06 愛より憎し(2)




               × × ×




 ……本当にっていうのはね――



「これからたっぷり、教えたげるね……? 



 濡れた瞳をうっとりと子供のように輝かせて、彼女は言った。


 そして――ガリッ、と。

 そんな音が聞こえてきそうだった。


「ぃ……っ」


 愛論めろんの口から引きつった声が漏れた。


 貴世たかせが自身の指を噛んでいる。右手の人さし指の第一関節に歯を立て、噛み千切りそうな強さで。


 ……戦慄した。


 愛論自身が何かをされた訳ではなくても、それでも、これから何かされるような気がして体が強張るのを止められなかった。

 恐怖が刻み込まれているのだ。目に見える彼女の一挙手一投足の全てが、自分に危害を加えようとするもののように思えて恐ろしかった。


「ふふ……」


 心底から震えるくらい妖艶な笑みを浮かべ、貴世はを愛論に近づける。顔を背けようとすれば空いた右手で髪を掴まれ、無理やり正面を向かされた。痛みで呻き、思わず開いた口に、貴世の指が突っ込まれる。


「噛んじゃダメよ……?」

「あ、ぐ……ん」


 喉の奥を突き刺すように貴世の指が侵入する。苦しくて涙が滲む。体の上に乗られているのもあって呼吸もままならず、口内に溜まった唾液を飲み下そうとすれば、貴世の指がより奥に入り込み――すっと引き抜かれる。。それをごくりと嚥下した。


……ふふっ」

「あ……はあ、く……」


 痛くて、苦しくて、恐くて――それだけで、頭の中が空っぽになるような感覚。


 ……あぁ、空が広いなぁ……。


 車道に仰向けに転がって、見下ろす貴世越しに望んだ空は、変わらず青い。

 漠然と、ただなんとなく、それだけを意識に焼き付けたかった。


 もういっそ何も考えず、あるがままに、されるがままに全てを受け入れてしまった方が、いっそ――


「だぁいじょうぶ、すぐに気持ち良くしてあげるから」


 頬を撫でられ、熱っぽい視線を注がれる。


「あぁ、でも……遅いねえ?」

「…………」

?」


(こさっ、ちゃん……?)


「こさっちゃんが来てくれたら、すぐに気持ち良くなれるからね……?」


 何をするつもりだろう。何かを――湖咲こさきに何かをするつもりなのが分かって、体の奥から震えのような感覚が全身に伝わった。


「あはぁっ……そうだ。電話してみる? 携帯持ってるよね……? ……知らない番号からより、メロンちゃんからかけた方が出ていいかも。私たちが楽しいことしてる声、聴かせてあげよっか……?」


 熱く荒い吐息が耳を焼く。傷口に触れて、そのたびにじわりとした痛みが蘇る。


「こさっちゃん、怒るかなぁ? 怒っちゃうかなぁ……? ねえどう思う? ねえったら……ふふ、うふふふ……」

「い、ゃ……」


 体をまさぐる手から逃れようと身をよじるけれど、


「……あったぁ」


 ポケットに入っていた携帯を奪われる。


「この前は鞄に入れてたのに……その空っぽの頭、精一杯使って反省したのかなぁ? ふふ……よく出来ましたぁ。お蔭で鞄拾いに行く手間が省けちゃった」


 耳が、頭がどうかしてしまったのだろうか。

 髪を撫でる手つきに優しさを感じ、甘えるようなその声に慈しみを覚えた。


「じゃあ電話してみよっかぁ……? それとも――自分で電話するぅ? 助けてぇ、こさっちゃぁんって……」


 助けて、と。

 きっと湖咲は来てくれるだろう。湖咲はそういう女の子だから。


 だけど――


「電話、出てくれるかなぁ? そういえばこさっちゃん、メロンちゃんが私のことばかり気にしてるから妬いちゃってたよねぇ……?」


 あぁ、そうなんだ……。


(やっぱり、わたしが悪かったんだ……)


 じゃあ、きっと電話にも出てくれないだろう。

 それも仕方ない、


「とりあえず電話してみよっか? はい、かけて? こさっちゃんが電話に出てくれたら……メロンちゃん助けてあげる」


 それは暗に、代わりに湖咲に何かすると告げているようなものだ。


「出てくれなかったら……」



 ――



 これまでの行為によって刻まれた恐怖が蘇る。その現実味のない言葉を、嫌でも意識した。


 最後にぐぅっと強く踏み込まれかと思うと、右腕の上に乗っていた貴世の膝が離れる。解放された右手に携帯を握らされた。


「電話して……ね?」

「――――、」


 自分の意志で呼べ、と。

 自分が助かるために友達を切り捨てろ、と。


(……


 ――想う。


 死んでしまったら、お母さんが、お父さんが――こさっちゃんが、悲しむ。

 たぶん、きっと。


 だから――



「……え?」



 死にたくない。



(……お父さん、お母さん、ごめんなさい――)



 ……



「ぁあああーっっっ!」



 ――力いっぱい、携帯を放り投げた。


 、大事な友達を失いたくないから。



「何……



 ピキリ。

 まるでヒビが入ったかのように、彼女の表情が軋む。


「え? 何? 自己犠牲……? は? はぁ……?」


 自己犠牲? ……そんなものじゃない。


(こさっちゃん……)


 大事な友達を、こんなひどい目に遭わせたくない。

 ただ、それだけだ。


「……ムカつく……。ムカつく、ムカつく、ムカつく……!」


 俯きながら――血が滲むほどに唇を噛んで。


「そんなに死にたいなら、」


 ゆらりと、貴世が立ち上がる。

 そして。


「え……?」


 何かを呟いた。

 それはあまりにもこの場に不似合いで、場違いな台詞で。



 直後――彼女の姿が掻き消えた。



「あ……れ……?」


 まるで全てが悪い夢だったかのように、シンと静まり返る街に一人取り残される。

 重たい体に鞭打つように起き上がって、周りを見回した。

 投げ飛ばされた時に手放してしまった自分の鞄と、投げ捨てた携帯、遠くに彼女が存在していた唯一の痕跡、彼女の鞄が転がっている。


「きよ、ちゃん……?」


 肝心の彼女の姿はどこにも見当たらない。


「…………、」


 全身からどっと力が抜けた。思わずその場に倒れこみそうになる。


(たす、かった……?)


 まだ少し信じられず――嫌な予感に駆られて、すぐにでもこの場を立ち去りたかった。

 立ち上がり、まずは鞄と携帯を回収しようと振り返ったところで、


「いっ……!?」


 背中に衝撃を感じ、愛論は前のめりに転びかけ、すんでのところで立ち止まる。


「な、何……、」


 何もいない。何も見えないけれど、今のは――身体が覚えてる。


 ――蹴られた?


(……いる……まだいるんだ……っ)


 

 それに気づいた時、心臓が止まるかと思うほどの恐怖に囚われた。


「あ……」


 見えない。感じない。分からない。なのに。徐々に力がこもり、それがふっと離れたかと思うと――また蹴られた。

 今度はそのまま蹴り倒され、愛論は地面に倒れ込む。アスファルトについた手の平が痛んだ。心臓がばくばくと脈打って、全身の擦り傷から血が滲むような痛みに襲われる。じわりと涙が溢れた。鼻水が止まらない。


「っ」


 ……動けなかった。


 それは愛論の理解の範疇を遥かに超えた、超常の何か。

 に、遥風はるかぜ愛論の心は折れそうだった。




               × × ×




 まるで足が使えなくなったかのように地べたに這いつくばって、肩を震わせている。


 遥風愛論はに怯え、完全に屈していた。


 姿――


「あはっ」


 糸群いとむら貴世は笑う。


 今の貴世は、ついさっきまで愛論が怯え注視していた時の姿とは異なっている。

 つばの広く先のとがった黒い帽子を斜めにかぶり、ローブを思わせる黒い装束にスカート、愛論をいたぶり続けた足は黒いブーツを履いていた。この足で蹴れば単なる打撲では済まないだろう。それを示唆するように、貴世はブーツを愛論の鼻先に突きつける。


 しかし、


 這いつくばる愛論の頭のすぐ上に立っているにもかかわらず、その足元に伸びる影が愛論を覆っているにもかかわらず、彼女は気付かない。彼女には分からない。彼女には聞こえない。誰がその手を踏みつけ脇腹を蹴り髪を掴んで鳩尾に膝を叩き込んでいるのか、そして笑っているのか。


 


「ねえ、恐い……? 痛い? やめてほしい? なら私の前で土下座して、靴でも舐めてみる? ――まぁ、聞こえてないんだけど」


 透明人間にでもなったかのように相手を一方的にいたぶる、この優越感。


 たまらない……!



 ≪あまりやり過ぎると『結界フィールド』を出たあとも、彼女の中に君に対する恐怖心が残ってしまうよ≫



 ――と、水を差すような声が貴世の


 それは青年のような声をしていて、貴世を諭すように語り掛けてくるが、生憎と良心や理性の類ではない。仮にそういう役割を担っていたとしても――


「だからなんだって言うの?」


 ≪肉体の傷や記憶を消すことは出来ても、精神に刻み付けられた感情きずは容易には消えないものだからね。無理にどうにかしようとすれば、≫


 ……人格にひととして問題をきたす、と。


(そんなことは知ってるし、正直この子どうなろうが、どうでもいい)


 廃人になろうが構わないのだが――そこまで、するつもりはない。

 いや、正確に言えば、今そういう警告をされなければ感情に任せて取り返しのつかないことをしていた可能性は否めない。


「…………、」


 少しだけ、冷静になる。


「……ある程度の恐怖心は残しておいた方が、お互い都合がいいでしょう。私としてもうっとうしい子に付きまとわれなくて済むし、脚の件を追及されることもなくなるはず」


 走れないはずの脚――走ることは諦めるしかない、治る見込みはない、――その脚が、『

 常識に縛られたこの現代社会においてありえない、あってはいけないことが起こったと、誰にも知られる訳にはいかないのだ。確信にまでは至っていないのかもしれないが、愛論の観察眼のようなそれは看過できない。このまま付きまとわれれば、いずれ露見するかもしれない。


(そうしたら……私はこの力を失う)


 ≪正確には、『魔法少女』として『魔法』が行使できないよう対応する≫


 魔法の存在が世間に露見しないようにする処置。

 一般人に、魔法の存在を知られる訳にはいかない。

 だから。


「私は。『認識できない』ことと『魔法の制約』は別問題。『使い魔コンフィ』には私を止められない。でしょう?」


 ≪そうだね。魔法少女に変身することで一般人から認識できなくなり、その上で君がその子に危害を加えることはだ。君がすることに僕は関与しないよ。だけど、君が魔法でその子に危害を加えようとすれば、僕はそれを止めるからね≫


「どのみち、『結界フィールド』の中じゃ魔法を使ったって、外に出れば忘れるんだから……」


 ≪それとこれとも別問題だよ。『魔法』で人間に危害を加えること……露見することとは別に、それ自体を僕たちは禁じているんだ≫


「……ふん」


 なんだかんだ言いつつも、愛論に対する行為を咎めはしない。魔法の存在が世間に露見さえしなければ、契約者である貴世が何をしようとこの『使い魔コンフィ』は構わないのだ。


「ねえ、救援要請コールはかけたの?」


 ≪だいぶ前にね。だけど、要請に応じてやってくるかどうかはその人次第。むこうにもむこうの事情があるからね。それに、こちらの事情は関係ない≫


「やってこなくっちゃぁ……大好きなメロンちゃんが、死んじゃうよぉ……?」


 可愛いお顔だけはやめてあげるね。だけど他は、壊れちゃっても知らないんだからね――



 ≪――君は誰かに自分を止めてほしいのかな?≫



「……うるさい」


 苛立ちまぎれに愛論を蹴ろうと足を上げる。今や彼女は息も絶え絶えで意識を保っているのが不思議なくらい――



「……つかまえ、た……」



 貴世のブーツに、縋りつくように――



「なんで……、」


 見えないはずなのに。認識できないはずなのに。


 ≪見えなくても、認識できなくても、君という存在はこの世界に存在する。何かの拍子に接触することは不思議じゃないよ。君が、彼女にそうしているようにね≫


「だからって……」


 まるで、見えているかのように。

 思わず動きを止める貴世に縋りつき、足首を掴んで、形をなぞるように手を這わせながら貴世を頼りに愛論は身を起こす。


 ≪他に類を見ない例だね。考えられるとすれば、生存本能というものかな≫


「生存、本能……?」


 ≪君の声も、君が発する音も彼女には聞こえない。認識できない。今だって、彼女には君の脚に触れている感触も、体温も認識できていないはずだよ。せいぜいがを得ているに過ぎない≫


「じゃあ……」


 愛論が見上げている。確かにその目は貴世の顔を捉えていない。にもかかわらず、目が合っているような気がして――絶対的なはずの優位性が損なわれそうな危機感に身が竦む。


 ≪それでも彼女は、君の暴力に耐え、嗚咽を堪えながら、必死に君の気配を探していたんだろうね。君の動きによって生まれる空気の変化を感じ取り、自分を蹴る君の足の動きの軌道を予測し、そうして――認識できないよう極限まで薄められた君の存在を、彼女は捉えたんだ≫


「……あはっ」


 ただの馬鹿だと思っていたら――反撃しようとするように、愛論は唯一武器になりそうなギプスに覆われた左腕を振り上げ、貴世の腰を、


「殴れない!」


 その左腕は、いとも容易く弾かれる。


「そんな下らないだって、『攻撃』である以上は私の自動防御オートガードに阻まれる。つまり、あなたは『変身』した私にはどうやったって敵わない!」


 希望が砕かれたような顔をする愛論を見下し、貴世は震えるような愉悦に酔いしれる。愕然とする愛論のその左腕を、思いっきり蹴りつけてやった。


「あ、ぐ……」

「ほら、もうちょっと頑張ってみせてよ。ほら、ほら、ほらほらほら!」

「ッ……!?」


 両腕で守るように頭を抱えて、愛論は体を丸めて必死に縮こまる。


「…………く……い……」

「うん? なんだって? もっとおっきな声で言ってごらん?」

「……死に…………い」


 貴世に応えた訳じゃないだろうが、今度はハッキリと聞こえた。


 ――死にたくない。


「あはっ……!」


 それが聞きたかった。

 その醜い本心エゴが――


「死にたくない? 死にたくないんなら――、」

……、」

「あ……?」



 ――泣いちゃう。



 湖咲が、悲しむから、と。



「…………」


 貴世は再び動きを止めた。動けなかった。頭が、うまく働かない。


「なんなの……? 馬鹿なの……?」


 どうして、ここまできて、また――まだ、他人のことなんて。


「おかしいんじゃないの……?」


 おかしい。


 ……おかしい。


 煮えたぎるような熱に、憎悪に、全身が沸き立つようなのに、頭の芯が、心の奥の方がどんどん冷め切っていく。



「ぁァああああああああああッッッ!」



 ――



 これまでにない絶叫が空気を震わせ――――



「……つまんないの」



 無人の街に、それに相応しい沈黙が落ちた。



 ……今更やってきても、もう遅いけれど。



「私を楽しませてね、?」



 ――あはっ……!



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