03 透いて、いても




               × × ×




「……………………」


 静かだった。

 息苦しいまでの静けさ。

 まるで音を立てることも、笑顔を浮かべることさえ許さないといったような空気。


 ありふれた事故。誰にでも起こりうる不運。

 そして、いずれは皆に降りかかる――


 死。


 みんな押し黙っていた。

 誰かがすすり泣く。それさえ許さないかのように、空気は重く、重く――


(……………………)


 ……なんの感情も抱かなかった。

 ただ、息苦しかった。




               × × ×




 ――病院は思いの外、様々な雑音に溢れていて騒がしい。


 病室は大部屋で、自分などよりも重傷や重病な入院患者やその見舞客がおり、みんな楽しげに語らっている。想像していたよりも明るい雰囲気に少しだけ驚いた。


 ……そっか。

 病院ここは、人が死ぬだけの場所じゃないんだ。


 そんな当たり前のことを思う。

 頭では分かっていたつもりだけど、なんとなく、病院は暗い場所だという印象が強かった。

 もちろん、もっと重傷で重病で、寝たきりだったり治る見込みのない病に冒されている人たちもいるだろう。

 だけど少なくとも、この病室にいる人たちはみんな、希望を持っている。


 ここでは笑ってもいいんだ。


 ベッド脇に腰掛け、遥風愛論はるかぜめろんは右手を顔に当てる。ぎこちなく頬の筋肉を動かしてみる。

 表情が笑みを形作った。



「――アイロン」



 ふと聞こえた声に顔を上げると、


「馬鹿……お前……」


 今にも崩れそうな表情を浮かべ、湖咲こさきが立ち尽くしていた。


「こさっちゃん」


 愛論は笑みを返す。


「学校はどうしたの?」

「お前、ほんとに……、」


 湖咲は何か言いかけてから、不意にむすっとした顔になると、ついさっきまで母が座っていたパイプ椅子に腰を下ろす。


「学校なんてとっくに終わってるよ、馬鹿。それよりお前だよ。大丈夫なのかよ。休み時間に階段から落ちたって……」


 湖咲の視線が愛論の体を滑る。頭に包帯を巻き、左腕はギプスで固定されている。ぶらぶらしている左足の足首には湿布が貼られているが、どこも痛みはない。

 転落した時は額を切って出血していたようだけれど大した負傷ではなく、腕こそ骨折しているものの、足はただの捻挫らしいのですぐに治るという。


「だいじょぶだよー? 全然ヘーキ」

「……ったく、関係ないって思ってたらこれかよお前は。ぼんやりしてるから……」

「うーん……」


 まるで自分が悪いかのような言いようだけど、


「わたし、あの時……誰かに背中押された気がするんだよねー?」

「は……?」


 虚をつかれたかのように、湖咲がぽかんと口を半開きにする。その顔が面白くて愛論は噴き出すが、湖咲の表情は硬いままだった。


「押されたって、本当か? 誰に」

「知らないよー? 気のせいかも? 突然だったからよく分からないけど……」


 確かに突き飛ばされたとは思うのだが、階段から足を踏み外して落ちる寸前、振り返った背後には誰の姿もなかった。ただ呆然とこちらを見ているクラスメイトたちの姿があっただけだ。


「…………」

「こさっちゃん? それよりさー、ママと会わなかった?」

「……あ? あぁ、さっきそこですれ違ったけど……入院させるだとか精密検査させろだとか、あんまりうるさいから。あの人があんなに元気なら、お前も大丈夫だろって思って」

「んー……?」


 あの母が湖咲に言われて帰るものだろうかと疑問には思ったが、彼女に凄まれたら大人でも恐いかもしれないと納得することにした。


「ところで、わたしもう帰っていいのかな?」


 病室のベッドで目覚めると隣に母がいて、医者と看護師がやってきて軽く検診をして問題ないということになった。落ち着いたら帰ってもいいと言われて母も安心していたのだが、しばらくするとやっぱり入院した方がいいのではないかと不安がって、病室を出ていったのだ。

 結局、どうなったのだろう。


「お前が大丈夫なら、もう帰ってもいいんじゃねえの?」

「うーん……」


 捻挫したらしい足を床につけてみる。ひんやりとした感触。痛みはない。少し力を入れてみる。……歩けそうだ。


「よし、帰ろう!」

「……お前な……」


 なぜだか呆れたような顔をしたかと思えば、不意に、湖咲の手が伸びてくる。

 頬を包み込むかのように両手が愛論の顔を挟み――


「こ、こさっちゃん……っ?」

「じっとしてろ」


 湖咲が顔を寄せる。キスでもしそうなくらい近く、額と額が軽くぶつかり、鼻先が触れ合う。間近に吐息を感じ、愛論は自分の顔が熱くなるのを感じた。


「…………」


 目を閉じる湖咲はまるで何かに祈るように愛論と額を合わせる。漠然と、きれいだなと思った。勝気な印象を受ける形のいい眉、細く長い睫毛、肌は白く、そして淡く塗り重ねたようにほのかに赤い。

 包帯越しに、額を通して彼女の体温が伝わってくるような感覚があった。それが全身に巡って、身体の芯から元気が湧いてくるような……。

 熱を帯びる身体。とくとく、どくどくと、少しずつ音を上げる心臓。激しくなるその鼓動が、彼女にも届くのではないかというほどの静けさに――ふと気づく。


「……こさっちゃん」


 なんとなく息を潜めるような小声で呼びかけると、「……んだよ」と湖咲は名残惜しそうに薄らと目を開いた。



「……あのね、」吐息混じりに囁く。「みんな見てるよ……?」



 瞬間、がばっと湖咲が離れた。

 同じ病室の人たちが気遣うようにそれとなく顔を背けると、途端に湖咲の顔が真っ赤に染まる。

 愛論は湖咲の温もりが残る自分の頬に片手を当てて、



「こさっちゃん……続きは、二人きりの時に、ね?」



 湖咲の顔が火を噴く。


「な、むぁ……ち、違うからぁっ!」

「違うって?」

「だ、だから……!」


 小首を傾げてみせると、湖咲は魚みたいに口をぱくぱくしていた。


「お熱、測ってたんだよね?」


 助け舟を出してあげる。


「い、今のはその……手当てだよ! ほら、ああやって手を当ててさ、魔力的なものを送ってお前の回復を促進してやってたんだよ!」

「おでこだったけど……? 額当て? 忍者?」

「あぁ、もう……」


 疲れた、と言わんばかりに盛大なため息を吐き出す湖咲を見て、愛論はくすくす笑う。


「この……調子こきやがって」

「あたっ……。もぉう、怪我人なのにー……」

「ほら、とっとと帰るぞ」

「あ、わたしお腹空いたー。どっか寄ってこー?」


 素っ気なく先に行く湖咲の後を、愛論は追いかけた。




               × × ×




「うーん……片手だとめんどくさいねえ……」


 利き腕が使えないせいで包みを開くのに苦戦する愛論から、湖咲はひょいっとハンバーガーを取り上げた。包みを開いて、にやりと笑う。


「ほら、アイロン。あーん?」

「えー……これあーんってするサイズ違うよ……」


 周りを気にするように愛論は店内に視線を巡らせる。店内にはまばらに客がいるものの、近くの席は空いている。それでも愛論は恥ずかしいのか、少しだけ頬を赤らめた。まるでいけないことでもしているような気分になって、湖咲はハンバーガーを返そうかと思ったのだが、


「もう……」


 頬を桜色に染めながらも小さく口を開きながら、湖咲の差し出すハンバーガーに顔を近づける。ごくり。湖咲は思わず喉を鳴らしていた。

 愛論はハンバーガーにかぶりつくと、不満そうにこちらを睨みながらも、もぐもぐ咀嚼する。ごくん、と嚥下するのが細い首を見ていて分かった。唇の間から満足げな吐息が漏れる。それから愛論はねだるように口を開けて待っていたが、湖咲はさっきより少し手前の位置でハンバーガーを持つ手を止めた。


「ほら、こっちだアイロン」

「あくしゅみー……」


 首を伸ばして、ぱくり。もぐもぐと口を動かす様子がまるで小動物みたいで可愛らしい。


「もう一人で食べられるからー」

「はいはい」


 小さくなったハンバーガーを愛論の前に置いて、湖咲は自分の食事にありつく。我ながらいったい何をやっているのだろうと恥ずかしくなって、ごまかすようにフライドポテトを口に含んだ。


「そういえばこさっちゃん、わたしの鞄って……」

「あー……学校じゃね?」

「だよねー……。もう、どうせお見舞いに来るんなら、持ってきてくれればいいのに……気が利かないなぁ、このっ」

「ちょわ……っ!?」


 愛論が不意に小さくなったかと思えば、内腿に温かな感触を覚えて湖咲はビクッと肩を揺らす。テーブルの下で愛論が足を伸ばしているのだ。湿布を貼っていて靴下を脱いだ爪先が太腿を撫でる。


「お前な……っ」

「えへへー」


 やり返してやろうかと思えば、ちょうど店員が近くを通りがかった。怪訝そうにこちらを見ている――


「っ、」

「うふふー」


 覚えてろよ。瞳で訴えると、愛論の笑顔が強張った。




               × × ×




 空はすっかり朱く染まっていて、帰路につく愛論と湖咲の足下に影が伸びている。

 並んだ影は身長差をはっきりと示しながらも繋がっていた。


「送ってかなくてもいいんだよー? 帰り、反対でしょー?」

「……最近誰かに見られてるって、お前が言ってたんだろ。何かあったらどうすんだよ」

「だいじょぶだよー」

「ストーカーとかいるかもしれねえだろ。……鞄も学校になかったし」

「誰かが家に届けてくれたんだって。もうー、こさっちゃんは心配性だなぁ」

「お前が楽観的すぎんだよ、ったく……」


 子供みたいに、湖咲に手を引かれながらシンとした住宅街を歩く。

 もうすぐ自宅というところで――ふっと、どこからか滲み出たかのように、人影が現れる。


「あぁ、やっぱり」


 つまらなげな声。


「あれー? きよちゃんどうしたのー? そこわたしんちだよねー?」

「……なんでお前がいるんだ」


 厳しい面持ちで湖咲が問いかけると、進行方向に現れた糸群貴世は不機嫌そうな顔のまま、


「声がしたから」

「は……?」


 それから、手にしていた鞄を持ち上げてみせる。


「これ」

「あー! わたしの鞄! きよちゃんが持ってきてくれたの? あ、もしかしてずっと待ってた? 今うち、誰もいなかったり?」


 父は仕事で、母は……まさかまだ病院だろうか。そういえば連絡もせずに出てきてしまったから、心配しているかもしれない。連絡しようにも、携帯は鞄の中だ。

 愛論は貴世から鞄を受け取ろうと踏み出すのだが、湖咲がその手を掴んだまま離してくれなかった。


「こさっちゃん?」

「…………」


 振り返ると湖咲は顔を背ける。怪訝に思いつつも愛論は貴世に近付いて、鞄を受け取ろうと――する目の前で、鞄が地面に落ちた。手が滑ったのか。愛論は貴世の前にしゃがみこんで鞄を手に取る。白いソックスに包まれた彼女の白い脚が目に入る。なんとなく視線を上げると、その脚はきれいな脚線美を描きながら制服のスカートの中に吸い込まれていった。


「…………」


 自分を見下ろす冷たい瞳と目が合って、愛論はにこっと微笑みを返す。


「ありがとねー、きよちゃん」

「……ふん」


 軽く鼻を鳴らして、貴世は愛論の横を抜けていった。


「……んだよ、あいつ……。愛想ねえな」

「こさっちゃんも大概だけどねー」

「あ?」


 去っていく貴世の背中を見つめながら、愛論は呟く。


「でも良い人だよー、委員長でもないのに鞄持って来てくれたし」

「……爆弾とか入ってねえよな?」

「ないない」

「虫の死骸とか……ガラスの破片とか……カッターナイフの芯……」

「……こさっちゃん、そういうの入ってたことあるの?」

「ね、ねえよ! たとえだよ、たとえ!」

「よしよし、こさっちゃんにはわたしがいるからねー? いじめられてもだいじょぶ、だいじょぶー」

「……いじめられてねえし。てか、頭撫でるな! ギプスが痛いわ!」


 頑張って背伸びをして頭をぽんぽん叩くと、湖咲は嫌そうにしながらも無理に跳ね除けはしなかった。



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