予兆

第10話 頭痛

 ブゥウウウン。ブゥウウウン。

 奇妙な音を聞いて、先織杏は目を覚ました。背中には硬質な物体の感触。彼女がいつも眠るときに使っているベッドとは、明らかに質感が異なる。彼女は眠い目を擦りながら上半身を起こすと、ぐるりと周囲を見回した。

 そこは、家具のたぐいが一切見当たらない、殺風景な部屋だった。彼女の寝室とは違う。ここは、彼女が友人の――麻木凛音の為に用意した部屋だ。彼女はその部屋の床に――冬だというのに毛布もかけずに――直接寝転がって眠っていたようだ。

 どうして、こんなところで眠っているのか。昨日の記憶は断片的にしか残っていない。確か春日と一緒にお酒を飲んで――

 ズキン。

 頭痛が思考を中断させた。大した痛みはないが、断続的な頭痛に先織は眉を寄せた。

(なんだ……少し飲み過ぎたか)

 ブゥウウウン。ブゥウウウン。

 硬い床で眠っていたせいで、ガチガチに固まった躰をどうにか起こす。そして、先織は先程から振動している携帯――現在では携帯は貴重品でこれは仕事用に配布されたもの――をポケットから取り出す。あくびをしながら、通話ボタンを押した。

「――はい。先織です」

「サキオリです。じゃないでしょ」

「あれ?峯岸さん。おはようございます。何ですかこんな早く?」

「……先織、もしかして寝てたの?時計で時間を見てみなさい」

「時間?」

 この部屋に時計はない。先織は立ち上がると、ふらつく足取りで部屋を出る。そしてリビングのテレビ台にある置き時計で、時間を確認した。10時45分。

 先織は、暫くボーと時計を見ていた。しかし、徐々に頭が回転していくに合わせて、顔が青ざめていき、肩が震えだす。

 先織は狼狽を顕に声を張り上げた。

「10時45分?嘘!なんで」

「なんでって言われてもね」

「えっとすみません!一応確認しますが、警官の出勤時間って11時からでしたっけ?」

「9時からね」

「それじゃあ、まるで私が寝坊したみたいに聞こえてしまいますよ!」

「してるわよ」

「ああああああ!」

 先織は頭を抱えてうなだれた。

 勤続8年。病気などを除いて、いままで一度も遅刻をしていないことが、先織の淡い誇りであった。彼女は力なく呟く。

「これでもう、私は遅刻した連中を、ゴミクズのように見下す資格を失ったんですね」

「あんた、そんなことしてたの?」

 いつもの部屋で眠らなかったため、目覚まし時計の音が聞こえなかったのだろう。先織はバッと立ち上がり峯岸に言う。

「すみません。兎に角、いますぐに家を出て、一時間後には職場に到着します。その時に遅刻のけじめは付けますので……」

「いや、もう来なくていいわよ」

 峯岸の冷たい言葉に、先織は耳を疑った。

「そんな!待ってください!確かに遅刻したのは申し訳ないと思っています!遅刻など社会の底辺中の底辺にいる無責任なクソカス共のすることだっていうのもわかっています!でもまだ一度だけじゃないですか!一度ならせいぜい指を詰める程度が妥当ではないですか?なにもクビにしなくても――」

「誰もそんなこと言ってないでしょ。てか、あんたのけじめって指を詰めることなの?」

 峯岸が呆れ口調で言ってくる。

「あなた躰取り替えたばかりじゃない。本調子でない時の遅刻ぐらいで怒るほど、私は鬼じゃないわよ。昨日も無理して来てもらったことだし、本当は暫く休ませてあげたいんだけど……少し状況が変わったの」

 峯岸の口調の変化を、先織は敏感に感じ取った。いままでは気心の知れた先輩と後輩の会話だったが、この瞬間、上司と部下とに関係性が切り替わる。自然と背筋が伸びた。

「どういう意味ですか?」

「今日、私たち二係は通常業務ではなく、元国会議員金平源治の行動支援となったわ」

「元国会議員?」

 警察はおよそ30年前に、立法を司る国会を解体しその権利を剥奪した。そのことから、警官と元国会議員とは云わば犬猿の仲というのが世間一般の認識だ。先織自身――一概には言えないが――その認識は正しいと思っている。そんな警官が議員を護衛し行動を共にするという。なんとも、妙な話だ。

「勿論これは表向きの話ね。彼の行動を監視するのが私達の本当の任務。恐らく金平本人も、このことには気付いてる」

「行動というのは?」

「今日、金平を私達二係である場所に連れて行く。そこで彼がする全ての行動という意味よ。その場所には車を出していくつもりだけど、あなたのマンションが丁度通り道なのよ。だからその時、あなたを拾っていこうと思っている。詳しい話はその時にね」

「その場所というのは?」

「国立研究開発法人情報通信研究機構ニューラルネットワーク研究所」

 峯岸は一拍間をとって、こう言った。

「リボットを生み出した場所よ」

 

 峯岸の電話から十五分後。二係のメンバーを乗せた車が二台、先織のマンションに到着した。車は二人乗りのスポーツカーと、四人乗りの乗用車で、スポーツカーからは峯岸と春日、乗用車からは瀬戸と大内が下りてきた。

「お疲れ様です。峯岸さん」

「準備はできてる?先織」

「はい。あの本当に私服でいいんですか?」

 先織の格好は、先日コルヴォ劇場の任務で着ていたような戦闘服ではなく、ロングコートにハイネックセーター、スラックスというラフなものだった。もちろん最低限の武器は携帯しているが、大掛かりの戦闘になった時には、特に防御の面で心許ない。

 そんな先織の不安に、峯岸はこう答えた。

「武器の調達は許可されなかったのよ。重要な任務ではあるけど、大規模な戦闘を行う武装は必要ないってね。だから私もこの服で持てる範囲の武器しか持ってきてないわ」

 そう言う峯岸は、再生工場でも着ていた、タイトなスーツ姿だった。躰にフィットしたこの服の、どこに武器を携帯しているのか、先織は首を傾げるばかりだ。

 と、ここで瀬戸が会話に割り込んできた。

「なんだよ先織。心配なのか?安心しろ。何があっても、テメェは俺が守ってやるからよ」

「それは安心した。是非私の盾なり矛なりになって、無残に散ってくれ」

「うおおおおおおお!期待されてるぜ!」

「違うと思うぞ」

 冷静に大内がツッコミを入れる。性格がまるで正反対のこのふたりだが、なんだかんだで馬が合うのか、戦闘においても日常会話においても、ペアでいることが多い。

 とここで先織は春日にも挨拶をしておこうと、峯岸の背後に――何故か隠れるように――立っている春日を見やった。すると春日は、こちらと眼が合うやいなや、バッと露骨に顔を背けた。その態度に、先織は訝しげに思う。

(なんだ……その……私と会うのが気まずいみたいな雰囲気は。昨日はあんなに楽しそうにお酒を飲んだというのに)

 もっとも、先織の昨夜の記憶は曖昧だった。酔っていたせいか、飲んでいる途中からの記憶が、すっぽりと抜け落ちてしまっている。

(もしかして、春日と喧嘩してしまったのだろうか……駄目だ、まったく思い出せない)

 そう先織が考えていると、パンと峯岸が柏手を打って、二係全員に声をかけた。

「みんな立ち話は終わり。早速目的の場所に向かうわよ。ほら、先織も車に乗りなさい」

「あ、はい」

 春日のことは気になるが、取り敢えず今は仕事に集中する。先織は当然のように、峯岸のスポーツカーに向かって歩き出した。すると、峯岸は先織の肩を掴み、もう一台の車を指さして、こう言ってきた。

「あんたは向こうの車に乗りなさい」

「え?しかし任務の詳しい話を聞かないと」

「瀬戸と大内も向こうの車だから、詳しい話は二人から聞きなさい。ほら春日。あんたは私と一緒よ。さっさと乗りなさい」

「あ……わかりました」

 先織に目を合わせようとせず、峯岸の車に助手席に乗り込む春日。峯岸も車の運転席に座ると、すぐににエンジンをかけ、こちらの車を待たずに走り去ってしまった。

 その車の後ろ姿を、ポカンと見送る先織。すると彼女の背後から、ニョキッと眉間にしわを寄せた瀬戸が現れた。彼は名探偵よろしく、彼女に意味深なことを言ってくる。

「怪しいな。あの二人」

「……馬鹿な。お前は何を言ってるんだ」

 先織は瀬戸の言葉を笑い飛ばした。ただし、顔を引きつらせながらだが。

「別に、おかしなことじゃないだろ?ふたりとも独身だしよ。職場恋愛ってやつも良いもんだ。だからよ先織。俺達も付き合――」

 だらだら話す瀬戸を無視して、先織は不安げに思った。

(まさか、峯岸さんと春日が……)

 信じられない。だがそう考えると、自分に対する春日の余所余所しい態度も――

 先織は胸が絞めつけられた。


 先織が車の後部座席に乗り込むと、助手席には見慣れない男が乗っていた。どうやらこいつが元国会議員の金平のようだ。ガマガエルを思わせるような潰れた顔をして――先織は知らないが峯岸も同じことを考えた――、不気味な笑い方をする男だった。

「おお。あなたが先織杏さんですが。これはまた峯岸さんとはタイプの異なる可愛らしい人ではありませんか」

 先織は金平を無視して、窓の外に眼を向ける。瀬戸が隣に乗り込むのを確認すると、大内がエンジンを掛け、車を発進させた。先織は窓から見える景色を眺めながら、大内が話す任務の詳細を、頭のなかで整理していく。

 リボット。『器』に記憶を移して、人間を再生する技術。その技術は60年前に人類が陥った破滅の危機を救世したと同時に、人類に――擬似的ながらも――不死をもたらした。

 全人類がリボットに生まれ変わった現時代では、リボットシステムは人類の生命線だ。

 そのシステムに欠陥がある。そしてその欠陥を解消するためには、国立研究開発法人情報通信研究機構ニューラルネットワーク研究所にある修正パッチが必要があり、そのありかをこの元国会議員の金平が知っているというのだ。しかし、60年前の国家機関は現在は警察が厳重に管理しており、金平一人では研究所に入ることができない。そのため、警察の支援――監視――の元、研究所で修正パッチの捜索を行おうというのだ。

 正直疑わしい話だ。その内容もさることながら、助手席から下卑た笑顔をこちらに向けているこの男が、人類を救う話を持ってきたなど、先織には到底信じられなかった。

「いやいや。それにしても、峯岸さんといい先織さんといい、いやあ、ここは美人揃いですな。このような二人が、危険な職場で働いているなんて、これは由々しき事態ですぞ。どうでしょうか?こう見えても私、それなりに顔が利きましてな。もっと高収入で安全なお仕事を、お二人に紹介できると思うのですが。宜しければ、この仕事が終わった後、個人的に会ってお話をさせて頂けませんか?」

「おい!テメェ何言ってんだ!」

 瀬戸が金平にドスの効いた声を上げる。しかし、金平は瀬戸を無視して話を続けた。

「きっとお力になれると思いますが――」

「揚げ物と焼き物。どっちが好きだ?」

「はい?」

 金平が訝しげに訊き返してきた。

「どっちが好きだと訊いているんだ」

「あの……それはどういう意味でしょうか?」

「もう一度、その悪臭のする口を開いて、同じような下らない事を言ってみろ。お前好みの調理法で料理して、カラスの餌にしてやる」

 金平は、その言葉の意味がわからなかったのか、暫く困惑した表情を見せていた。しかし、すぐに顔をどす黒く染め上げ、怒りの形相で先織を睨みつけてくる。先織はそれを平然と無視すると、任務に向けて集中力を高めようとした。

 しかし、それは上手くいかなかった。

 峯岸と春日は、いま車内でふたりきりになっている。そのことが頭から離れない。

 昨夜に春日と何があったのか。それは未だに思い出せない。だがその時、彼を失望させる何かを、自分はしてしまったのだろうか。もう彼は、自分のことなんか嫌いになってしまったのだろうか。あるいは、自分が気が付かなかっただけで、峯岸と春日は、もともとそういう関係だったのだろうか。自分が勝手に、彼を恋人だと思い込んでいたのだろうか。

 先織の心に不安が渦巻く。そして――

 ズキンッ!

 朝から続く頭痛が――強く疼いた。

 

「あんたたち、喧嘩でもしたの?」

 車を走らせて10分ほど経った時、係長が突然そう訊いてきた。春日はその時、丁度彼女の車のキーにぶら下がっている、ウィンクした猫のキーホルダーに気を取られていた。キーホルダーにしてはデカすぎる。手のひらサイズぐらいあるぞ。などと愚にもつかない考えを巡らせていたため、彼女の言葉にワンテンポ反応が遅れた。

「え?」

 春日が思わず聞き返す。係長は運転しながら、おもむろにタバコを咥えると、大きめのライターで火をつけた。タバコから上る煙を眼で追いながら、春日は呟くように訊いた。

「知ってたんですか?」

「あんたと先織が付き合ってること?それは気付くわよ。思春期のガキみたく、職場でふたり、こそこそと話してるわよね」

 呆れた顔をする係長。

 思春期のガキとは不本意な言われ方だが、思い当たるフシがないわけでもない。先織は――自分もそうだが――恋愛に奥手なほうだ。人前では勿論、ふたりきりであっても、手をつなぐことにすら、真っ赤になって恥ずかしがる始末。そんな彼女が自分の恋愛事情を、職場の同僚に気軽に話せるはずもなかった。

「すみません。別に隠そうとしてたわけではなかったんですが」

「謝る必要なんかないわよ。ただ、真面目一徹の先織(あの娘)に恋人ができたってのは、少し驚いたけどね。ちなみに告白はあなたから?」

「ええ、まあ。ただ先織は、お試し期間で良ければ……なんて言ってましたが」

 そう言えば、そのお試し期間とやらは、まだ続いてるのだろうか。もしかして先織を恋人だと思っているのは、自分の早合点なのかもしれない。

 そんなふうに春日が思い悩んでいると、クスリと係長の笑う声が聞こえた。

「いかにも、あの娘らしい返答ね。片意地張っちゃって。まあでも、お試し期間であっても、オーケーしたっていうのは、あの娘にとっては頑張ったほうなのかしら」

 困ったように、そしてどこか楽しそうに先織の事を語る係長。先織と係長は6年来の先輩と後輩だ。先織が係長のことを尊敬し慕うように、係長もまた先織に対し、単なる後輩以上の想いを抱いているのかもしれない。

「それで、喧嘩したの?」

 係長が同じ質問を繰り返した。春日は昨夜を思い浮かべながら、辿々しく答える。

「……喧嘩と言いますか、意見の食い違いです。ただ、先織は酔ってましたから。もしかしたら、本人は覚えてないかもしれません」

 それは、今日の先織を見て感じていた。こちらの気まずそうな態度を、彼女は不思議そうな眼で見ていたのだ。もし彼女が昨夜のことを忘れているのなら、こちらも変に気にする必要などないのだが。

 などと考えていると――

「春日。そこのカップホルダーにペットボトルのお茶があるでしょ?」

 係長が唐突にそう言ってきた。

「え?ええ、あります。飲みますか?」

「私じゃなくて、あなた飲んでみなさい」

「俺が?別に喉乾いていませんが」

「いいから。ほら飲んで」

 疑問符を浮かべながらも、言われたとおりにする。ホルダーからペットボトルを取り出し、フタを開ける。念のため、鼻を近づけてニオイを嗅いでみたが、普通のお茶の香りしかしない。係長を一度ちらりと見た後に、恐る恐るお茶を口に含ませる。渋みと甘みが舌に広がる。ますますわからない。特になんてことのない、市販されているお茶だが――

「あんたと先織って、もうセックスしたの?」

「ブゥーーーーーーー―!」

 お茶を思いっきり噴き出した。

 ゴホゴホと咳を繰り返す春日を、係長が楽しそうに眺めている。ようやく咳が落ち着いてくると、ずれたメガネを直しつつ、春日は涙ながらに抗議の声を上げた。

「な……なんてこと訊いてくるんですか!」

「あーあ、何やってんのよ。そんな漫画みたいなことしちゃって」

「いや狙ってましたよね?明らかに俺がお茶を飲む瞬間、仕掛けてきたじゃないですか?」

「仕掛けるって人聞きが悪いわね。ほらシミになるでしょ。ちゃんと拭きなさいよ。これ私の車なんだからね。跡が残ったら殺すわよ」

 なんて理不尽な言い草だろうか。しかし、春日は言い返したい気持ちを、グッと我慢した。係長の悪戯は、時と場所を選ばない。油断すればヤられる。それは二係のメンバー全員が、我が身の体験を通じて、心に刻みこんだことだ。残念だが、彼女に悪戯をさせる隙を与えた、自分が悪かったのだ。

 係長は皮肉げに笑いながら、運転席の脇にあるティッシュ箱を、春日にまるごと放った。春日は渋々ながらに、箱からティッシュを何枚か抜き取り、噴き出したお茶を拭きとる。

「その反応を見る限り、まだみたいね」

「まだ続くんですか?その話」

「なんでしてないのよ。私達リボットは妊娠することはないし、何の気兼ねもなくできるでしょ?恋人同士にとってはセックスは有効なストレス発散法よ」

「ほっといてくださいよ。そんなこと」

「先織がまた真面目っぷりを発揮しているってわけ?結婚するまで躰は許さないとか。あんたはそれでいいの?」

「だからいいでしょ別に!そんなこと関係ないじゃないですか!係長はいったい何が聞きたいんですか?」

「あんたが本当に先織のことを愛していて、何があっても最後まで彼女を護ろうとする意志があるのかって訊いてるのよ」

 その言葉に、春日はハッとする。いつの間にか、係長から普段のおどけた調子が消えていた。彼女は厳しく表情を引き締め、真っ直ぐ前を見据えている。ハンドルを切る動作や、何気ない肩の動きが、妙に硬い。彼女は緊張している。それが、春日に伝わってきた。

「どういう……意味ですか?」

 係長は優秀な人間だ。彼女はあらゆる分野で、秀でた能力を発揮してきた。あの意地っ張りの先織が崇拝してしまうような女性。そんな係長が不安を感じている。

 だが何に?

「あなたはこの任務において、何があっても彼女の身の安全だけを考えて行動しなさい。いい?何があってもよ」

「安全って……何があるって言うんですか?今回の任務は唯の監視ですよ。しかもろくな戦闘経験もない元国会議員。危険なんてないと思いますが」

「上層部の連中もそう考えてるみたい」

「何か気になることでも?」

「わからない。まあ、私の勘なんて大してあてにならないんだけどね。ただ人類の命運を握っているっていう仕事が、何も問題なく終わるって思えるほど楽観的じゃないってだけ。金平の話が、嘘か真かを別にしてもね」

 係長の言うことは、春日にも理解することができた。あの金平という男。何か含んでいることは間違いないだろう。しかし係長がそこまで心配するほどのこととは、やはりどうしても思えなかった。

「私の気にし過ぎなら、それはそれでいいのよ。兎に角、お願いだけはしておいたからね」

「……それは、もちろんです。ですが、どうして先織なんですか?」

「勘違いしないでね。先織以外はどうでもいいってわけじゃないのよ。他の連中はそう無茶はしないってだけ。でも先織は違う。劇場でもそうだけど、彼女、自分の命について軽く考えている節があるから」

「死の恐怖が彼女にはないと?」

「リボットシステムの弊害ね。気に喰わないけど金平が言ったとおり、システムは死の観念を変えてしまった。再生した人間は、死んだ直後の記憶がないことが殆どなのよ。だから人は死を恐れなくなってしまった。でもそれは健全じゃないわ。死は恐るべきものよ。それが生物としての当然のあり方なんだから」

 係長はそう言うと、辛そうに表情を歪めた。

「多分、先織だって劇場で死ぬ間際は怖かったはずなのよ。いまの彼女がそれを忘れているだけで。前の彼女がどれほど恐怖し死んでいったか。それを考えるとやるせないわ」

 係長は、前の彼女――と言った。春日がその言葉の意味を理解できたのは、もう少し後になってからだった。

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