた。だからこそ、先織は我慢がならなかった。本心だからこそ、余計に声を張り上げて、少女の言葉を強く否定した。
「幸せなことあるか!」
「え?」
「幸せなわけないだろ!凛音!さっきお前は私のことを一匹狼と称したな!どっちがだ。凛音。お前のほうがよっぽどじゃないか!いつもひとりだ!お前は私と会う時、いつもひとりぼっちじゃないか!」
「あ……」
「なんだその反応は!私が気がついていないとでも思ったのか!お前だって私と同じで、ずっとひとりだったんだろ?なのに、私はお前を見捨てるような真似をしている!それで何が幸せなんだ!どうしてそれが幸せなんだ!」
「……」
「私だってお前と同じ気持だ!私をどん底から救ってくれたのはお前なんだ!だからお前には誰よりも幸せになってもらいたい!」
いつも先織は凛音に冷たい態度をとっていた。ひとりでも平気なふりをして、凛音の先織に対する心遣いを、余計なお世話と突っぱねてきた。
強い自分を凛音に見せたかった。弱い自分を凛音に見せたくなかった。それはつまらないプライドからくる、唯の意地だった。恐らく、凛音もそのことには気がついていたはずだ。だが、凛音はそれを決して口にすることはなかった。それもまた全て不器用な友人の為を思ってのことだろう。そんな優しい凛音に、自分は幾度救われたわからない。
だがいま、先織は恥や外聞もかなぐり捨てて、凛音に本心をぶつけていた。
「私なんかと違って、お前は素直で、可愛げがあって、誰からも好かれる。誰からだって愛される。だから……だから私だって……お前のことをみんなに紹介しようと……でも……駄目なんだ。そんな時に限って、お前が見つからないんだよ。いつも私がひとりの時はどこにでも現れるくせに、そんな時に限ってお前が影も形も見当たらないんだよ」
話をしているうちに、涙がこぼれ落ちてきた。先織は無様にも鼻をすすりながら、それでも話を続けた。
「それだけじゃない。施設の人間のなかには……お前の話をすると……露骨に嫌な顔をするやつもいて……もうお前には会わない方がいいなんて……そんな勝手なことを言われて。誰もお前のことを理解しようとしてくれない。理由だって誰も話してくれない。こんな……こんなことがあっていいものか。お前のような人間が、どうしてこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ」
悔しかった。こんな優しく可愛らしい自慢の友人が、不当な扱いを受けている。一度でも会ってもらえれば、凛音のことを理解してもらえる自信が先織にはあった。凛音のことを好いてもらえる自信があった。それによって、凛音に自分などより仲の良い友人が仮にできてしまても、少し寂しいが耐えることができる。だが、凛音が寂しい思いをするのは駄目だ。どうしても耐えることができない。
先織が、夜中の公園にひとりで来た理由もそれだった。施設の人間に凛音のことを話したところ、そういった内容のことを遠回しに言われたのだ。だから堪らなくなって、凛音と話がしたくて、施設を抜けだして公園に来た。ひとりで公園にいれば、いつか凛音が現れてくれる。不思議とその確信があった。そして事実、凛音は現れた。
いま凛音は、先織に対し笑顔を見せている。ただし、いつもの無邪気さはそこにはなかった。どこか悲しげで、どこか困った、そんな、少女らしくない微笑だった。
凛音は静かに言った。
「いいんだよ。それで」
「そんなことが……」
「聞いて杏ちゃん。あたしはね……それでいいんだ。杏ちゃんが言うように……あたしはずっとひとりで、誰もあたしに気付いてくれる人なんていなかった。寂しくて、叫びだしたいくらい、辛かったんだよ。でも意地っ張りだから、それを口に出して言うことが、できなかったんだ」
意地っ張り。凛音はそう言った。その言葉は、凛音には似つかわしくない。凛音は素直すぎる少女だった。いつも感情の赴くままに行動している。少なくとも、先織にはそう見えていた。だから、その言葉には違和感があった。むしろ、その言葉は凛音ではなく――
「だから、あたしは杏ちゃんに出会ったんだと思う。そして杏ちゃんに出会ったことで、あたしはもう満足なんだよ。他の誰もいらない。あたしはね、杏ちゃんだけに気付いて欲しかったんだから。だから、あたしのことを杏ちゃんが気にすることはないんだよ。あたしのこと杏ちゃんが気にしちゃ駄目なんだよ」
「何を……何を言っているんだ凛音。どうして……どうしてお前までが、私からお前を奪おうとするんだ。どうしてお前までが、お前を否定するんだ」
「違うよ。今はまだ、わからないかもしれないけど……きっといつかわかる時が来るから。あたしのほんとうの意味に。だから……」
「嫌だ!」
叫ぶ。
凛音の言葉を強引に遮断した。
凛音の言葉を聞きたくなかった。
凛音との関係を終わりにしたくなかった。
自分にとって、凛音は大切な友達だった。
自分にとって、凛音は特別な友達だった。
自分にとって、凛音は必要な友達だった。
だから心に蓋をした。
本当は、もう気付いていたのに。
凛音が何者なのか。
どうして自分だけの友達でいてくれたのか。
気付いていたのに。
気付いていないふりをした。
滑稽にも現実を演じ続ける。
「ち……違うんだ。そうだ……ゴメン。すまなかった。気を悪くしたんだよな。私がガラにもなく取り乱して……変なことを言うもんだから。どうかしてたんだ。本当にすまなかった。もう言わない……だから……ゴメン」
「杏ちゃん……」
「そうだ。いい考えがある。次の土曜日のショッピング、お前といこう。よく考えてみれば、学校の連中と行ったって面白くもなんともない。お前とふたりのほうが絶対面白いからな。ふたりで服を見たり、パフェを食べたりしてな。少しなら奢ってやれるぞ」
「でも……」
「なんだ?何を気にしている?ああ。学校の奴らが怒らないか気にしてるのか?大丈夫。ちゃんと角が立たないよう上手く断るよ。お前が気にすることじゃない。な、そうしよう」
凛音の表情は曇っていた。そんな少女に、先織は懇願するように言った。
「いいだろ。いまは……まだ」
凛音は暫く躊躇していた。だが、すぐにいつもの無邪気な笑顔を浮かべると、両手を叩いて、ハキハキと喋り出した。
「そうだね。うん、そうしよっか。わあ、楽しみだな。CM見て一度行ってみたいって、あたし思ってたんだよ。しかも杏ちゃんが奢ってくれちゃったりするの?次の土曜日って関東歴代最高豪雪日になる予定だっけ?」
「いまは秋だぞ。雪にはまだ早いだろ。て言うか、何気に失礼だぞ」
「そう?でもいいや。楽しみ楽しみ♪」
凛音は本当に楽しそうにそう言った。それを見ると、先織も自然と笑顔になってくる。
これでいい。
まだこれでいいんだ。
もう少し凛音と一緒にいたい。
いつかわかる日が来るとしても。
真実を認めざるを得ない日が来るとしても。
今はまだ心地よい少女のそばで。
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