第9話 麻木凛音 その2
父親が母親を殺した。そして、私は青葉児童養護施設に預けられることになった。
言葉にすれば、ただこれだけのこと。しかしその現実は、私の世界を一変させた。
青葉児童養護施設で生活が始まった当初は、不安で心が押しつぶされそうだった。家族と離れ、赤の他人と暮らしていく。それだけで10歳にも満たない自分には過度なストレスだった。さらに自分は人殺しの男の娘だ。そのレッテルを張られた自分が、どれほどの誹謗中傷を施設で受けることになるのか、考えただけで躰が震えた。周りが皆、敵になってしまったのだと思った。人殺しの血を持つ自分を、誰も許してくれないと思った。
しかしそれは杞憂に終わった。周りの人間は、自分のことを責め立てることも、罵ることも決してしなかった。それどころか私に同情して、慰めての言葉をかけてくれた。私はホッとした。世間は私が思っている以上に、善意に満ちているのだと、そう思った。
しかし、それは間違っていた。
周りの人達は確かに、話しかければ応えてくれ、優しい言葉もかけてくれた。しかし、誰もが当り障りのない会話を終えると、何かしら理由をつけて、そそくさと彼女から離れていくのだ。
彼女にはそれが不思議でならなかった。嫌われているのであれば、無視をされたり悪態をつかれるものだと思っていた。しかし、周りからそんな仕打ちを受けたことは一度だってなかった。ただ決して深くこちらに踏み込んではこない。
そして、彼女はその理由にようやく気づいた。つまり彼らは、自分が悪人にはなりたくなかっただけなのだ。人殺しの子供とは言え、傷ついた子供に対して、追い打ちを掛けるような真似は、彼らのなかで正義ではなかった。だから同情もするし、慰めもした。
なんてことはない。彼らは自分自身のために善良な人間を演じたのだ。彼女のことを本心で受け入れている者など、初めから誰もいなかった。人殺しの子供と繋がりなど持ちたくない。人殺しの子供と特別な存在になどなりたくない。彼らの心にあったのは、ただそれだけだった。
そして先織は、それを理解し受け入れた。
汽笛を鳴らして電車が近づいてくる。先織はそれを、跨線橋の上からぼんやりと眺めていた。彼女が立つ橋の下を、ゴォオオオっと音を立てて電車が通る。足元から舞い上がる気流に、首筋でまとめた彼女の髪が、バサバサと揺れた。約200メートルもの電車が、ものの数秒で橋の下を通り過ぎる。荒れた空気が徐々に収まり、そして訪れる静寂。彼女は、乱れた髪を軽く手でといて、またぼんやりと線路を眺め始める。
時刻は夕方の4時半。彼女は小学校から施設までの下校途中だった。小学校から施設まではゆっくり歩いても20分はかからない距離にある。しかし、彼女が小学校を出たのは、すでに1時間以上も前のことだ。つまり単純計算で40分以上も、特に好きでもない電車をここからぼんやりと眺めていたことになる。
誰かと待ち合わせをしているわけではない。というよりは、待ち合わせをするような仲の良い者が、そもそも自分にはいない。施設にも学校にも、何処にもいない。その現実を自分は受けいれている。だから、悲しいなどとは思わない。しかし、煩わしくはある。自分に対する、周りの煮え切らない態度が。あきらかに異物である自分を、見て見ぬふりする周りの態度が。不愉快でならない。
だからこうやって、施設の門限まで適当に時間を潰していた。誰もが不幸にならない選択を、自分はしてやっている。合理的な判断。どこも、おかしいところなどない。
それから10分弱。轟音と振動を伴って視界の奥から電車がこちらに向かってきた。ここ数十年の電車の技術革新により――あくまで話に聞いた限りでは――、振動や騒音などはかなり軽減されたらしいが、それでも、巨大な質量を持った物体が、視界の奥から猛スピードで接近し通り抜ける圧力は、やはり凄まじいものがあった。ふと思う。もし橋から飛び降り、その圧力をこの身に受けることができれば――
(ぜんぶ終わりにしてくれるんだろうな)
そう冗談交じりに考えていると――
「ストーップ!ストップストップ!待って!ね?待とうね!話せば分かる!いや違うか。えっと、押すな!押すなよ!って押せってことじゃん。ああっと……とりあえず、早まらないで!早まっちゃダメ!」
甲高い声に物思いを中断させられる。先織は眼を丸くして、声のした方に顔を向ける。
そこには彼女と同じくらいの歳の小柄な女の子が立っていた。その女の子は両手に作った小さな握りこぶしを上下にワタワタと動かしながら、幼い顔に精一杯の険しい表情を浮かべている。そして大きな瞳には何かを必死で訴えかけようとする意志が感じられた。
初めて見る顔だ。橋の上には自分とその女の子しかいない。つまり、この少女は自分に話しかけたと考えて、間違いないだろう。しかし、何をそんな慌てているのか。なぜそんな真剣な顔で自分を見てくるのか。理由がわからない。早まらないでとは、どういう意味だろう。まるで、自殺しようとしている人間に対して、言うようなセリフにも思えるが。
彼女が思い浮かべた疑問は、次に放った少女の言葉によって解決した。
「何があったのか知らないけど、自殺なんて考えちゃダメだよ!」
どうやら、そう見えていたらしい。
だとしたらとんでもない勘違いだ。確かに電車を見て、ほんの少しだけそんなようなことを考えてしまったのは、否定はしない。しかし誰だって車や電車を間近で見ていると、一度くらいはそんな馬鹿な考えがよぎるものだろう。だが本気で死のうとなんか思ってなどいない。そもそも自分には死ぬ理由がない。
(そうだ……私は別に現状に不満なんてない。なるようになったってだけで、そのことに納得しているんだから。そう……)
納得しているはずだ。
――
最後に付け足した無意識の一言。
彼女はその自分の心の言葉に暫く呆然した。
(なにいまの……まるで……まるで自分はそう思っていると――そう自分に思い込まそうとしているみたいじゃない)
そわそわと落ち着きなくこちらの様子を窺っている少女。
(この子は……私が自殺すると思った。私がそんな顔をしていたとでも言うの?)
そう思うと、無性に腹が立ってきた。
それからと言うもの、先織が下校中に跨線橋で時間を潰していると、その少女は偶然を装っては姿を現し、彼女に一方的に話しかけてきた。
「わあ偶然だね。あたしはね、お魚くわえた野良猫を追いかけていたら、たまたま、ここを通りかかったんだよ」
「びっくりした。個人開催した『電車百景をめぐろう』に参加してたら、まさか、こんなところで出会うなんて」
「やっほーまた会ったね。あ、もちろん偶然だよ。今日はね……えっと……なんだっけ?ああそうそう散歩だよ。散歩」
基本的に偶然を装いきれていない少女。さらに後半になるとともに、その理由も徐々にお座なりになっていく。
そして少女は、どうでもいいような世間話を先織に話し始める。彼女は少女のするその話に一切の返事や相槌などをすることはなかった。しかし少女は構わず、彼女が施設に帰る時間になるまで、自分の話に一人盛り上がっては彼女に笑いかけてくる。
そんな日が何日も続いた。
「だからさ、あたし言ってやったんだよ。『そいつは人参の顔をしたゴボウだ』って。そしたらさ、その人は『よく見破ったり―』って言ってね、ゴゴゴゴって巨大化して――」
「ねえ……」
少女と出会って、丁度一週間が経っていた。その間、先織はあくまで聞き手に徹し――聞いてもいなかったが――、少女の話に参加するようなことはなかった。そのため、初めて彼女が声をかけた時、少女は眼をまんまるにして驚いていた。
先織はそんな少女を横目に見ながら、無感情に質問をした。
「一体何のつもりなの?まさかまだ、私が自殺なんてするとでも思っている?」
「え?」
「だから毎日ここに来るんじゃないの?私が自殺しないように見張るために。あんたに何の得があるのかは知らないけどさ。暇なの?暇つぶしに私を利用しないで欲しいんだけど」
感情を制御していたつもりだったが、言葉の最後が思わず強くなった。何をムキになっているのか。こんな少女の戯言など、無視すればいいものを。
だが、一度タガが外れた感情は、もはや自分で止めることができなかった。彼女は堰を切ったように言葉を重ねた。
「それとも何?もしかして私のこと可哀想な奴だとか思ってるの?学校の帰りに独りこんなところにいる私をさ。だとしたらふざけんなって気分よ。私はね、自分が好きで独りでいるの。別に誰かに強制されたわけでもない。自分で選んで独りになっているのよ。人付き合いなんて面倒ばっかだからね。清々するわ。だからあんたも、自分が良い人ぶりたいなら、別の人を探してよね。私の言ってることわかる?迷惑だって言ってるのよ」
父が母を殺した。それから先織に積極的に話しかける人間など殆どいなかった。たまに話しかけてくる人間といえば、仕事や興味で事件を嗅ぎまわっている、下衆な連中だけだ。そいつらは決まって、父親が普段から如何に凶悪で頭のイカレた人間なのかを、娘である彼女から聞き出そうとしてきた。言ってもいないのに、そんな内容の記事を書かれたこともある。それが苦痛でならなかった。少なくても、彼女の眼から見た両親は、彼女にとても優しくお互い仲がよかった。結果としてそれは彼女の勘違いだったわけだが、それでもこの記憶は彼女にとって大事な思い出だった。それを汚された気がした。
だからこそ、自らも他人に関わるのを避けるようになった。そんな彼女の態度は、事件を知らない人間からも敬遠される原因となった。だがそれで良かった。自分と関わることで、お互いが不愉快な思いをするのであれば、初めから関係など持たない方がいい。独りのほうが気楽でいい。今の自分は、自分自身が望んだことなんだ。だから、だから――
「もう……もうここには――」
来ないで!
その一言が言えなかった。
何故なのか。その理由は自分にもわからなかった。ただどうしてもこの少女に、その言葉を言うことができなかった。
急に胸の奥が熱くなる。まるで焼けるようだ。これは一体何だ。どうしてこんなにも苦しいんだ。自分の躰はどうなったんだ。さっきからわからないことだらけだ。
突然現れた少女。自分の思い通りにならない心と躰。
そしてさらに、混乱した頭に追い打ちを掛ける事態が、彼女の眼に飛び込んできた。
少女が泣いていたのだ。
「うわああああん!……ひっく……あ……ああああああん!」
人目をはばからず――とはいえ橋の上には自分と少女しかいないが――、大声を上げて泣き出した少女。
先織は激しく動揺した。
「な……なんで泣くの!ちょっと待て!どうしたの?私?私の所為なの?」
先織は混乱して、幼い子供のように――事実子供だが――大声で泣き続ける少女をなだめようと、必死に言葉を探す。
これが先織杏と麻木凛音との最初の出会いだった。
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