05 ある火、君がもえて
× × ×
――人のいない公園で滑り台やぶらんこに座っていると、中一の冬の日のことを思い出す。
二年生への進級を目前に控えた三月。これまで溜め込んできた様々な想いが胸の奥でくすぶって、毎日が苛立たしくて仕方なかった。
特に何もなくても、ただ誰かと視線がぶつかっただけで、その摩擦が心のどこかをちりりと焼いて苛立ちを募らせる。そうした日々が積み重なって、きっとあの日に限界を迎えたのだろう。
その数日前に進路調査があり、あの日には保護者を交えた――祖母との三者面談があった。
何も書かずに提出した進路調査のことで担任が祖母に何かを話し、祖母が何かを答えていた。今となっては何があの日の自分を苛立たせていたのか思い出せない。なんでも良かったのかもしれない。怒りの理由なんてそんなものなのだろう。
祖母とそのまま帰宅することが嫌で、逃げ出したのだ。
――それがあたしの爆発代わり。怒鳴ったり手をあげたりも出来ず、意味もなくどこかを目指して走り出した。
白い息が目の前を覆うほどに溢れ、胸の奥が締め付けられるように苦しくなって、仕方なく足を止めた場所は知らない公園だった。
寒さのためかひと気がなく閑散としていて、野ざらしの遊具に自分を重ねて、寄り添うようにぶらんこに揺られ、なんとなく高い所に行きたくて滑り台の上で膝を抱えた。
日が暮れ、空が暗くなるにつれ気温が低くなり、肌が粟立って身体の芯から震えが広がる。雪でも降りそうな寒さに凍えながらも、遣る瀬無い怒りはあたしを意固地にさせた。
……帰りたくない。
今も昔も、同じ想いを抱えていた。
もしも自分がマッチ売りの少女なら、温もりなんて求めずに、その辺の林に火をつけるだろう。ミサイルがどうのこうのうるさいな、そんなに撃ちたければさっさとこの街を火の海にしちまえよ。
周りがみんな燃えてしまえば、こんな
胸を焦がす炎に煽られるように、過激な空想に浸っていた。
その時だった。
『あなたが望むなら、わたくしは炎を授けますわ』
それが出逢い。
もしもこの奇跡に恵まれなければ、あたしのケモノは世界を焼いたのだろうか。
× × ×
『――
彼女の言葉が、今は胸の内に温かな火を灯している。
汗ばむくらいのその温もりが、なんだか嫌いじゃない。
初めてちゃんと口をきけた。
『あ……あっ、ごめんね、変なこと言って。あはは……』
『っ……、ぇ、別に……』
……いや。
思い返せば頬を焼くくらいにぎこちなく、意味もなく叫びたいくらいぐだぐだだったけれど。それでも。熱くなって、ふやけて溶けそうに柔らかくなる頬を止められない。
『でも、だけど……あの、えっと……すごく、きれいだと思う。……羨ましい。私なんて、髪、こんなんだから……』
何かコンプレックスでもあるのか、肩にかかる黒髪に触れながら視線を逸らし、彼女は照れたように微笑む。
視線を逸らされたことも気にならなかった。自分の心音が静かな教室に響かないかと焦り、口の中はからからに乾くのに、握りしめた手の平にはやたらと汗が滲む。
『えと、あの、何っ言ってんだろ、私。あはは……。変なこと言って……。あ、別に紅坂さんのことが変とかじゃなくて……』
一人あたふたと混乱する彼女を見て、少しだけ落ち着けた――
『あぅ、えっと、違うからね!?』
……かと思えば、突然大声を出すものだから、鼓動が一瞬跳ね上がる。変調の激しい音楽を聴いているような、唐突な展開が連続するホラー映画を観ているような、とても心臓に悪い会話だった。
『ぁの……紅坂さんがちゃんと戸締りしてるかとか、別に、そういうんじゃなくて、えっと……そうだ! 忘れ物っ、ノート、忘れて……ノート、ノート……』
怯えているのだろうか。緊張しているのだろうか。ぎこちない足取りで自分の席に向かい、ついさっきまで
取り繕うようにカーテンを引いた。レールを滑るその音が、沈黙の間隙を縫ってくれる。
『ぁ……紅坂さんも、もう帰るの……?』
その言葉に少しだけ寂しさを覚えた。それから、自嘲。何を期待していたんだ、と――分かり切っていたことじゃないか。一緒になんて、帰りたいはずもない。
本来日直である
『じゃあ』
あぁ、先に帰っちゃうのか。
ただつらくなるだけなのに、彼女を振り返っていた。
『一緒に帰らない……?』
――その言葉に、どれだけ救われたことか。きっと彼女は気付かない。
『…………、』
声が出なかった。首でも絞められたみたいに息苦しく、そのせいで――そうだ、そのせいで、涙が溢れそうになる。唇を噛んで、崩れそうになる表情を隠すように背を向けた。鼻をすする。ごまかすみたいにカーテンを引いた。何かに引っかかってうまく閉まらなかった。様にならない。馬鹿みたいだ。
答えを待つような静寂。あと一歩。それだけなのに、この足は重すぎる。
積もり積もった過去が足枷みたいに絡みつき、
『湖咲っ』
(分かってるよ……!)
叫びたいくらいなのに声が出なくて――こくんと、背を向けたまま小さく頷いた。
……気付いただろうか。気付かなかったかもしれない。悔しくて――
『ぁっ……、じゃあ私が戸締りするからっ、紅坂さん帰る準備しててっ』
――恥ずかしかった。
見れば、窓に自分の顔が映っている。慌てて近付いてくる実来の姿も。きっと全部……隠そうとしていたもの全て、彼女は気付いていた。
反対側のカーテンを引っ張ってきて、真ん中で合流した彼女がはにかむように微笑んだ。まるで子供になった気分だった。
湖咲が帰り支度を整えている間も、彼女は待っていてくれた。それから、一緒に教室を出た。廊下を歩く。足早になる。彼女が遅れて、でもしっかりついてくる。掛け替えない時間が過ぎていく。
会話はなかった。だけど苦にならない。もったいない気もした。これでいい気もした。
心の底に澱んだ何かが、すっと消えていくような――何かが満ちていくような。
胸の奥に甘い痺れが広がって、その息苦しさすら心地好い。
夢でも見ているんじゃないかとさえ思った。踏み出す足から力が抜けてそのまま倒れてしまいそうだ。踏み出した先に体が沈んで溺れてしまいそうだ。
幸せだった。たぶん、これはそういう気持ち。きっと一生忘れない。
そして、この瞬間がこれから先も、一生続けばいいと――
――だけど。
『じゃあ、私こっちだから。
『……うん』
永遠なんて望めない。
あのチビが憎らしい。
……待たせてる。来てくれると信じている。待っていると信じている。そういう関係になれたら。
『また明日ね』
まずは、そこから――始められたら。
手を振り笑顔をくれる彼女に応えられず、俯いてしまう。少しの間を挟んで、彼女の足音に少しだけ顔を上げる。去っていく背中。名残惜しくて、その手を掴んで引き留めたかった。引き留めてどうしようというのだろう。浮かんでは消えるような衝動が断続的に襲ってくる。声が漏れた。
『あと……、』
なんて呼べばいいんだろう。今更そんなことに
『……?』
蚊の鳴くようなその声に、しかし彼女は気付いてくれた。
どうしてそうも、曇り空に星明かりを探すように、砂漠から砂粒のような宝石を摘み上げるように、闇の中からこの心を掬い上げてくれるんだろう。
聞いてみたかった。
だけど、口から出たのは脈絡のない質問。
『もし、も……』
首を傾げる彼女はいつまででも言葉の続きを待っていてくれそうで、その安心感が息継ぎのように心を満たす。
『魔法が、使えたら……どうする』
しっかりと、なんの改変もなく彼女にこの声は届いただろうか。
魔法? と、実来が首を傾げる。少しだけほっとする。それから急に後悔が襲ってきた。脈絡どころか、突拍子がなさすぎる。
だけど、彼女は――やっぱり。
『そうだね――』
――――その声が蘇る。
唇を噛んで、手の平に爪を立てて、必死に堪えても溢れる涙が憎らしい。鼻をすする。その音が嫌に響く。
公園で一人、もしかすると何年経ってもこうしているのかもしれない。
……聞きたいことはそんなのじゃなかった。
どうして一緒に帰ろうと言ってくれたのだろう。どうして何も言わずについてきてくれたのだろう。あの時何を考えていたのだろう。あれから何を想ったのだろう。
その時、君は。
「あたしは……」
それでも。
× × ×
去り際の彼女の、最後に見せた微笑みが忘れられない。
夕陽が赤く路面を濡らし、まるで燃えているようだった。
『先日、このクラスの
それでも、君といた時間の全てが。
本当に、特別で、大切で――幸せだったんだ。
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