月夜野夜来 


 

 慶応四年 四月四日、江戸の朝の空気は冷たい。

行商人の親子らしき二人連れは、

まだ薄暗い江戸本所亀沢町にある古びた家の前で足を止める。

下男に「石田村からきた薬売り」と伝えるとすぐに、

奥から寝間着姿の主人が現れた。


 「とし君かい?  わしのことを覚えていてくれたのだね。

さあ、早く家に入りなさい。お連れの人もどうぞ。むさ苦しい、あばら家だが」


夜来やらいは座敷に迎え入れてくれた。

歳三の連れは小姓の鉄之助だった。

 

「久しぶりだね。日野の佐藤家では世話になったね。

新選組の噂は聞いていたよ。それにしても立派になって見違えた。

ずいぶん出世したらしいね。

あの優しい、とし君が新選組の副長になるとは夢にも思わなかったよ。

わしは年老いてしまって驚いただろう。

ところで今日は石田散薬の行商で江戸へ来たのかい?

変わった趣向だな。

おや、右頬が少し腫れているじゃないか。

喧嘩でもしたのかい? 」


歳三は葛篭つづらを背負った行商人の姿をしていた。


「ご無沙汰しております、月夜野夜来つきよのやらい様。

本当は馬上武士の晴れ姿をお見せしたかったのですが、

昔のままの姿で参りました。

出世だなんて、たいしたことありません。

田舎の百姓の末っ子が、ほんの少しだけ世の中の動きを知ることができました。

危ないこともありましたが、なかなかおもしろかったですよ」


疲れを隠して笑顔を作った。


「そうか、苦労したようだね。

昔、よく日野へ通っていた頃、跡継ぎがいないわしは、

とし君を養子に欲しいと言ったのだが、

彦五郎さんは笑って取り合ってもくれなかった。

今思えば自慢の弟を手放したくなかったのであろうな。

ただの貧乏武士の養子にはしたくなかったのだな。

とし君に何か大きな仕事をさせたかったのだろう」


夜来は深いため息をついた。

 

「なんと、そのようなことは初めて耳にしました。

そのように思っていただいて、身に余る光栄でございます」


意外なことを聞かされ驚きを隠せなかった。

数年ぶりに再会した夜来は、やはり老けこんでいた。


「お会いできて良かった。

朝早くから突然押しかけ、申し訳わけありませんでした。

ご無礼をお許しください。

折り入ってお話がございます。

昔馴染みの歳三の願いをひとつ聞いていただけないでしょうか」


武士から、すっかり元の穏やかな日野の歳三の顔になった。

 

 彦五郎が自分のことを自慢の弟だと思っていたとは、

にわかには信じられないが、少しは期待してくれていたのだろうか?

歳三の心には暖かい風が吹きこんだ。

幼い頃に両親を病で亡くした。

もう顔すら覚えていない。

姉の嫁ぎ先の佐藤家を頼って生きてきた。

自分は厄介な居候だったと思う。

幼い頃から憧れて敬愛していた従兄弟。

二十代の若き名主、佐藤彦五郎は、

日野郷を視察に来た幕府の老獪な役人たちと対等に渡り合っていた。

河川工事など様々な村の難問を次々と解決していく。

そんな彦五郎の姿は、気ままな居候の自分には、一つ屋根の下に暮らしながらも、

なお手の届かない眩しい雲の上の人だった。


〈辻風に まけて曲るな 今年竹ことしだけ


京へ旅立つ歳三へ、

彦五郎が詠んでくれた句を懐かしく思い出して、胸が熱くなる。


義兄さん、今どうしているかな。

 

 

 歳三の、これまでの話しを聞き、夜来は羽織袴姿に着替える。

見違えるほど立派なご隠居姿になると、

今日中に歳三と勝海舟が会見できるように根回しをすると言って、

朝餉あさげも取らずに出かけて行った。

 

 夜来は勝海舟の父の勝小吉と幼馴染だったのだ。

互いの家が近かったので勝家との交流があったらしい。

佐藤家で夜来の身の上話や世間話を聞いていた歳三は、

そのことをはっきりと覚えていた。

流山から江戸へ着くと、すぐに夜来の家へ向かったのだった。

佐藤家の客としては、ただ一人、歳三に自分の素性を語り、

江戸へ来た際は訪ねておいでとまで言ってくれた人だった。  

 

 夜来は佐藤彦五郎に害が及ぶことがないように、最善を尽くすと言ってくれた。

日野の佐藤家で夜来とは同じ時を過ごした。

人柄は信頼できる。

とにかく近藤先生を取り戻す為に一刻も早く勝海舟に面会して、

流山の顛末てんまつを伝えなければ・・・・・・

 

 自分だけの力ではないが、なんとかここまで新選組を引っ張ることができた。

まだ自分はやれる。

勝海舟と大久保一翁の書簡を用意できれば、

大久保大和こと近藤勇を助けることができるはずだ。

目の前の闇が薄らいでいく。

眩しい朝日が差し込んで来た。

台所からは味噌汁の匂いが漂ってくる。

そういえば昨晩から何も食べていない。

流山から江戸まで夜通し歩いた歳三は、

一人きりとなった座敷で激しい空腹と疲労を感じた。


近藤先生、待っていてください。


 

 朝の食事を膳に乗せて運んで来た鉄之助が廊下から

「土方先生」と一声かけたが返事がない。

襖を少し開けて中の様子を伺うと、

気を失ったように仰向けになって深い眠りに落ちていた。

鉄之助は持ってきた羽織を、そっと掛けてから、

いつになく穏やかで美しい寝顔を、息を呑んで見つめた。


「何か良いことがあったのですね?」


静かに問いかけていた。

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