第7話 同僚
春日幹也は困惑していた。
神奈川県警本部組織犯罪対策部組織犯罪対策治安維持強行課二係。この部署に割り当てられた事務作業用スペースは、共有の大きなデスクと係長専用の一人用デスク、捜査資料を保管した棚があるだけの、シンプルな内装で、特筆すべきものはなにもなかった。
春日はその部屋でひとり、書類の整理を行っていた。時刻は午前8時。この時間に出勤していたのは彼だけだ。荒事を担当する強行課であっても、当然の事ながら、事務作業は存在する。今日はこれといって決まった業務もないため、今まで手付かずに溜まった書類を、粛々と消化するつもりだった。
先織杏が現れたのは午前8時30分。小さくアクビをしながら、彼女はふらふらと自身の席に着いた。春日の正面の席。春日はおもむろに立ち上がり、先織に近づいていった。
春日はその時、先織に対して厳しく叱りつけようと、心に決めていた。
「どうして勝手な真似をしたんだ!」
「どれだけ皆に迷惑をかけたか!」
「命を粗末にするなと言ってるだろ!」
「反省しているのか!」
「俺がどれだけ心配したか分からないのか!」
喉元まで出かかったその言葉を、先織は一言で押し留めた。
「ごめん」
先織の愁傷な態度に驚き、春日は口を金魚のようにパクパクさせた。先織は眼を伏せがちに、照れたように「心配をかけたようだな」と続ける。そして次に彼女が放った言葉は、春日にとって青天の霹靂だった。
「おお!なんだよ先織!戻ってきたのかよ!」
午前9時過ぎ。出勤してきた瀬戸が、ズカズカと部屋に入ってきた。瀬戸の呼びかけを無視して、黙々と事務作業をする先織。瀬戸は、そんな彼女の肩に、無遠慮に手を置いた。
「水臭えな。連絡してくれりゃよ、俺のカッケエ車で迎えに行ってやったんだぜ?もう躰はいいのか?痛えところがあんなら言ってみ?俺の熟練したマッサージを―ーぐがっ!」
先織は瀬戸に視線を向けることなく、正確に彼の顔面を拳で貫いた。瀬戸が鼻血を吹き出しながら、バタンと床に沈む。ぴくぴくと痙攣する瀬戸を一瞥することなく、彼女は平然と事務作業を再開する。
「何をしている」
呆れ口調で呟いたのは、瀬戸に続いて部屋に入ってきた大内だった。
「大内さん。おはようございます」
先織は大内の姿に気付くと、席を立ち、丁寧に頭を下げて挨拶をした。大内は「ああ」とだけ返して、ちらりと、春日のほうに視線を向ける。そして眉をひそめた。
「春日。何故机に落書きをしている?」
「え?」
呆けた声を出して、春日は手元を確認する。書類を豪快にはみ出して、机に自身の名前を、つらつらと書き連ねていた。「ああ!」と慌てて文字を消そうと、つい袖口で文字をこすった。当然、水性インクがベッタリと袖口に付着してしまい、春日は再び慌てふためく。
(落ち着け……落ち着け……春日幹也)
先程、ふたりきりの時に言われた先織の言葉。その言葉が耳から離れず、眼の前の業務に集中できない。春日は深呼吸を繰り返して、必死に動揺を静めようとする。
大内は、そんな春日の様子を暫く眺めていたが、すぐに興味を失ったようで、自分の席――春日の隣――に音もなく着いた。
「先織。躰は大丈夫か」
「あ……はい。大丈夫です。この通り、無事再生も済みました」
大内は「そうか……」とだけ言って、口を閉ざした。大内の沈黙は、何かを言おうかどうか迷っている、そのように見受けられた。先織もそれを察したのか、黙って大内の、次の言葉を待った。
時間にして1秒から2秒。大内が口を開く。
「先織。いくら再生できるとはいえ、それに頼りすぎるな。何度も死を体験した奴は――例えその記憶がなくとも――なにかしらの精神疾患にかかりやすい」
「……ですが大内さん。それは科学的に根拠がないと否定されていますが」
先織の言葉は、大内も予想していたのだろう。彼は一度頷いた後、更に続ける。
「確証はない。だから話すかどうか迷ったんだがな。しかし、火のないところに煙は立たないとも言う。関連があるか分からないが、俺と同期の中には、精神病で退職した連中も少なからずいる。脅すつもりはないが、気にぐらいはかけておけ」
「わかりました。気をつけます」
大内の階級は主任で、立場的には係長の部下に当たる。しかし、警察官として経歴ならば――係長も含めて――二係の中で、最も古株だ。そこで培われた、幅広い知識と潤沢な経験。それを持つ彼の言葉だからこそ、頑固者の先織も素直に聞き入れる。無論、春日も同様だ。含蓄のある大内の助言を無下に扱うなど、愚か者のすることだろう。
そして――ここに愚か者がひとりいた。
「相変わらずおっもしろくない話すんねえ。大内のおっさんはさ。頭おかしくなるやつは弱いからだよ。弱いの。その点、俺も先織も強いんだから大丈夫だって。なあ」
唐突に復活した瀬戸が、先織の隣に近寄って脳天気な発言をする。先織はきっぱりと無視するも、彼は一切へこたれることなく、彼女の肩を抱き寄せ、話を続けた。
「ところでよ先織。いい機会だ。復活記念にあの返事聞かせてくれねえか?覚えてるだろ?1年前に告ったの。お前はあん時『死ね。失せろ。裏返れ』って照れて言ってたけどよ。そろそろ自分に正直になって、俺の胸元に飛び込んできてくれて構わ――ぐふ!」
先織に肘で腹を打たれ、おとなしくなる瀬戸。いつもの光景だ。言い寄る瀬戸を邪険にあしらう先織。しかし、彼女が瀬戸のことを嫌っているかというと、そういう訳でもない。
瀬戸の徒手での戦闘能力は、先織も高く評価している。ただ、彼の軽薄な態度と浅薄なモノの考え方が、彼女は気に入らないらしい。信頼はできるが信用はできない友人。先織にとって瀬戸とは、そういう存在だ。
「そうだ大内さん。峯岸さんは、やはり今日は来られないんですか?」
先織が思いついたように、大内に問うた。
「一日会議だ。コルヴォ劇場のときと同じ案件らしいな。俺も詳しく聞いていないが」
「そうですか……」
少し残念そうに呟く先織。その呟きに反応して、三度、瀬戸が彼女に近づく。
「なんだよ先織。随分寂しそうじゃん」
「寂しいってなんだ。昨日見舞いに来てもらったから、お礼言おうと思ってただけだ」
先織が顔をしかめ、口を尖らせる。しかし瀬戸は「カッカッカ」と笑い飛ばした。先織に顔を近づけ、おちょくるように言う。
「まーた。素直じゃないねえ先織。お前が係長の狂信的な信者だってのは、強行課じゃあ有名な話なんだぜ?二人共独身だしよ。噂じゃ禁断の花園も――げひっ!」
「貴様!大概のことは聞き流すが、そういった下品な冗談は許さんぞ!」
顔を赤くして、瀬戸をゲシゲシと蹴りつける先織。軽快な骨折音を奏でながら、瀬戸の躰が面白いようにねじれていく。大内は溜息をするも、別に止めるわけでもなく、自分の仕事に取りかかりはじめた。
普段であれば、ここで春日が先織の暴走を止めるところなのだが、今回に限っては放っておくことにした。というより、それどころではない。深呼吸を繰り返したり、このように状況を俯瞰視して、平静を保とうとしても、やはり、無駄だった。それほどまでに、さきほど先織が言った言葉のインパクトは、春日にとって大きかった。
彼女は春日にこう言ったのだ。
今夜、私のマンションに来ないか――と。
春日と先織が付き合い始めて半年。彼女の部屋に行くのは、今回が初めてだった。
つまり、そういうことなんだよな。そういうことだって考えていいんだよな。ついにそういうことになるんだよな。
春日は今夜のことを想像して、徐々に肉の塊と化していく瀬戸を、にやけ顔で見つめた。
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