第11話 ニューラルネットワーク研究所
60年前の百分の一と言われる日本の人口。その殆どは、都心部に集中している。これは、電車の運行が困難な現代、仕事を求めて多くの人が都心に移り住んだためだ。その結果、都心から離れた地域の過疎化は、現代日本が抱える深刻な問題のひとつとなっている。
神奈川県小川原市。60年前には10万以上の人口を抱えていたこの地域も、その例外ではない。99パーセント以上の住民は未だ再生されず、データセンターの中で記憶だけが眠り続けている。再生された幸運な者たちも、その多くが都心に居を移した。この地域に残ったのは、都心に移動できない理由があったのか、あるいは、ただのものぐさなのか、どちらにしろ、ごく少数の者たちだった。そして小川原市には、その者たちが形成した、数十から数百人規模の小さな集落が、各所に点在している。
そのどの集落からも離れた山間部。視界を埋めつくす木々の隙間を縫うように造られた、約10キロにも及ぶ林道――木の根がアスファルトの上にまで張っている――を抜けた先に、独立行政法人・国立研究開発法人情報通信研究機構ニューラルネットワーク研究所は存在していた。
二係のメンバーと金平を乗せた車は、研究所の囲う塀の前に到着した。塀の正面入口には高さ3メートルほどの左右開きの鉄柵があり、鎖と錠前で施錠されていた。
峯岸が懐から取り出した鍵で錠前を外す。鎖をほどき、春日と瀬戸がふたりがかりで、錆びついて動きの悪い鉄柵を力づくで開けた。
「おほー。すごい力ですな。強行課の『器』は特別製と聞いておりましたが、なるほど。人間離れしておりますな」
「テメェ!俺達が化け物だってか!ああ?」
「とんでもございません。素晴らしい能力の持ち主と、そう言いたかっただけでして……」
「やめなさい瀬戸。ほら中に入るわよ」
荒れ放題の敷地内に入り暫く歩くと、すぐに四階建ての建物が見えてきた。これが国立研究開発法人情報通信研究機構ニューラルネットワーク研究所なのだろう。
研究所は60年という歳月を、痛々しくその身に刻んでいた。全ての窓枠にはガラスがはまっておらず、風雨にさらされ続けた外壁は、ところどころ塗装が剥がれ落ちており、何処からか伸びた蔦が縦横無尽に絡まっている。アスファルトが割れ、土がむき出しになった地面には苔や雑草が生い茂り、名も知らない花が咲いていた。
そんな廃墟にしか見えない建物だが、峯岸が、入り口の付近にある小さな穴に鍵を差し込みひねると、入口の扉が自動で開いた。
春日が驚きの声を上げる。
「まさか電気が通ってるなんて」
「国の重要機関には緊急時でも稼働できるよう、自家発電の機構を備えていると聞いたことがある。恐らくこの建物の屋上にはソーラーパネルが設置されているんだろう」
「パネルのメンテナンスは誰が?」
「ロボットだよ。
大内はそう答えると、峯岸に続いて研究所の中に入っていった。その後に春日と先織、瀬戸、そして金平と続く。
研究所のロビーに入ると自動的に照明がついた。照明に照らされたロビーの床には、絨毯のように分厚いホコリが敷き詰められている。外壁もそうだが、大内が言ったような清掃ロボットは、このロビーにはいないらしい。施設を運用する上で不可欠な設備以外は、オートメーション化はされていないのだろう。
「リボットシステムのパッチは地下にあります。私は60年前にここに来たことがありますので、皆さんご案内します」
金平が先頭に出ようとしたところ、峯岸が金平の前に腕を出して、それを制した。
「金平さんは私の後ろから、行き先の指示をお願いします。それと二係のメンバーがあなたの周囲の警護をしますので、勝手な行動は控えてください」
「警護?いや峯岸さん。ここはただの研究所ですぞ。どこに危険などあるというのですか?」
「ご覧の通り、この建物は老朽化が進んでいます。可能性は低いですが、天井や床が崩れる危険性を考えると警護は必要です。どうかご理解ください」
峯岸の本当の目的が、金平の監視であることは明白である。しかし、金平の反発を招かぬよう、警護という名目を利用した。金平は――こちらの真意に気付きながらも――不承不承ながらに「わかりました」と、言わざるを得なかった。
やはりすごい。先織は素直に感心した。
自分にはまだ、峯岸のような駆け引きはできない。普段は冷静に振舞っていても、自分が激情しやすい質であることは、自分自身で知っている。だが峯岸は違う。彼女は自身の感情を完璧に制御し、望む状況を作り上げる。ようは自分より、遥かに大人なのだ。
先織は春日に視線を送った。彼は一瞬こちらと目があうも、すぐに視線をそらして、峯岸のもとに駆け寄って行く。相変わらずの、余所余所しい彼の態度に、不安が募る。
(春日だってこんな私より彼女のほうが――)
ズキンッ!
強い頭痛。思わず頭を手で抑え、痛みが引くのをじっと待つ。朝から続く頭痛は強さを増してきていた。頭痛の原因に心当たりはない。二日酔いとも恐らく違う。
自分の躰に何かが起こっている。
その恐怖が、弱った精神を蝕んでゆく。
「係長。俺はどうしましょうか」
「春日。あなたは私のサポートをお願い」
「はい。分かりました」
二人の声が、先織の心を余計にかき乱した。
(馬鹿か!何を考えている。今は任務に――)
ズキンッ!
頭に走る激痛が、先織の思考をかき消した。もはや頭の痛みは、彼女の耐えられる限界を超えつつある。
ズキンッ!
「がっ……」
先織の膝が折れ、その場に崩れ落ちた。頭をかきむしり、痛みを誤魔化そうとする。
(しっかりしろ!私は彼女に会うまでは……)
ズキンッ!
「先織?お…おい、どうしたんだ!」
声が聞こえる。春日の声だ。足音が聞こえた。彼がこちらに近づいてくる。
やめてくれ!今は……今は来ないでくれ!
苦しいんだ。頭も……
凛音
ボゴッ!
突然の浮遊感が先織を包んだ。意識を失う直前で彼女が見たものは、彼女に向かって手を伸ばす――の姿だった。
「先織!春日!おいおいまじかよ!こりゃ」
突然のことだった。研究所の床が抜け、先織と春日が地下の部屋へと落下していった。
「そんな……」
峯岸は呆然とした。確かに老朽化から建物の天井や床が崩れることを、示唆したのは彼女だ。しかし、あれはあくまで金平を監視するための便宜であり、まさか本当に床が抜けることなど、彼女も信じてなどいなかったのだ。
峯岸は慎重に穴の縁まで行くと、ポッカリと空いた穴に向かって声をかけた。
「ちょっと!春日!先織!聞こえる?無事だったら返事してちょうだい!」
地下室は暗く、中の様子を窺い知ることは困難だった。だが声の反響から大雑把に推測して、恐らく天井の高さが5メートルほどもある広い部屋だろう。地下に落ちた二人はともに優秀な部下だ。しかし、突然この深い暗闇に落とされて、まともな受け身がとれたかは怪しい。もし空中で上下感覚を失い、頭から床に叩きつけられるようなことがあれば、命にだって関わる。
5秒……10秒……返事がない。峯岸はもう一度声をかけようと息を吸い込んだ。その時、穴の中から返事が返ってきた。
「……係長!」
思ったより力のある声が返され、峯岸はほっと胸をなでおろした。
「春日!よかった無事なのね!」
「俺は大丈夫です!怪我も大したことありません。でも先織が……」
「先織がどうかしたの?」
峯岸の落ち着きかけた鼓動が再び早まる。
「怪我をしています。触った感じ、こめかみから血が流れているようです。傷の深さは浅いと思いますが、気を失っているみたいで、声をかけても反応がありません」
春日からの報告を頭のなかで整理する。状況は予断を許さない。傷は浅くても、頭の怪我は最悪の事態を招きかねない。可能な限り早めの救護が必要だ。
と、瀬戸が穴に向かって声をかけた。
「春日!いま俺も行っから待ってろ!」
「やめなさい瀬戸!」
穴に飛び込もうとした瀬戸を、峯岸の鋭い声が静止する。
「なんだよ係長!なんで止めんだよ!」
「あんたまで怪我したらどうすんの。面倒事を増やす勝手な行動はやめてちょうだい」
「んなヘマしねぇって!」
「仮にうまく着地できたとして、どうやって上がるつもり?今の私達には、この深さの人間を引っ張り出せるような装備はないのよ」
「部屋なんだから出口ぐらいあんだろ!」
「外側から鍵がかかっているかもしれない。兎に角状況がわからないのに、無策で飛び込むなんて馬鹿のすることよ」
「そんじゃあ、みんなお利口さんになって、仲間見殺しにしろってのかよ!」
瀬戸がこちらを睨みつけてくる。上司である自分に対し、乱暴な言葉使いに喧嘩腰の態度を取る瀬戸。しかしそれこそが、瀬戸の長所だと峯岸は考えている。短絡的で楽観的な彼だが、仲間を思いやる気持ちは人一倍強い。先織同様に、なにかと無茶をしがちな彼だが、その行動には彼なりの信念がある。打算なく真正面から仲間を想う彼の気持ちを、彼女は何よりも買っていた。
しかし、いまは瀬戸の長所が悪い方向に出ている。峯岸が彼を説得しようと口を開きかけたその時、彼の脳天に拳が叩き降ろされた。
「うがっ!」
頭を抑えてうずくまる瀬戸に、拳の主である大内が静かに呟く。
「冷静になれ瀬戸。峯岸が部下を見捨てるわけがないだろう。この言い争っている時間だけ、ふたりを助けるのが遅れるんだぞ」
相当強く拳を打ち付けられたのだろう。肩を震わせ、ただただ沈黙する瀬戸。大内は峯岸に視線を移し、こう問うた。
「それで?どうする峯岸」
大内の階級は自分より下だ。しかしだからといって、彼の能力が自分より劣っているわけでは決してない。彼の豊富な経験から育まれた、幅広い見識や的確に本質を見抜く眼力は、自分など及びもつかない。だが、いまのようなチームとしての決断が必要な場面では、彼は上司である自分の意見を尊重してくれる。不要に和を乱さないための、彼の心遣い。だが、誤った選択をしようとした時は、さり気なく、それを訂正してくれる。それはぎりぎりの決断を下すことが多い彼女にとって、常に心強い存在だった。
峯岸は穴に向かって声をかけた。
「春日!よく聞きなさい!いまから私達はあなたがいる部屋の入口を探す。あなたは部屋の様子を見て、もし役立つ情報があれば携帯で私達に知らせてちょうだい!ただし出口を見つけても勝手に出ないこと!お互いがすれ違いになるのを避ける事もそうだけど、頭に怪我をした先織を、下手に動かさない!頭の怪我は見たそれだけじゃ、どの程度危険な状態が判別し難い!先織は、私たち全員で慎重に運び出す!わかった?」
「わかりました!」
峯岸はちらりと大内を一瞥した。特に彼も異論はないようだ。瀬戸はまだ不服そうに口を尖らせていたが、一人で穴に飛び込もうという考えは辞めてくれたようである。
「話は、まとまりましたかな?」
ここで今まで沈黙していた金平が、タイミングを見て声をかけてきた。峯岸と大内、瀬戸が、同時に金平の方に視線を向ける。
金平は事務的な口調でこう言った。
「大変なことになりましたな。しかも先織さんは怪我をなさっているようで、心痛なる思いです。しかし忘れてはなりません。我々には人類の命運をかけ、リボットシステムのパッチを探す役目があるということを」
「人類の命運のためなら、たった二人の命運なんぞ知ったこっちゃねえってことか?」
瀬戸が凄みを利かせて、金平に喰ってかかる。金平は慌てたように両手を横に振りながら弁明した。
「とんでもございません。私が申し上げたかったのは、都合が良かったということです」
「都合だって?」峯岸が問うた。
「ええ。これを不幸中の幸いというのでしょうね。リボットシステムのパッチ。それは、地下室に保管してあるのです」
そこで金平はニヤリと笑った。
「そこでです。パッチの保管室へ向かいながら、お二人を救出するためのルートを探されてはいかがでしょう。パッチの獲得もお二人の保護も、どちらも急務です。時間をより効率よく使うため、ご検討いただけませんか?」
春日は見上げていた視線をゆっくりとさげる。どうやら仲間は、自分たちを探しに出発してくれたらしい。彼は暗闇の中でひとり眼をつむった。1秒――2秒――。心のなかで秒数をカウントしながら、徐々に高ぶった気持ちを沈める。彼は再び眼を開けると、自身の腕の内に視線を落とす。そこには彼の恋人である先織が、気を失い眠っていた。
春日は膝を立て、横たわる先織の頭を抱いて座っている。彼は懐からペンライトを取り出し彼女の顔を照らした。光りに照らされた彼女の顔は、血の気が失せ蒼白だった。額に無数の汗の玉を作り、その表情は苦しそうにゆがんでいる。薄く開いた唇からは、途切れてしまいそうな細い呼吸と、うわ言のような小さな声が、漏れている。
先織がこの部屋に落ちる時、春日は咄嗟に彼女の腕を掴み、空中で抱きかかえて地面に着地――といっても無様に地面を転がっただけだが――した。そのため、彼女が頭から地面に叩きつけられることだけは避けられた。こめかみの怪我も軽傷のはずだ。それなのに彼女が目を覚ます気配は、一向にない。
(いや違う。この苦しみよう……落下の衝撃によるものだけじゃない。そうだ。落下する前から彼女は……杏は頭を抱えてうずくまっていた。ひどく……苦しそうに)
先織の身に一体何が起こったのか。医者ではない春日には正確に判断できない。しかし、こんな弱々しい彼女を見るのは、彼は初めてだった。先織は意地っ張りだ。弱い姿は決して見せない。誰に対しても、常に強くあろうとしていたし、実際に彼女はそうあり続けた。
(いや……例外がひとつだけあったか……)
先織が見せた唯一の弱み。彼女が冷静でいられなくなる、ある話題。その人物。
(杏の友達……凛音ちゃん……か)
昨夜の先織のマンションでの出来事を思い出す。結局あの時の気不味さから、今日はまだ、彼女とまともに喋っていない。もし先織ときちんと話をしていれば、もっと早く彼女の異変に、気付くことができたかも知れない。
だが、いまは後悔している時ではない。春日は少しでも情報を集めようと、周囲をペンライトで照らした。だが、ペンライト程度の小さな光では、とても部屋全体の様子を確認することはできなかった。天井の穴から差し込む光も、遥か頭上で闇に溶け消えている。
それでも少しずつ闇に眼が慣れていき、周囲1、2メートル程度なら、なんとか視認できるようになってきた。周囲に散らばる崩れた天井の破片。その破片に混じって、なにか奇妙な物体が部屋に転がっているのに気がついた。春日は目を凝らしそれをよく見る。
春日の眼が驚愕に見開かれる。
「これは……まさか……」
部屋には人間が倒れていた。
それもひとりではない。光を移動させながらよく確認してみると、同じように床に倒れている人間が、次々と見つかった。なかには四、五人の人間が、固まって山積みされている所まである。倒れているのは老若男女と様々だが、全員が裸に白地の薄い布切れ一枚を煽っている程度の、簡素な格好をして、目を瞑ったままピクリとも動いていない。いやそれどころか、呼吸すらしていないようだ。
(死体……?いやでも……そういった生々しさを感じない……この人間たちからは、生の実感そのものが抜け落ちている)
春日には、この違和感に身に覚えがあった。つい最近、これと同じ感覚を味わっている。
人の形をしたモノ。
命を宿す前の無機物。
魂を入れる空洞。
つまり――『器』だ。
部屋の大部分は闇に包まれているため、床に転がる『器』の正確な数を把握することはできない。だがどちらにしろ、60年以上も前の建物に、なぜ数十、或いは数百体の『器』が無造作に転がっているのか。
独立行政法人・国立研究開発法人情報通信研究機構ニューラルネットワーク研究所。つまりここは60年前、脳神経回路を専門的に扱った施設だった。一口に脳神経と言っても、業務は多岐にわたる。脳機能特性の解析と分析。記憶と学習のアルゴリズムの考察と検証。コンピュータを用いた脳のシミュレートとエミュレート。そして人工脳神経回路――
「まさか……アダムプロジェクト……か」
春日は声を震わせて呟いた。
エレベータは止まっていた。そのため峯岸たちは、非常階段を使って地下まで降りていった。B1と書かれた非常扉を抜けて、峯岸達は廊下に出る。廊下の照明が自動で点く。
廊下は白を基調とした飾り気のないものだった。のっぺりとした天井と壁には傷一つ見当たらない。床はホコリが溜まっていたが、地下という密閉された空間のため、ロビーほどは分厚いものではなかった。
「さあこちらです。みなさん参りましょう」
金平がそう言った。峯岸を先頭に金平、そしてすぐ後ろに瀬戸と大内が二人横に並んで、廊下を進み始める。緊急事態とはいえ、金平の監視を怠るわけにはいかない。峯岸は金平の動向に目を光らせながらも、春日と先織が落ちた部屋に通じそうな、道や扉がないか注意を傾ける。廊下はゆるいカーブの長い一本道で、代わり映えのしない景色が延々と続いていた。二人が落ちた部屋との位置関係を考えると、この廊下は二人がいる部屋の外周に沿って造られている。だとすれば、この廊下の壁を破壊できれば、二人を救出できるかもしれない。
峯岸と同じことを考えていたのか、瀬戸が廊下の壁を叩きこう言ってきた。
「俺ってば少量だが爆薬もってるぜ?この壁破壊しちまうか?」
「生き埋めになって死にたいのか」
大内が冷たく言い放つ。先程の床の崩落からみても、研究所の老朽化は見た目以上に深刻のようだ。爆破など下手な衝撃を与えれば、たちまち天井が崩れる可能性があった。
「焦らない瀬戸。そんなことしなくてもほら、扉が見えてきたわよ」
その扉は、簡素な作りの廊下とは不釣り合いの、物々しい雰囲気を醸し出していた。そして扉の横には、まるで玄関口にあるインターフォンのような機械が取り付けてある。金平はそこに近づいて、掌を機械に押し当てる。機械に青白い光が横一閃に点き、上から下に、金平の掌をスキャンしていく。
「静脈認証ですよ。私の静脈は60年前に既に登録済みです」
ガチャっと音を立てて、扉のロックが外れる。金平はホッと胸をなでおろした。
「いや、良かった。リボットになってから試すのは初めてでしてな。少し心配でしたが、無事認証してくれたようです」
瀬戸が大内に尋ねる。
「リボットって静脈まで再現してんだな」
「申請していればな。静脈もそうだが指紋もデータさえ事前に提出していれば、『器』をそのデータに従って整形してもらえる。旧時代は生体認証も多いからな。重役なんかはリボット転換後でも認証できるよう、そういった手続きをしているのさ」
「ええ、その通りです。ですが実際に試してみるまでは不安でした」
金平はそう言うと、薄く笑った。
「どんなに精巧に造られようと、この『器』は所詮、人間の偽造でしかないのですから」
峯岸たちは扉を抜け、奥の部屋に入る。
そこの部屋は、直径20メートル、高さ4、5メートルはあろうかという、楕円体を半分に割ったようなドーム状の形をしていた。つなぎ目のない白い壁や床。そこには――先程通ってきた通路と異なり――ホコリひとつ見当たらない。恐らく、必要最低限の空気の入れ替え――それもフィルタを通して清浄していると思われる――を除いて、外界とは完全に切り離された部屋なのだろう。旧時代の一部の人間たちには、核戦争に備えてシェルターを自宅に持っていたと聞く。人が生活していくためではなく、とある目的のためだけに特化された部屋。その実物を見たことは峯岸にはないが、この部屋からは――明確な根拠はないが――そういったものと同じ印象を受けた。
机や椅子といった家具は部屋に一切なく、それどころか、ちょっとした紙屑や、髪の毛一本落ちていない。どのような目的で造られた部屋であれ、人工物である以上、少なからずの、人が関わったはずだ。それなのに、その痕跡がまるで見つからない。
そこで、ふと疑問に思う。この部屋には照明器具すら見当たらない。地下にあるこの部屋。外の光など部屋のなかに届くはずもない。視線をめぐらし周囲を観察する。すると驚くことに、床と壁そのものが発光し、部屋全体を照らしていたことに気がついた。旧時代においても珍しいその設備。それは、この何もない簡素な部屋が、当時においても高度な技術によって造られていることを物語っていた。
そして、この部屋で最も異質なモノ。それは、部屋の中心に直立してそびえ立つ、柱の存在だった。直径にして2メートルほど。エメラルドグリーンの光沢を持ったその柱は、オブジェにしては無骨で、この何もない部屋の中で、あきらかに浮いていた。
峯岸がその柱を見て眼を丸くしていると、金平が奇妙なことを口にした。
「ようやく私は、人間に戻れる」
先織は手を伸ばしていた。
無我夢中で。
リボットとして再生されて12年。
ずっと伸ばし続けてきた。
掴まれることのなかった手を。
諦めることなく。
だがいま想いは叶った。
床が崩れたあの時。
自分が壊れかけたあの時。
手を掴んでくれた。
少女の手のぬくもりが。
少女の存在が。
確かに感じられた。
ああ、そうか。
お前はいつも、近くに居てくれたのか。
「凛音」
先織の呼びかけに、少女はニッコリと笑ってくれた。
変化は突然だった。
部屋の中心にある柱が液化し、バッシャっと床にこぼれ落ちた。緑色の液体が勢い良く床を流れる。そして、溶けた柱の中から――
男がひとり出てきた。
「ゴホッ!ゴホッ!かあ……ペッペ!」
柱から出てきた男は、口から緑色の液体を苦しそうに吐き出している。峯岸は声が出なかった。瀬戸も大内も唖然としている。ただひとり、金平だけがニヤニヤ笑いながら、柱から現れた人物を、見つめている。
その男はふらふらと立ち上がると、大きく深呼吸をした。キョロキョロと周りを見回した後に、こちらを見据え、話しかけてくる。
「ああ……ご苦労様、リボット諸君。さて積もる話もあるだろうけど、取り敢えず、貸していたものを返してもらおうかな」
男は侮蔑を込めた眼差しで、こう続けた。
「僕たち人間にね」
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