勝海舟



 慶応四年四月四日の夕刻に歳三は勝海舟邸を訪れた。


「新選組の土方君かい。お初にお目にかかります。

今は亡き佐久間象三先生から噂は聞いてるよ。

以前うちの義理の甥が新選組に入隊して色々と迷惑かけたね。

ご丁寧な書状を度々たびたび貰ったね。

その節はありがとう。

そういえば先日も書状を貰いましたね。

日野の名主のことだったかな。

それにしても君の字は流麗というか、変っているね。

 

あの有名な新選組の副長は、

どんな人物かと思っていたが噂どおりの色男だな。

だが、さすがに肝が座っている。

官軍に取囲まれている屋敷に、わざわざ一人で乗り込んで来るとは、

やはり只者じゃない。

もっとも行商人姿が似合い過ぎて、

誰も土方歳三だとは気づかないだろうがね。


 近藤君がここまで無事に出世できたのも新選組が活躍できたのも、

裏方の土方君が、しっかり支えていたからだと、

医学所頭取の松本良順先生が言っていたよ。

縁の下の力持ちというか、内助の功だな。土方君はいい女房だ」


好奇心旺盛な輝く目で歳三を真っ直ぐに見つめた。

 

武士らしからぬ個性的な字に見えたのかもしれない。

京都で近藤勇に傾倒して、四年前に初めて武士として生きることを決めた。

所詮しょせんにわか武士。

完全に武士になりきれていない。

勝に痛いところを突かれたと思う。

 

そういや、兵学者の佐久間象山は新選組の屯所に一度だけ、

ふらりとやって来たな。

平生緞子の羽織に古代模様の袴姿が派手で、変わったな侍だった。


近藤先生と酒を酌み交わしていた。

酌してやったさ。

象山を酔わせて、おだてて二首の漢詩を書かせた。

そいつを彦五郎兄さんへの京土産にしたら、すごく喜んでくれたな。

ああいうのが、武士らしい文字ってわけかい。

おれの字は武州多摩の風流人の字だ。

仕方ねえだろう。



勝海舟の妹は佐久間象山の正妻となっていた。 

勝の義理の甥というのは象山の妾腹の子で、いちじるしく素行不良だった。

暗殺された象山の仇をとる為に入隊していたが、まもなく行方不明となる。

 

京都では毎日、次々と騒動が起きた。

細かい事は思い出せないが、むろん隊士たちの名と顔は全員覚えている。

自分が死に追いやった者、斬り合いで死んだ者、生きている者、

行方がわからぬ者。

野獣のような若い隊士たちの面倒を見るのは、特に大変なことだった。


そうさ、女房役だ。

自分でも気狂いかと思うほど、新選組に賭けた。

近藤先生にとことん尽くした。

心底惚れている。


歳三は心の中で叫ぶ。

 

 歳三には勝が江戸無血開城を実現させて、

江戸を戦火から救った幕府陸軍総裁に見えなかった。

軽口をたたき早口でまくしたてる、よくいる江戸の親爺のようだと思った。

だが目の輝きが尋常じゃない。

小男だが存在感に、じわじわと圧倒されていく。

負けてはいけないと、膝の上の拳を握った。


もしかして、あんたが江戸を牛耳り、時勢を動かす妖怪なのか?

あんたも武士には見えねえよ。


「何とぞ、ご無礼をお許しください。

大久保大和が放免される為の助命嘆願書を、

至急にご用意していただきたく思い、

なりふりかまわず、このような姿で押しかけました」


 葛篭つづらを背おい、手ぬぐいをほっ被りして、

うつむき加減で荷を背負う。

杖をつき、猫背で少し腰の曲がった薬売りの姿で、

赤坂にある勝海舟の屋敷を一人訪れたのだった。


夜来によって、薬売りに姿を変えた土方歳三が勝の屋敷を訪問することは、

事前に伝えられていた。

 

屋敷の周囲には殺気立った官軍の兵がうろついていたが、

驚いたことに勝海舟屋敷を護衛する幕府の兵は一人もいなかった。

屋敷内にも数人の女中がいるだけのようだ。

柔よく剛を制すということなのだろうか。

 

歳三は畳に額をこすりつけ懇願した。


 「今は新政府への江戸城明け渡しの件で、寝る間もないほど忙しいが、

今朝、子どもの時分に世話になった月夜野翁が突然訪ねて来て頼まれた。

日野の名主と近藤君の件、できるだけのことはするつもりだ。


とりあえず配下の松浪権ノ丞の書状に、

おれの書状を添えたものを用意させた。


<幕臣の大久保大和は幕府からの命令で脱走兵を取り締まる任務の為、

流山に駐屯していた>という内容だ。

 

だが、もしこの書状が届く前に官軍の中に近藤勇と面識のある者がいて、

大久保大和と近藤勇が、同一人物だとばれたとしたら、

近藤君は助からんかもしれない。


新選組は、いささか目立ち過ぎた。

新選組の局長ともなると官軍は、ただじゃおかないだろうな」


勝は冷たく言い放った。


わかっている。

おれを生かす為に、近藤先生は自ら一人死地へおもむかれた。


歳三は肩を落とし、背中を丸めてうなだれる。


「承知しております。しかし、そこを何とか。

勝阿波守様のお力でよろしくお願い致します。

近藤勇を救ってください。

これまで新選組は会津藩と徳川幕府の命に従って、

京の都の治安を命懸けで守ってきました。

上野の寛永寺では将軍警護も致しました。

まさか、見殺しにされるおつもりではないでしょう」


顔を上げた歳三の一文字に結んだ口は、歪んでいる。

仇にでも会ったかのような暗く鋭い目でにらみつけた。


鳥羽伏見の戦いで傷つき、

苦しみぬいて死んでいった多くの仲間たちの顔が浮かぶ。


おれたちは、ただの捨て駒ってわけか。


「おっと、恐いねえ。鬼の副長に、にらまれちまったよ。

ところで、これからどうするつもりだい。

それを言わなきゃ書状は渡さないよ。

いつも冷静で頭のいい土方君のことだから、

この徳川家の大事な時に、

まさか馬鹿な騒動を起こすようなマネは、しないとは思うがね。


 だが君は、近藤君のことになると、何をしでかすかわからないからな。

くれぐれも近藤君を官軍から奪い返そうなんて考えてくれるなよ。

そんなマネしたら君の大切な故郷の人々一族郎党が、

新選組の支援者として獄に繋がれて苦しむことになる。

多摩には支援者が大勢いるそうじゃないか。


とにかく江戸城を無事明け渡すまでは、静かに大人しくしてもらわないと困る。

君には、わからないかもしれないが、

今は一人の命より、江戸百万人の命運がかかっているのだからね。

武士は大勢たいせいや国の行く末を憂い働くものだ」


勝阿波守はいつの間にか疲れきった、虚ろな目になっていた。


 どうやら勝は今、徳川家を救うことで頭が一杯のようだな。

近藤先生や彦五郎兄さんのことなど、眼中に無いに違いない。

身内の命を助けたいと思い奔走している、おれが間違っているとでもいうのか。

所詮、百姓だと馬鹿にしているのか。


まるで大海の波に弄ばれる小舟みたいに、どこまでも流されて行く。

行き着く先は絶望と死だけなのか。

今のままでは駄目だ。


あらがうことのできる、大きな力が欲しいと歳三は強く望んだ。

心の奥にくすぶっていた炎が、

玉鋼たまはがねを生む〈たたら〉の炎のように風をうけて天高く燃えはじめる。


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