05 愛より憎し(1)
× × ×
この歳になると滑り台は少し狭苦しく感じた。
それでも滑り台の上で膝を抱えて、普段よりも高い位置から見渡す景色には心を刺激するものがある。
「……はあ」
砂場やブランコで戯れる子供たちを見下ろしながら、
何をやってるんだろう、こんなところで。
「何をやっているんですの?」
背後から声がかかる。湖咲は振り返らず、心の中で答えた。
(……純粋な子供心ってやつを、取り戻したいんだ)
「黄昏てますのね」
取り戻すも何も……。
(……あたしは子供かよ)
あのまま一緒にいると、貴世の悪口を言ってしまいそうで――貴世に執心している愛論はそれを不快に思うかもしれなくて。
(……要するに、嫌われたくなかったから……)
膝に顔を埋めて、愛論は今どうしているだろうと思いを馳せる。どうしているも何も、きっとクラスメイトに誘われて一緒に帰っているのだろう。あたしなんて必要ないんだ……なんて、そんなことを考える子供っぽい自分が嫌になる。
「……はあ……」
ため息はもう何度目か。
(……だいたい何なんだよ、あいつは……)
転校生、
――にぃ……。
あいつは笑っていた。嗤っていた。
あの日、階段から転落して骨折し、その病院帰りの愛論を相手に、包帯にギプスをつけた彼女を見ても表情一つ変えないどころか、わざと鞄を足元に落としたかと思えば、自分の足下にしゃがみ込む愛論を見下ろして――そして湖咲に目を向けて、薄らと、気味の悪い笑みを浮かべていた。
証拠なんてないが、湖咲は貴世が愛論を階段から突き落としたのではないかと確信している。あの笑みが、そう思わせた。
(……なんで……)
あんなヤツの、どこがいいのか。
むしゃくしゃして、湖咲は足を伸ばして滑り台に踵を打ち付ける。べこっと鈍い音がした。
「だいぶストレスが溜まってるようですわ。……そんな湖咲に朗報ですの」
「あ……?」
頭上を仰ぐと、赤い羽毛に包まれた鳥のようなものが浮いている。
それはルビーのように赤い瞳で湖咲を見下ろし、黒みがかったくちばしを開いた。
「近くで『
「タイミングいいじゃん……!」
こういう時は体を動かすに限る。
たとえそれで何も解決しないとしても――
「お、お姉ちゃん」
「……あ?」
背後から恐る恐るといった声音で呼ばれ――これまで「お姉ちゃん」などと呼ばれた覚えがないからすぐにはピンとこなかったが、どうやら自分に用があるようなので振り返ると、
「す、滑らないんなら、どっか行ってよ……っ」
「…………」
そこらで遊んでいた男の子が怯えたような顔をしながらも、後ろに妹らしい女の子を連れて、湖咲を見上げていた。その様がまるで湖咲から妹を庇うかのようで、そうでなくても見ず知らずの子供にそんな顔をさせている自分に呆れてしまう。
「……言われなくてもどっか行くよ。悪かったな」
ばつの悪い想いを抱えつつ、湖咲は「あっち向いてろ」と兄妹の視線を自分から逸らす。
ちらりと周囲に目を向け、こちらを見ていた子供たちが一様に顔を背けるのを確認してから、立ち上がった。
「…………」
滑り台を滑るには、腰の辺りが引っかかりそうで――湖咲は銀色の斜面を駆けおりる。
(どうせ……ここはもう、あたしの居場所じゃないんだ)
次の瞬間――兄妹は気付く。
「……あれ……?」
恐いお姉さんの姿はどこにもなかった。
× × ×
――不穏な響きが、近づいてくる。
「きよちゃん……?」
制服姿の糸群貴世が車道を歩いている。
無人の街を単なる背景に変えてしまうほど、ゆっくりと歩を進める彼女の存在感は大きく、独特の空気をまとっていた。
手にしていた鞄を道路に放り投げ、貴世は制服のポケットにその手を突っ込んだ。
「私はあなたのこと、なんて呼ぼうか」
「え……? な、なんでもいいよ? あ、だけど『アイロン』はダメだから! わたしはメロンだから!」
「……ウォーターメロン……ぷっ、くくく……っ」
「え? 何? えっ?」
顔を俯け、肩を小刻みに震わせながらくつくつと笑う。
(えっ? え……っ? 何?)
何が面白いのか分からなすぎて恐い。
急にどうしたのだろう。こんなキャラだっけ? というかここは怒るべきところかな?
愛論は戸惑い、本能的に一歩後ずさっていた。
「逃げないでよ」
「っ……」
一瞬、愛論は貴世の姿を見失う。
「お喋りしたいんでしょう?」
気付けば、貴世は愛論の目の前に立っている。
走ってきた……のだろうか。
あまりに早すぎて、よく見えなかった。
というより、理解が追いつかない。
(な、何……? これは……普段から走らないようにしてるのは、こういう時に真に力を発揮するため、とか……。でもこういう時って?)
少年漫画的な解釈を試みるが――
「あう……っ!」
不意に胸倉を掴まれ、愛論の足は地面を離れた。
貴世は右手をポケットから出していない。左手だけで愛論を持ち上げているのだ。
いくら小柄とはいえ、同年代の少女が片手でいとも容易く持ち上げられるほど軽くはない。
「と言っても、話を聞くのは身体の方だけどねえ?」
え――、と。
体が宙に浮く。景色がゆっくりと流れ、うっとりするほど酷薄な笑みを浮かべる貴世の顔を呆然と眺めていた。
「ッ」
衝撃は唐突に訪れる。ギプスを巻いた左腕からアスファルトの上に激突し、愛論の体はごろごろと車道を転がった。腕や脚が擦り剥け、鈍い痛みが全身を襲う。
「いっ、た……、」
目に涙が浮かぶ。視界が滲む。近付く足先がぼやけて映る。
「私はただ、服を掴んで、放り投げただけ。別に、
まるで言い訳するみたいに。
「何をやったっていいでしょう? ……あはっ!」
訳が分からなかった。
彼女の独り言のような呟きもそうだが、いったいぜんたい彼女が何をしたいのか、どうして自分がこんな目に遭っているのか。
考えてみても、その理由が分からない。
わたしのことが嫌いだから、こんなことをするの?
だけど、それなら――それなら。胸の奥がズキリと痛む。
愛論には他人の感情がよく分からない、けれど。
――彼女からは、悪意も感じない。
「ふふ、くくく……」
楽しそうな笑い声が聞こえる。
「私、あなたみたいな子がすごく好き」
感じないのではなく、麻痺していたのだと気付く。
それは愛論の理解を遥かに超えた、とてつもない悪意なのだ。
だって、そうじゃなきゃ、
「好き。好きよ。すごく好き。だってほんと、毎日が楽しそうで、見てるこっちまで笑顔になっちゃいそうなんだもの。ほんっと、何考えて毎日生きてるのかなって、不思議になるくらい、毎日、毎日っ、毎日っっっ、」
愛を囁く息継ぎの合間に、
「あっ、ぐ……いっ、が……」
蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って、
「ねえ何考えて生きてるの? それとも何も考えてないの? 馬鹿なの? ねえ毎日なんで笑ってるの? 笑ってられるの? 幸せなの? ねえ、ねえったら。お喋りするんでしょ? なんか言ってみなよ、ねえ!」
――こんなひどいこと、するはずがない。
まるでボールになった気分だった。
「私さ、ほんとにね、あなたみたいな、いわゆるリア充? 見てるとさ、すっごくね……わくわくするの!」
「やめっ――」
薄らと開いた視界に、彼女の靴が飛び込んでくる――
「わくわくするのよ」
「あ……、」
それが目の前でピタリと止まり、全身の力が抜けるような、大きな吐息が口から漏れた。
「みんなで楽しそうにしちゃってさ。でも、ほんとは何考えてるの? 本当はお腹の中どろっどろで、心配するフリしといて、本心じゃ死ねばいいのにとか思ってるんでしょ?」
「…………」
「私はね、そういう、あなたたちのきったない本心を想像すると、わくわくして仕方ないの」
……もう、彼女が何を言っているのかもよく分からない。
「……ねえ、別にそんなに痛くないでしょう? ちょっと足でつっついただけじゃないの。大袈裟に痛がらないで? え? 力の加減を考えろって?」
愛論は何も言っていない。熱を帯びたアスファルトの上で仰向けに転がって、ただ自分を見下ろす少女の顔を見上げている。
「あなたに言われたくないよ、メロンちゃん? だって、あなたも私に同じことしてたじゃない。その無神経さと同じことだよ? これでお揃いだねえ?」
涙を浮かべて、笑っていた。本当に楽しそうに、嬉しそうに。
「こういうの好きでしょう? お揃い。大好きな友達と一緒。……ばっかみたい! ほんと馬鹿みたいだよね。ペアルックとか、双子コーデ? そんなことしたら、自分たちの頭の悪さが目立っちゃうだけなのにねえ?」
痛い、というより、重い。
全身が重く、思うように動かせない。
頭もうまく働かない。
……訳が分からない。
いっそ眠ってしまいたかった。睡魔のようで死神のような、そんな眠気を覚える。
ふと、視界に影が落ちた。少女が愛論の顔を覗き込むように屈みこんでいて――
「あぁッ……!?」
「あはっ」
これまでにない痛みが左腕を襲う。ぐりぐりと踏みつけられる。
(痛い、痛い、痛い痛い痛い、)
左腕に乗る重みが引いたかと思えば、今度はさっきよりも強い痛みが、重みが圧し掛かる。それは愛論の右腕にも均等に襲ってきた。
「膝を汚したくないからね」
少女が愛論の上に馬乗りになるように座り込んだ。お腹が圧迫されて息苦しく、両手は少女の膝とアスファルトに挟まれ、ぐりぐり、じりじりと磨り潰される。
(…………恐いよ…………)
あはっ――と。
「そんな顔もするんだねえ? お似合いだよぉ? 写メに撮って送ってあげようか、メロンちゃんの大好きなこさっちゃんにでもさあ? ……あ、いけない、鞄さっき捨てたんだった」
はあ、はあ。熱く、荒い呼吸。自分のものなのか、それとも彼女のものなのかもよく分からない。
薄く開いた視界がその呼吸に合わせて上下する。覗き込む少女の顔が、自分の知る糸群貴世のものだとは思えなかった。
「これあげるね?」
と、貴世がそれまでポケットの中に突っ込んでいた右手を抜き、指で摘まんだ銀色の何かを愛論の眼前に突きつける。ピアスのようだ。貴世は左手で愛論の片耳を掴むと、それを――
「っ……!」
「まだまだ」
「ぁっっっ……!」
刺して、引き千切った。
「あ、ぐあっ、うっ……!」
度重なる暴力に朧気だった意識が、悪意に堪えかねて閉ざしていた心が、鋭いその痛みで鮮明になる。
「赤いピアス。……あはっ、よく似合ってるよ?」
「……はっ、はあ、はぁ……」
真っ先に視界に飛び込んできたのは、血に塗れたピアスを見つめる貴世の恍惚とした表情。指先で摘まんだそれに、まるで口づけするように唇を寄せ、赤い舌でちろりと血を舐めとる。こくりと、彼女の喉が動いた。
「変なことしてる、気持ち悪いって思った? でもね、本当に一緒になるっていうのはね――」
……絶望は続く。
(たすけて、こさっちゃん――)
もう何も、考えたくない。
× × ×
「……つまんないの」
動かなくなった愛論を見下ろして、黒い装束に身を包んだ糸群貴世は呟いた。
「もうちょっと頑張ってくれたら――」
ぼろぼろになった少女の、赤く染まったギプスを踏みつけようと足を上げる。
その時だ。
「何やってんだよ、お前はぁ……ッ!!」
……その時になって、ようやく。
「待ちくたびれちゃったよぉ……あはっ!」
お楽しみは、これからだ。
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